白洲次郎については、妻の白洲正子の随筆や、2006年に放送されたNHK「その時歴史が動いた マッカーサーを叱った男」、2009年に放送されたNHKドラマスペシャル「白洲次郎」(主演:伊勢谷友介)によって広く知られるようになりました。
白洲次郎のイメージは、「プリンシプルを持ったイギリス仕込みのダンディな紳士」で、「戦前のヨーロッパ大陸でベントレーやブガッティを乗り回していた」「イギリス貴族仕込みのキングズイングリッシュでGHQに正面から対峙し吉田茂首相を助けた」「天皇陛下からのプレゼントをぞんざいに扱ったマッカーサーを怒鳴りつけた」などの伝説的エピソードで彩られていますが、実体はあまりよく知られていません。
そこで今回は白洲次郎についてもう少し詳しくわかりやすくご紹介したいと思います。
1.白洲次郎の生涯
白洲次郎(1902年~1985年)は、戦後東北電力会長などを務めた実業家で貿易庁長官や吉田茂首相の側近も務めました。
(1)生い立ち
彼は貿易商白洲文平(1869年~1935年)の次男として兵庫県武庫郡精道村(現芦屋市)に生まれました。後に伊丹市に転居しています。
1914年に旧制神戸一中(現兵庫県立神戸高校)に進学し、サッカー部と野球部に所属しました。同級生には、後に文化庁長官となった今日出海(こんひでみ)(1903年~1984年)や中国古典文学の大家吉川幸次郎(1904年~1980年)がいます。
旧制神戸一中時代に、「宝塚歌劇団」の生徒と恋仲になったことがあるそうです。また父親から買い与えられたアメリカ車ペイジ・オートモビルのグレンブルックを乗り回していたそうです。
祖父の白洲退蔵(1829年~1891年)がキリスト教伝道系学校の「神戸女学院」創立に関わったことから、白洲家には外国人女性教師が寄宿しており、ネイティブな英語を学んでいます。
(2)イギリス留学
1919年に神戸一中を卒業して、イギリスのケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学し、西洋中世史や人類学を学んでいます。ここで後に7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(愛称ロビン)と親交を結び、イギリス貴族のライフスタイルを知ります。
なおケンブリッジ大学への留学は「聴講生」で、ケンブリッジ大学を卒業したわけではありません。
彼いわく、「この留学は島流しだった」そうですが、カメラはライカ、クルマはスポーツカーのブカッティやベントレーを所有し、1925年冬にはベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を行っています。
(3)帰国
1928年、神戸市で父が経営していた「白洲商店」が昭和金融恐慌の煽りを受けて倒産したため、留学を断念して帰国しました。
そして1929年、英字新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に就職し、記者となりました。同年、後にエッセイストとして活躍する伯爵令嬢の樺山正子(白洲正子)と結婚しています。
1931年にはケンブリッジ大学留学時代の学友のジョージ・セールが社長を務める貿易会社のセール・フレイザー商会に勤務して取締役となり、1937年には日本食糧工業(後の日本水産)取締役となっています。
この間、商談などで海外に赴くことが多く、当時駐英大使だった吉田茂(1878年~1967年)の知遇を得て、駐英大使館を自らの定宿とするまでになりました。
またこの頃、首相秘書官の牛場友彦(1901年~1993年)や尾崎秀実(1901年~1944年)とともに近衛文麿(1891年~1945年)首相のブレーンとして行動しています。
ちなみに牛場友彦は東大とオックスフォード大学を卒業した官僚で、実弟は外務事務次官を務めた牛場信彦(1909年~1984年)です。尾崎秀実は内閣嘱託も務めた評論家・ジャーナリストですが、実は共産主義者・ソビエト連邦のスパイであり、1941年に「ゾルゲ事件」が発覚して死刑となりました。
(4)戦時下の活動
第二次世界大戦勃発の翌年の1940年に、東京府南多摩郡鶴川村の古い農家を購入し、武相荘(ぶあいそう)と名付け、政治や実業の一線から離れて農業に励む日々を送りました。この名前は「鶴川村」が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったためだそうですが、「無愛想」にも掛けているようです。
その後「赤紙」によって兵役召集を受けますが、軍の参謀長だった知人の辰巳栄一に頼み込んで「兵役逃れ」をしたそうです。
イギリス留学時代に、日本と諸外国との国力差を痛感していた彼は、当初から戦争に反対の立場を貫いていました。
(5)終戦連絡中央情報局
1945年、東久邇宮内閣の外相に就任した吉田茂の懇請で、終戦連絡中央情報局(終連)の参与に就任します。
GHQの要求に対して、彼はイギリス仕込みの流暢な英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめました。
昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたことに激怒し、「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせたと言われています。
(6)憲法改正
1945年、憲法改正問題で佐々木惣一京大教授に憲法改正の進捗を督促しています。1946年2月13日、松本烝治国務大臣が中心となって起草した憲法改正案(松本案)がGHQに拒否された際に、GHQ案(マッカーサー案)の提示を受けています。
GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった彼は、2月15日に「GHQ草案の検討には時間を要する」とコートニー・ホイットニー民政局長に宛てて書簡を出して時間稼ぎをしようとしましたが、GHQから「不必要な遅滞は許されない」と言明されました。
(7)貿易庁長官とサンフランシスコ講和会議全権団顧問
1945年12月には、商工省の外局として設立された貿易庁長官に就任し、汚職根絶などに辣腕を振るい、「白洲三百人力」と言われました。
同年、日本最大・最新鋭の日本製鐵広畑製鉄所が、日本側に返還されることになりました。彼は「外貨獲得のためにイギリス企業への売却」ことを主唱しましたが、永野重雄(1900年~1984年)の反対にあって頓挫しました。
彼は「俺はボランティアではない」が口癖で、イギリス留学時代の人脈をフルに活用して、イギリス企業やアメリカ企業の日本進出時に代理人を務めています。
1950年の連合国との講和問題で、池田勇人蔵相や宮澤喜一蔵相秘書官とともに渡米し、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約締結の準備を開始しています。
1951年9月の「サンフランシスコ講和会議」には、全権団顧問として随行しています。
この会議で吉田首相は当初英語で演説するつもりでしたが、日本の「ディグニティ(尊厳)」のために、当日になって急遽日本語で演説することになったそうです。
白洲次郎によれば、「受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上でGHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いた」ことに彼が激怒し、「講和会議というものは、戦勝国と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝し、急遽日本語に書き直したそうです。
(8)実業界での活躍
吉田首相の側近のころから「公社民営化」を推進しており、1949年には日本専売公社が発足し、1951年5月には日本発送電の9分割によって誕生した9つの電力会社のうちの一つである東北電力の会長に就任しています。
そのほか大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任しています。
晩年は「軽井沢ゴルフ俱楽部」の理事長を務め、ゴルフに興じました。
2.白洲次郎の言葉
・プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。・・・西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたきこまれたものらしい。
・我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない。
・地位が上がれば役得ではなく「役損」というものがあるんだよ。
・人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない。
・自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民に見せるために、あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる。(日本国憲法を巡ってのGHQとの攻防の折、宮澤喜一に対して)
・この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時が来れば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える。
・占領下の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人、一人は吉田茂であり、もう一人はこの僕だ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなりずっと表街道を歩いたが、もう一人の僕は別に国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども一人くらいはこういう人間がいてもいいと思い、別にそのことで不平不満を感じたこともないし、今さら感ずる年でもないと思っている。
・税金が増えて、我々の生活が今よりぐっと苦しくなっても、なお外国の軍隊を国内に駐留させるよりもいいというのが国民の総意ならば、安保など解消すべし。
・今の政治家は交通巡査だ。目の前に来た車をさばいているだけだ。それだけで警視総監にはなりたがる。政治家も財界のお偉方も志がない。立場で手に入れただけの権力を自分の能力だと勘違いしている奴が多い。
この最後の言葉は、今の菅義偉内閣の閣僚全員に拳拳服膺(けんけんふくよう)してほしい言葉です。
もちろん、彼の言葉を100%鵜呑みにするべきではありません。「兵役逃れ」のような影の部分もあります。
西郷隆盛(1828年~1877年)との談判によって江戸城無血開城を成功させたと言われる勝海舟(1823年~1899年)と似た「はったり」や「自慢話」もあるように感じられるからです。
なお蛇足ながら、彼は「葬式無用、戒名不用」という遺言書を残しています。