高槻市は今でこそ大阪のベッドタウンという印象がありますが、なかなか古い歴史のある町です。
高槻市内には京都市にあるような広大な寺院や神社はありませんが、古い歴史を持つ神社が少なくありません。
今回は高槻城跡の近くにある「八幡大神宮(八幡神社)」をご紹介したいと思います。
1.「八幡大神宮」とは
(1)御祭神:応神天皇(おうじんてんのう)、天児屋根命(あまのこやねのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)
なお、応神天皇は「勝負運神」、天児屋根命は「運筆道幸神」、建御名方命は「武道守護神」です。
(2)境内社:月読神社(つきよみじんじゃ)、稲荷神社(いなりじんじゃ)
なお、月読神社は「月世界神」、稲荷神社は「豊宇気大神(衣食住神)」です。
高槻市八幡町2(阪急高槻市駅から南へ徒歩15分)にある「八幡大神宮(はちまんだいじんぐう)」は、私が子供の頃遊び場にしていた所のひとつです。
境内には巨大なご神木のアベマキが聳え立っています。クヌギによく似た樹皮の木ですが、このアベマキの古木には圧倒されるような存在感があります。
創建年月は不詳ですが、社伝によれば上古畿内に大洪水があった時に応神天皇の像と白羽の矢がこの地に流れ着き、これを祀ったのが最初だそうです。
戦国時代(元亀年間)、キリシタン大名だった高槻城主高山右近の放火により、社殿・什器宝物類がことごとく焼失しましたが、その後、「牛頭天王(ごずてんのう)」(現在の「野見神社」)とともに「高槻城の守護神」として歴代城主の崇敬厚く、1619年(元和5年)に高槻城主松平紀伊守が社領を寄進し、1638年(寛永15年)には高槻城主岡部美濃守が社殿を再興しています。
2.「八幡宮」の起源と歴史
(1)起源
「八幡宮」とは、「八幡神(はちまんじん、やはたのかみ)」を祀る神社です。「八幡神」とは、「彦火火出見(ひこほほでみ)尊」とする説もありますが、普通は「応神天皇」あるいは「応神天皇・比売(ひめ)神・神功皇后の3神」のこととされています。
八幡神が祀られたのは、725年創建の「宇佐神宮(宇佐八幡宮)」(大分県宇佐市)が最初だと言われています。
「宇佐神宮」は、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社です。宇佐神宮では巫女大神(おおが)氏一族が神託を告げることでよく知られていました。
「石清水八幡宮」「筥崎宮」(または「鶴岡八幡宮」)とともに「日本三大八幡宮」と呼ばれています。
「八幡」の意味は、「八つの旗(幡)」という意味で、応神天皇の母である神功皇后が「三韓征伐」の時に対馬に寄った際、八つの旗(幡)を祀ったのが起源とされています。
(2)歴史
「宇佐神宮」に次いで、859年に清和天皇が「石清水八幡宮」に分霊し、諸源氏の氏神として尊崇されました。源頼朝が「鶴岡八幡宮」に分祀して以降、全国の武士・庶民の間に分社・末社が広まりました。
3.「宇佐八幡宮神託事件」
「宇佐八幡宮」を巡っては、「宇佐八幡宮神託事件」という歴史上有名な事件があります。
「宇佐八幡宮神託事件」とは、769年に「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」という僧侶が天皇位を得ようとして起こした事件です。
これは「東洋のラスプーチン」とも呼ばれる弓削道鏡という怪僧が祈祷を通じて女帝の「孝謙天皇(重祚して称徳天皇)」(718年~770年)に取り入って寵愛され、自ら天皇になることを画策したものですが、最終的に道鏡は和気清麻呂によってその野望を打ち砕かれました。
道鏡の弟で太宰帥の弓削浄人らが「道鏡を皇位に就かせたならば天下は泰平である」との宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡も自ら皇位に就くことを望んだのです。もちろん称徳天皇も道鏡が天皇になることを望んでいました。
称徳天皇は「夢で八幡神から宇佐神宮へ尼僧・和気広虫を派遣するよう求められた」として彼女を派遣しようとしましたが、体が病弱で長旅に耐えられないと辞退したため、弟の和気清麻呂を派遣しました。
和気清麻呂が巫女に改めて神託を問うと、「道鏡は悖逆無道(はいぎゃくむどう)」、「天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒(こうちょ)を続(つ)げよ」との道鏡不適格の託宣を得ました。
彼はこの「道鏡不適格の託宣」を天皇に奏上したため、天皇の逆鱗に触れ大隅国へ流されますが、このような託宣が出た以上天皇も道鏡を天皇の位につけることを断念せざるを得なくなりました。そして天皇の死後に道鏡は失脚しました。