「一」から「万」の数字を含むことわざ・慣用句(その13)「二十」「二十五」

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十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人

数字を含むことわざ・慣用句と言えば、「三人寄れば文殊の知恵」とか「三つ子の魂百まで」などたくさんあります。

前回は「人数・年齢・回数・年月や時間・距離・寸法」を表す数字を含むことわざ・慣用句を紹介しました。そこで今回は、その他の「一」から「万」までの数字を含むことわざ・慣用句をまとめてご紹介したいと思います。

なお面白い数字の単位についての話は、前に「数字の単位は摩訶不思議。数字の不思議なマジック・数字の大字も紹介!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧下さい。

13.「二十」「二十五」を含むことわざ・慣用句

(1)十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人(とおでしんどうじゅうごでさいしはたちすぎればただのひと):幼少期に非常にれていると思われていた子も、たいていは成長すると共に普通の人になってしまうこと。

早熟の人間が、少年時代に神童と呼ばれる場合が多くあるため、このことわざが出来たと考えられます。

十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人

「神童」とは、運動能力や学業成績などが、同年代の者に比べて現時点で優れていることを意味し、その者の能力が特別に優れているとは限りません。

能力がすぐれているというよりも、同年代の者よりも成熟が早いだけという場合があります。

才子とは、才能や知恵に恵まれた人のことです。

子供が示せば驚異的な能力でも、大人では一般的で平凡な能力である場合が多いことから、十歳でずば抜けた能力を示して神童と呼ばれた人も、十五歳ではややすぐれた才子と呼ばれ、二十歳を過ぎればただの凡人になるという、幼いときに特異だと言われていても、成長するにつれて平凡な普通の人になってしまう意味のことわざです。

(2)男は二十五の暁まで育つ(おとこはにじゅうごのあかつきまでそだつ):男は二十五歳くらいまでは成長するということ。

(3)二十五菩薩もそれぞれの役(にじゅうごぼさつもそれぞれのやく):二十五菩薩にもそれぞれの役目があるように、人間にも各自の役目があるということ。

「二十五菩薩」とは、往生を願う信者が臨終の時に、阿弥陀仏とともに迎えに来るといわれる二十五体の菩薩のこと。