生の哲学の祖と言われるショーペンハウエルとはどんな人物だったのか?

フォローする



ショーペンハウエル

大正時代に学生の間で流行した「デカンショ節」の「デカンショ」は哲学者のデカルト・カント・ショーペンハウエルの略だという話があります。

これについては、前に「デカンショ節にまつわる面白い話。歴史や名前の由来などを紹介。」という記事に詳しく書いていますので、興味のある方はぜひご覧下さい。

ところで、この三人の哲学者の名前は知らない人もいないほど有名ですが、それぞれの人物の生涯や思想については、詳しく知っている方は少ないのではないかと思います。

そこで今回は、ショーペンハウエルの人物と生涯についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.ショーペンハウエルとは

アルトゥール・ショーペンハウエル(1788年~1860年)は、「生(せい)の哲学の祖」と言われるドイツの哲学者で、主著は『意志と表象としての世界』です。ペシミズム(厭世主義)の代表格とも言われます。

2.ショーペンハウエルの生涯

(1)生い立ちと幼少時代

アルトゥール・ショーペンハウエルは1788年、富裕な商人であった父ハインリヒと、名門トロジーネル家の出身であった母ヨハンナ・ショーペンハウアーの長男として自由都市ダンツィヒ(現在のポーランドの都市グダニスク)に生まれました

1793年(5歳)、ダンツィヒがプロイセンに併合された際に一家はハンブルクへ移住、妹アデーレが生まれた1797年(9歳)には当時の国際語であったフランス語習得のためルアーヴルの貿易商グレゴアール・ド・ブレジメール家に2年間預けられました。

グレゴアールの息子で彼と同年であったアンティームと親交を結び(以後長く友情が続くこととなる)、この地で幸福な時間を過ごしました。

ハンブルクに帰った1799年(11歳)から約4年間、商人育成のためのルンゲの私塾に通学します。彼はギムナジウムへの進学を希望しましたが、息子を商人にしようとする父に反対され、結局「後に商人になるという約束」のもとで2年間のヨーロッパ周遊の途にのぼることとなりました。

1800年(12歳)、家族と共に3ヵ月のプラハ旅行に出ており、1803~1804年(15~16歳)にはやはり家族と連れ立ってヨーロッパ周遊大旅行(オランダ、イギリス、ベルギーフランス、オーストリア、シュレージェン、プロイセン)へ出ています。

これらの旅行は父の商用旅行を兼行われておりおり、彼自身の旅日記が残されていますが、上流階級との交流や劇場、美術館訪問などが記されていると同時に、路上の物売り、大道芸人、みすぼらしい旅館や居酒屋、旅人たちの労苦、民衆の貧窮、過酷な強制労働、絞首刑の場面など社会の底辺の悲惨と苦しみにも目が向けられ、しばしば激しい衝撃を受けていたことが窺われます。

その多くの感想には早くも厭世主義的な気分や判断が見られます ただし、「厭世主義」といった言葉は一度たりとも彼の著作には見られない用語であり、厳密に言えば正確ではありません。

(2)ギムナジウム・大学時代

ハンブルクに帰ってきた翌年の1805年(17歳)1月、商業教育を受けるために当時のハンブルクで最も優れた実業家にして、ハンブルク市参事(閣僚に相当)であったイェニッシュの商会に入りましたが、4月に父が不慮の死を遂げます。

1806年(18歳)、伝統あるショーペンハウエル商会が解散すると、義務的に続けられる商業教育と精神的な仕事への渇望との板挟みに会い苦しむようになりましたが、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立ちます。

翌1807年(19歳)、既にワイマールに移住していた母からの手紙で、学問の道に進むことへの助言と励ましを与えられ、これが彼の将来を決定することになります。

6月にハンブルクを去りゴータのギムナジウムに入り、12月にはワイマールのギムナジウムに転じます。

1808年(20歳)、ギムナジウムの校長で優秀なラテン語学者であるレンツにラテン語の会話を習っています。

1809年(21歳)、ゲッティンゲン大学に入学し医学部に籍をおきながら、最初の哲学の師となるゴットリープ・シュルツェのもとで哲学を学び、翌1810年(22歳)には哲学部へ移ります。

かねてよりシェリングに傾倒していた若きショーペンハウアエルにシュルツェは、今後の勉強の目標はカントとプラトンであり、この二人を十分会得するよう忠告します。

1811年(23歳)、復活祭の休暇にヴィーラントの招きでワイマールを訪れます。

秋にベルリン大学に移り、ドイツの国民的哲学者であったフィヒテの下で本格的な哲学研究を始めると、この時期からさまざまな思索を書き留めるようになります。

(3)博士論文を執筆しゲーテに認められる

1812年(24歳)、ベルリン大学でのフィヒテとシュライエルマッヘルに対する尊敬が軽蔑と否定に変わり、これに反し古典文献学者ヴォルフを学者としても人間としても高く評価するようになります

1813年(25歳)春、戦争の危険を感じ第四学期の済まないうちにベルリンを去りワイマールの母のところへ帰りました。

しかし間もなく母と気まずくなり、ルードルシュタットのホテルにこもって博士学位論文『根拠の原理の四つの根について』を完成、イエナ大学に提出し、哲学博士の学位を得ました

刊行された論文の最初の読者となったゲーテはその才能を高く評価し、自身の指導のもとに色彩現象を研究するよう懇請しました。

1814年(26歳)5月に母と完全に仲たがいしてドレスデンに移住するまでに、東洋学者フリードリヒ・マイヤーを通じて古代インド哲学、特に『ウプネカット』を知るようになり、これによって彼の来るべき全思想が決定づけられることとなりました。

1815年(27歳)、色彩論『視覚と色彩について』を完成、翌1815年(28歳)これが刊行され、ゲーテに送りました。

1817年(29歳)、主著『意志と表象として世界』に対する準備作業が、3月から始めた「全体を、関連する論説でもって人々に把握させ得るようにすること」の範囲では終了し、翌1818年(30歳)5月、『意志と表象としての世界』完成、6月にゲーテにその旨手紙で知らせ、原稿を書店に渡した後イタリアに旅立ちました。

(4)『意志と表象としての世界』を刊行

1819年(31歳)初め、『意志と表象としての世界』がブロックハウス書店で刊行されましたが、商業的には不成功に終わりました。

6月にミラノにて父の遺産の一部を預けておいたダンツィヒの銀行が倒産したとの報を受け、この事件の整理にワイマールに戻りました。

1820年(32歳)3月、ベルリン大学にて「原因の四つの異なった種類について」というタイトルで、教職に就くための試験講義を行い、講師の地位を得ると、「哲学総論、あるいは世界の本質および人間の精神の学説について」というテーマで毎週5回講義しました。

彼は自分の講義を故意にヘーゲルの主講義の時間に合わせたため、聴講者が集まらず失望します

「イエナ文学新聞」に『意志と表象としての世界』への批判的議論が載り、反駁として『虚偽の引用に対するやむを得ざる告発』を書きました。

1821年(33歳)、いわゆる「マルクェト事件」(*)が起こり、翌1822年(34歳)5月にはスイスを経て第二回のイタリア旅行に出ました。

(*) 裁縫女マルクェトに怪我をさせ、裁判の結果彼女の終身扶養義務を負わされることになった事件

1823年(35歳)5月、帰国しミュンヘンへ赴くと、この地でほぼ一年間病気に苦しみ、右耳が聞こえなくなります。

憂愁が深まる中、翌1824年(36歳)5月29日から6月19日まで、治療のためガシュタインに滞在、9月にはドレスデンへ赴いています。

(5)『意志と表象としての世界』発表以降

1825年(37歳)、再びベルリンへ戻り、改めてベルリン大学で講義を行なおうと試みましたが、相変わらず人気は出ませんでした。

しかし『意志と表象としての世界』は、詩人ジャン・パウルにより『小書評』で高評価を得るなど、徐々に評価は高まりました。

1828年(40歳)には『意志と表象としての世界』第二版を意図し、「わが父の霊に」という献辞を書き、また1829年(41歳)にはカントの主著を英訳して出版することを計画しています

1830年(42歳)、『視覚と色彩について』をラテン語に書き改めた『生理学的色彩論』を『眼科学的著述小全集』(ライプツィヒ、レオポルト・フォス社刊)第三巻の巻頭論文として発表、同じ年バルタザール・グラシャンの人生智三百則よりなる『神秘必携と処世術』を翻訳(しかしこれは死後に公刊)しました。

このころ結婚の計画を考えたり打ち捨てたりしています。

(6)隠遁生活に入る

1831年(43歳)8月、コレラの流行を怖れてベルリンを逃れ、九月初めにフランクフルト・アム・マインに移ります。

1832年(44歳)にマンハイムへ移住し1年間滞在します。

1833年(45歳)6月、フランクフルト・アム・マインに戻り、ついに定住、隠遁生活に入ります。『意志と表象としての世界』第二版に載せる序文を書いています。

1834年(46歳)、『意志と表象としての世界』を加筆再版する代わりに「補足的な諸考察」というタイトルのもとに別の追加巻を出版する計画を立てると、1835年(47歳)5月、『意志と表象としての世界』の売れ行きについてブロックハウスに二回目の照会をしています。

「著書の需要全然なく、在庫は大部分反故に。僅少部数のみ残してある」と前回より屈辱的な回答を受け、独立の論文とするつもりの「補足的な諸考察」の一部を『自然における意志について』というタイトルのもとに書き改めます

8月、ライン河に沿って4日間コープレンツへ旅行しますが、以後フランクフルトを離れなかったため最後の旅行となりました。

1836年(48歳)、『自然における意志について』がジークムント・シュメルベル書店から刊行されます

1837年(49歳)、フランクフルト市に作られた「ゲーテ記念像建立委員会」に対しゲーテの記念像を胸像にすべきとの意見書を出しています。

また『カント全集』が編纂されることにも関与、『純粋理性批判』は第二版ではなく第一版を採用すべきと論じています。

1838年(50歳)、母ヨハンナが死去します。ノルウェー王立学士院(アカデミー)の懸賞募集に応じた論文『意志の自由について』をドロントハイムに送り、同時にデンマークアカデミーに懸賞論文『道徳の基礎について』(募集テーマは「道徳の基礎」)を書き始めます。

1839年(51歳)2月、『意志の自由について』が入賞、『道徳の基礎について』の原稿をコペンハーゲンに送りますが、1840年(52歳)1月、こちらは入賞できませんでした。

1841年(53歳)、上の二つの懸賞論文を一冊にまとめ、『倫理学の二つの根本問題』としてヨハネス・クリスチアン・ヘルマン書店より刊行しました。

1842年(54歳)、『意志と表象としての世界』の「続編」の仕事を続けました。

(7)『意志と表象としての世界・続編』完成から晩年

1843年(55歳)、『意志と表象としての世界』の続編が完成しました

この年、フリードリヒ・ドルグードが自著『観念的実在論の誤れる根拠』で、世界歴史上の重要な思想家としてショーペンハウエルの名をあげています。

1844年(56歳)、『意志と表象としての世界』正編第二版ならびに『続編』がブロックハウス書店より、原稿料を払わない条件で刊行されました。

ヴィースバーデンの弁護士ヨーハン・アウグスト・ベッカーが彼と哲学的な文通を始め、彼の学説の支持者となります。

1845年(57歳)、フリードリヒ・ドルグードが『真理に立つショーペンハウエル』なる著書を書いています。同年、彼は『余録と補遺』を書き始めました。

1846年(58歳)7月から哲学博士ユリウス・フラウエンシュテットとの親密な交際が始まります。

1847年(59歳)、学位論文『根拠の原理の四つの根について』の「著しく改正かつ増補した」第二版がヘルマン書店から刊行されました。

1848(60歳)、フリードリヒ・ドルグードが「統一としての世界」という論文を発表し、その中でショーペンハウエルの体系が「一つの教訓詩の形であらわされている」と述べています

(8)再評価と死去

1849(61歳)8月、ボンにて妹アデーレが死去します。司法官試補アダム・フォン・ドスとの交際が始まり、ドスは彼の哲学の信奉者となります。

1850年(62歳)、6年間にわたって続けた『余録と補遺』が完成し、フラウエンシュテットの尽力により翌1850年(62歳)11月にベルリン、のA・W・ハイン書店から全二巻として(このときも原稿料なしで)刊行されました。

1852年(64歳)、哲学博士エルンスト・オットー・リンドナーとの交際が始まります。

1853年(65歳)、『ウェストミンスター・レヴュー』四月号にジョン・オクセンフォードが「ドイツ哲学における偶像破壊」という論文を発表、終始ショーペンハウエルを論じたもので、ショーペンハウエルをはじめて外国人に注目させる役割を果たしました。

1854年(66歳)9月、『自然における意志について』を改訂増補した第二版がヘルマン書店から、12月には『視覚と色彩について』の第二版がハルトクノッホ書店から刊行されました。

フラウエンシュテットは『ショーペンハウエル哲学に関する書簡集』を発表します。

リヒャルト・ワーグナーはその詩作『ニーベルングの指輪』に、自筆の「思慕と感謝の心より」という献辞を添えて送ってき、これに対しショーペンハウエルは、「ワーグナーは音楽家としてよりも詩人としての才能をもっている」と語っています。

さらにこの年、ショーペンハウエルの最初の伝記作家となり、また遺言執行人ともなるヴィルヘルム・グヴィナー法学博士と親しく交際します。

1855年(67歳)、フランスの画家ジュール・ルンテシュッツが油彩の肖像(下の画像)を描きます。

晩年のショーペンハウアー。1855年(67歳)。ジュール・ルンテシュッツ画

1883年に「ショーペンハウエルについてのわが想い出」を書くことになるワーグナーの弟子で若い作曲家のローベルト・フォン・ホルシュタインとの交際が始まります。

1856年(68歳)、ベルリンのザクセ商会からルンテシュッツの描いた肖像画が華麗な石版画となって売り出されます。

ライプツィヒ大学哲学部が「ショーペンハウエル哲学の真髄の解説と批判」というテーマで懸賞論文を募集します。カール・G・ベールという学生がこれへの応募の為4四月にショーペンハウエルを訪れます。

翌1857年(69歳)、二等賞を得たベールのこの論文は『ショーペンハウエル哲学の概要ならびに批判的解説』として出版され、ショーペンハウエルはベールに「卓越した書」と記した礼状を出しています

同年ボン大学でクノートが、ブレスラウ大学ではG・W・ケオルバーがショーペンハウエル哲学に関する、大学でのはじめての講義を行っています。

1858年(70歳)、2月22日に七十回目の誕生祝いが催され、ベルリン王立学士院がその会員にショーペンハウエルを推薦しましたが、彼はこれを辞退しました。

8月、主著第二版が売り切れ、ブロックハウス書店よりの第三版を刊行したいとの申し入れを受けて9月に第三版刊行の準備にかかります。

1859年(71歳)、画家アンギルベルト・ゲーベルが油彩の肖像を描き、それからエッチングを作っています。7月1日ジェーネ・アウスジヒト17番地の16年にわたって間借していた住居を出、同16番地の隣家に移ります。女流彫刻家エリザベート・ネイが大理石の胸像を造ります。11月、主著第三版が、続編とともに刊行されます。

1860年(72歳)、ゲーテの義妹オッティーリエが主著第三版へ祝辞を寄せます。『倫理学における二つの根本問題』の第二版への準備を始めます。

9月9日肺炎にかかり、9月18日遺言執行人ヴィルヘルム・グヴィナーと最後の会見をすると9月21日金曜の朝に死去しました

9月26日フランクフルト市の墓地に埋葬され、その遺志に従って墓石には彼の姓名だけが刻まれました。

3.ショーペンハウエルにまつわるエピソード

(1)両親の影響

ショーペンハウエルの父親は、一代で財を成したやり手の商人でした。

息子にも商人としての道を歩んでほしいと望んだ父親は、少年時代の彼に一般的な学問ではなく、商人になるための英才教育を受けさせました。

10代になる頃には、海外との貿易や社交を見せるために家族総出でヨーロッパを周遊し、息子にも商人としての自覚を芽生えさせようとしました。

しかし皮肉にも、この1年間にわたる旅行で少年ショーペンハウエルの印象に残ったのは、「都会の吹き溜まりに捨て置かれた貧しい人々」でした。

そして18歳の頃に父親が突然死去すると、彼は商売と学問への憧れの間に苦しみます。

そんな迷える彼の背中を押したのが、作家だった彼の母親でした。

母親からの手紙で学問の道へ進むことを応援されると、ショーペンハウエルは20代を目前にしてようやく本格的に哲学の門を叩いたのです。

(2)母親とゲーテ

母親の後押しを受けて哲学者としての道を歩むことになったショーペンハウエルは、やがて母親と決別することになります。

そのきっかけになったのが、文豪ゲーテ(1749年~1832年)の存在でした。

母親と親交のあったゲーテがショーペンハウエルの学位論文を読んでその才能を認めると、ゲーテとショーペンハウエルの間では頻繁に哲学の議論が交わされるようになりました。

やがてショーペンハウエルが母親よりもゲーテの意見を重要視するようになったことで、母子の関係は崩れていったのです。

そしてお互いの著作を批判するまでになり、20代半ばで母と絶縁してしまいました。

(3)絶大な人気を誇ったヘーゲルの講義に嫉妬するも負けて辞職

ショーペンハウエルは、イエナ大学やベルリン大学で私講師(今で言う「非常勤講師」)をしていた際、同大学で生徒から絶大な人気を誇っていたヘーゲルを「酒場のおやじのような顔」と嫉妬心から批難し、ヘーゲルの講義を自分の講義と同時間帯に設定しましたが、ヘーゲルの講義は満員でショーペンハウアーの講義はガラガラでした。これが原因で半年後に私講師を辞職しました。

(4)自分の考え方を釈迦やエックハルトの教えと本質的に同一視

ショーペンハウエルは、「仏陀、エックハルト(*)、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べています

仏陀は仏教の開祖の釈迦(紀元前5〜6世紀頃)。エックハルト(1260年頃~1328年以前)はキリスト教神学者・神秘主義者。

(5)法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学者

ショーペンハウエルは芸術論・自殺論が有名ですが、むしろ博学で、法律学から自然学まであらゆるジャンルを網羅した総合哲学者としての側面が強かったようです。

(6)仏教思想とインド哲学を取り入れた思想で日本の作家にも大きな影響

仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、日本でも森鷗外、堀辰雄、萩原朔太郎、筒井康隆など多くの作家に影響を及ぼしました。

(7)フィヒテやシェリングを痛烈に批判

ショーペンハウエルは、フィヒテ、シェリングの哲学を「哲学史上およそ例のないみじめな似非哲学のさきがけ」と批判しました。