近代哲学の祖と言われるカントとはどんな人物だったのか?

フォローする



カント

大正時代に学生の間で流行した「デカンショ節」の「デカンショ」は哲学者のデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だという話があります。

これについては、前に「デカンショ節にまつわる面白い話。歴史や名前の由来などを紹介。」という記事に詳しく書いていますので、興味のある方はぜひご覧下さい。

ところで、この三人の哲学者の名前は知らない人もいないほど有名ですが、それぞれの人物の生涯や思想については、詳しく知っている方は少ないのではないかと思います。

そこで今回は、カントの人物と生涯についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.カントとは

イマヌエル・カント(1724年~1804年)は、東プロイセンの哲学者です。「近代哲学の祖」や「ドイツ観念論の祖」と呼ばれますが、家庭教師や講師を経て46歳でケーニヒスベルク大学の哲学教授となった遅咲きの哲学者です。

純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらしました

2.カントの生涯

(1)生い立ちと少年時代

イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(今のポーランドとリトアニアに挟まれた飛び地のロシア領カリーニングラード)(*)で馬具職人の第四子として生まれました。両親はルター派の敬虔主義を信仰していました。

バルト海に面したケーニヒスベルクは商業の中心地であり、とても国際的な都市であったと言われています。

カントはこの都市で、ヨーロッパを中心とした世界の情報や学問的知識に触れながら自らの思想を発展させていったのです。

カリーニングラード

(*)東プロイセンの首都ケーニヒスベルクあたりは、もともとポーランド領でしたが、13世紀ごろ異教徒攻略のためにドイツ騎士団を招き入れました。ドイツ騎士団が勝利して都市を築き、植民者をヨーロッパ各地から呼び込んだ結果、ドイツ人化して強大な軍事力を備えた国家・東プロイセンとなりました。

第一次世界大戦後、ドイツ領・東プロイセンとなりましたが、第二次世界大戦でドイツが敗れると、北半分がソ連に、南半分がポーランドに分割されました。そしてこの地域はソ連・カリーニングラード州(下の画像参照)となりました。

余談ですが、カリーニングラードは軍港で、日露戦争で日本の連合艦隊と戦って敗れたロシアのバルチック艦隊はここから出航しました。

カリーニングラード

彼は生涯のほとんどをその地で過ごし、そこで没しました。同時代の思想家・哲学者であるジャン=ジャック・ルソー(1712年~1778年)や百年以上前に活躍した哲学者ルネ・デカルト(1596年~1650年)がヨーロッパ各地を遍歴・放浪したのと大違いですね。

1732年(8歳)、敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に入学しました。同校ではラテン語教育が重視されたほか、哲学は正規授業としてあり、ヴォルフ派の哲学が教えられていました。

(2)大学時代および卒業後数年間

1740年(16歳)にケーニヒスベルク大学に入学し、神学、哲学、自然科学、数学を学びました。アイザック・ニュートン(1642年~1727年)の活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究しました。

1746年(22歳)、父の死去により学費が続かなくなって大学を中退しました。クヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったようです。

卒業後の7年間はカントにとっては苦しい時期で、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計を立てていました。

(3)「前批判期」

カントの哲学者としての道のりは、『純粋理性批判』出版の以前と以後に区分され、「前批判期」と「批判期」と区別されます。

①大学の講師として哲学者生活に入る

1755年(31歳)春、『天界の一般自然史と理論』を刊行しました。

この論文でカントは太陽系が星雲から生成されたと主張しており、この学説は1796年にラプラスが唱えた理論と似ていたため、19世紀にはカント・ラプラス理論と呼ばれました。

4月にはケーニヒスベルク大学哲学部に哲学修士の学位取得のため、ラテン語論文『火について』を提出し、修士学位を取得しました。

そして就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』を書いて、同大学の私講師(今で言う「非常勤講師」)となり、論理学、数学、物理学、形而上学、自然地理学などの科目を担当することになりました。

②大学教授への就職活動としての論文執筆

1756年(32歳)、恩師クヌッツェンの逝去により欠員が出た論理学・形而上学教授の地位を得るため、『自然モナド論』を執筆しました。しかし、プロイセンがオーストリアとの「七年戦争」を開始し、財政的理由のため欠員補充をしない方針を打ち出したため、教授就任の話は白紙となりました。

1763年(39歳)、『神の存在の唯一可能な証明根拠』を出版し、初めて学界から注目されます。

1764年(40歳)、『美と崇高との感情性に関する観察』を出版しました。

1765年(41歳)、理性批判のアイデアが公にされました。また同年より始まったランベルトとの書簡の中で、自然哲学と実践哲学の形而上学的原理の構想を示し、「自らのあらゆる努力は、主として形而上学の本来的方法を、この方法を通じてまた全哲学の方法を目標としている」と述べています。

1766年(42歳)には、批判期の到来を予感させる『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』を出版しました。

同書では、スウェーデンの視霊者・神秘主義者スヴェーデンボリが起こしてみせたと主張する超常現象を紹介すると同時に、現在の形而上学の粗野な方法論と来るべき展望について語っています。

③王立図書館副館長に就任

1766年(42歳)にケーニヒスベルク王立図書館副館長に就任し、博物美術標本室監督も兼任しました。

1769年(45歳)にエアランゲン大学の論理学・形而上学教授に招聘されますが固辞しました。

④ケーニヒスベルク大学教授に就任

1770年(46歳)にはイェナ大学から哲学教授職への就任を打診されましたが、これも辞退し、最終的に1770年3月、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授に任命されました。

同年『可感界と可想界の形式と原理』を出版しました。

同書は、この後十年余りにわたる沈黙と模索の期間を経て公にされることになる『純粋理性批判』に直接間接につながってゆく重要な構想の芽生えを多く含むものです。

これを契機に「人間理性の限界の学としての形而上学」という構想は、たんなる漠然とした模索の段階を脱して、着実な実現の緒に就きました。

後にこの時代を振り返ったカントは、「1769年に大きな光が与えられた」と述べており、それは一般的に空間と時間の観念性の発見であると考えられています。

『純粋理性批判』が出版されるまでの10年近い間は、「沈黙と模索の期間」でした。しかしその間、むしろ大学での業務は多忙になっていました。

1772年(48歳)からは人間学講義が開講され、1776年(52歳)には哲学部長に就任、同年夏学期の授業時間は週16時間にのぼっています。

1779年(55歳)冬学期には二度目の学部長就任、1780年(56歳)にはケーニヒスベルク大学評議会会員となっています。

(4)「批判期」

①『純粋理性批判』を出版

1781年(57歳)「三批判書」の一つ目である『純粋理性批判』を出版しました。

しかし『純粋理性批判』の反響はほとんどなく、売上も芳しくありませんでした。同時代の哲学者ハーマンやメンデルスゾーンにはもっぱら不評だったと言われています。

そのうえ、1782年(58歳)に雑誌『ゲッティンゲン学報付録』に出た匿名書評ではカントの思想がバークリの観念論と同一視されていました

そのためカントは翌1783年(59歳)に出版した『プロレゴーメナ』や『純粋理性批判』第2版「観念論反駁」の中で、反論しています。

同時代人の第一印象では、カントはバークリやヒュームと同様の懐疑論者とみなされたのです。

批判哲学のプロジェクトは『純粋理性批判』以降、自然学・実践哲学(道徳論・法論)・美学・歴史哲学・宗教へと多岐にわたって展開されます。

自然学分野は『自然科学の形而上学的原理』(1786年)や『判断力批判』第二部の中で展開され、実践哲学は『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)や『実践理性批判』(1788年)、『人倫の形而上学』(1797年)が主著となっています。

美学については、同時代のバウムガルテンの影響を受けつつ大きく議論を展開させた『判断力批判』第一部に書かれています。

批判期以降、カントは様々な論争に巻き込まれ、また自ら論争に介入していきました。特に論争の場として重要だったのは、1783年(59歳)にゲディケとビースターによって創刊された雑誌『ベルリン月報』です。

カントは十数本の論文を『ベルリン月報』に掲載していますが、そのなかには「敢えて賢かれ、自らの悟性を用いる勇気を持て」という言葉が有名な小論「啓蒙とはなにか」(1784年)も含まれています。

この問いかけもまた、論争の産物でした。同時期のプロイセンではフリードリヒ大王のもと、「啓蒙」の有用性とその限界が議論されていたからです。

また、1785年(61歳)にはヘルダーの『人類史の哲学の理念』(1784年-91年)をめぐって、カントはヘルダーと論争を繰り広げてました。

他にも、スピノザ主義をめぐってレッシングやヤコービ、メンデルスゾーンらが繰り広げた汎神論論争に加わりました(「思考の方向を定めるとはどういうことか」(1786年))。

②ケーニヒスベルク大学総長に就任

1786年(62歳)、カントはケーニヒスベルク大学総長に就任しました。

同年8月にはフリードリヒ大王が崩御し、代わってフリードリヒ・ヴィルヘルム二世が即位しました。先代が啓蒙君主と呼ばれるほどフランス啓蒙哲学に通じ、自らの宮殿にヴォルテールやラ・メトリを呼び寄せたほどだったのに対し、この新しい君主は守旧的であり、宗教神秘主義にも傾倒していました。

③『実践理性批判』を出版

1788年(64歳)「三批判書」の二つ目、『実践理性批判』を出版しました。

1788年(64歳)には宗教・文教行政を担っていた法務大臣ヴェルナーが宗教検閲を発布し、1792年(68歳)にはカントが『ベルリン月報』に発表した「人間の本性における根源悪について」が検閲に引っかかりました。

この論文は検閲を通過したものの、次の「人間の支配をめぐる善現理と悪原理の戦いについて」は出版不許可となりました。

両論文は1793年(69歳)には『単なる理性の限界内における宗教』として発表されましたが、1794年(70歳)にはカントの宗教論が有害だという勅令が出され、カントは宗教・神学に関する講述を禁じられてしまいます。

カントはこうした検閲や勅令に粛々と従っていましたが、他方で1789年に勃発した「フランス革命」については、それがジャコバン独裁を経て過激化していった時代にもなおそれを称賛していました。

④『判断力批判』を出版

1790年(66歳)「三批判書」の最後、『判断力批判』を出版しました。

国際政治情勢が激動する時代にあって、カントはそれに呼応するかのように、「理論では正しいかもしれないが実践の役には立たないという俗言について」(1793年)や『永遠平和のために』(1795年)、『人倫の形而上学』「第一部・法論の形而上学的定礎」などで共和制と国際連盟について論じました。

⑤教職を引退

1796年(72歳)7月、論理学の講義を最後に教職を引退しました。

カントは晩年、身体の衰弱に加えて思考力の衰えを感じつつも、自然科学の形而上学的原理から物理学への移行という課題に取り組み続けました。この課題は完成されませんでしたが、一連の草稿は『オプス・ポストゥムム』として知られています。

⑥死去

1804年(79歳)2月12日、今で言う老年性認知症が進行する中、老衰により死去しました。

最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと伝えられています。2月28日、大学墓地に埋葬されました。

カントは簡素な葬儀を望みましたが、葬儀は二週間以上にわたって続き、多くの参列者が死を悼みました。

3.カントにまつわるエピソード

(1)規則正しい人

カントは非常に「ルーティーン」(決まった手順、日課)が大好きだったようです。

彼は東プロイセンにあるケーニヒスベルクという町に生まれ、その生涯のほとんどをこの地から離れることなく過ごしました。

彼は変化を好まず、毎日同じスケジュールに沿った生活をこよなく愛しました。

毎朝同じ時間に起き、決まった時間に散歩に行き、決まった時間に仕事をし、決まった時間に食事をし、毎晩決まった時間に寝るという生活を貫きました。

あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したと言われます。

これでは彼が外国旅行にも行かなかった(行けなかった?)のも頷けますね。

ある日いつもの時間にカントが散歩に出てこないので、周囲の人々は何かあったのかと騒ぎになりました。

実はその日、カントはジャン=ジャック・ルソーの「エミール」を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのでした。カントはルソーに関し、『美と崇高の感情に関する観察』への『覚書』において「わたしの誤りをルソーが正してくれた。目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」と述べています。

(2)性格は社交的で、趣味人

そのあまりに狂いなく正確な行動に、一見するとその人物像は気難しい堅物を想像させます。

しかし実際の彼の性格はとても社交的で、食事の席には頻繁に多くの知人が訪れました。

規則正しい散歩の後、カントは、夕方から友人を集めて会食しました。カントの論敵の一人であるヨハン・ゲオルク・ハーマンは、同時に親しい友人でもあり、しばしばこの食事会の客となりました。

カントは、ウィットに富む談話を好み、世界の最新情報にも通じ、その話題の広さには会食者も感嘆しました。しかし、客が哲学の話題に触れると、露骨に嫌な顔をしたそうです。

(3)ユーモアあふれる内容の講義

カントはケーニヒスベルク大学の哲学教授となりましたが、彼が行う講義はユーモアあふれる内容で学生の人気が高かったと言われています。弟子のヘルダーによれば、カントの講義は精彩に富み魅力あるものでした。

カントは生き生きと語る熱心な教師でした。カントが旺盛な知的好奇心を持ち、その話題が豊かであったことからも、教師としてのカントの姿が彷彿とされます。

(4)独身主義者

カントは生涯独身を通しました。彼が哲学の道に入る契機となったニュートンも独身でしたが、ニュートンの場合は、仕事に忙殺され恋愛の暇がなかったと言われます。

カントの場合は、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされます。真相は不明で、カントもまた、ニュートンのように仕事に忙殺されていた可能性も否定できません。

(5)名前と容姿

カントの両親は、彼をエマヌエル(Emanuel)と名付けましたが、長じてカントはヘブライ語を知り、その知識からイマヌエル(Immanuel)とみずから改名しました(「イマヌエル」עמנואלとはヘブライ語で「神は我らと共にあり」という意味)。

カントの容貌については、弟子の証言によると、青く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な人物でした。身体は骨格・筋力ともにやや貧弱で、正装する時には服が身体から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったそうです。

身体の割に頭は若干大きめでした。体躯は貧弱であったものの、有名な規則正しい生活習慣など健康管理に心を配ったため、顔色も良く、最晩年まで大きな病気とは無縁でした。

(6)青少年教育批判

カントは、規則で生徒たちを縛り上げる厳格な教育方針で知られたフリードリヒ学校に入学し、その教育方針を身をもって経験しました。しかし、後に彼は、この学校の教育方針について批判を記しました。啓蒙の哲学者カントの面目躍如と言えます。