平将門と言えば、「平将門の乱」や「首塚」の話は聞いたことがあっても、あまり詳しく知らない方がほとんどだと思います。
そこで今回は、平将門とはどのような人物だったのかを分かりやすくご紹介したいと思います。
1.生い立ちと平氏一族の争い
(1)生い立ち
平将門(たいらのまさかど)(903年?~940年)は、平安時代中期の関東の豪族で、下総(千葉県北部)を本拠とした平良将(生没年不詳)の息子で、通称は相馬小次郎、滝口小次郎で、あだ名は「坂東の虎」です。
(2)祖父の高望王による関東での勢力基盤の形成
祖父は桓武天皇の孫(もしくは曽孫)で、平氏の姓を授けられた「高望王(たかもちおう)(平高望)」(生没年不詳)です。
平将門が関東で勢力を広げることができたのは、祖父の高望王のおかげでした。高望王は天皇に即位できる可能性はほとんどない上、出世も難しい立場であったため、「平」の姓を受けて臣下となり、自ら関東に移り住みました。
高望王は「関東で巨大な権力を得ようという野望」を持ち、関東の権力者の娘を嫁に迎える「政略結婚」を行って結び付きを強め、また「未開墾地を開発」し、その土地を守るために「武士団」を結成し勢力を広げて行ったのです。
(3)高望王から5人の息子・孫たちへの領地の分与
高望王は、勢力下に置いた土地(領地)を5人の息子・孫たちに分与しました。
その5人とは、平国香(たいらのくにか)・平良兼(たいらのよしかね)・平良将(たいらのよしまさ)・平良正(たいらのよしまさ)・平良文(たいらのよしふみ)です。
(4)領地をめぐる平氏一族の争いに巻き込まれる
5人の中で最初に亡くなったのが、平将門の父の平良将です。
本来なら、平良将の所領は息子の平将門が引き継ぐところでした。しかし、「そうはさせじ」と虎視眈々とその領地を狙う人物がいました。
それは、平国香(?~935年)と源護(みなもとのまもる)(生没年不詳)でした。源護は、自分の娘を平国香・平良兼(?~938年)・平良正(生没年不詳)に嫁がせていた関東の有力者です。
先手を打ったのは、平国香と源護でした。935年に、源護の息子・源扶(みなもとのたすく)(?~935年)が、平将門を待ち構えて戦いを始めました。
進退窮まった平将門は一戦を交え、見事に源扶を討ち取りました。そして余勢を駆って源護の本拠地を焼き討ちし、平国香も討ち取りました。
これに驚いたのが源護と姻戚関係にあった平良正で、彼は平将門を滅ぼすために軍勢を集めて鬼怒川沿いに兵を置き、平将門と対峙しました。
しかし、平良正の軍勢も平将門に簡単に打ち破られ、命からがら逃げだす始末でした。
(5)平将門が平国香・平良正・平良兼との争いに勝利
936年に、平良正と平良兼が、平将門を滅ぼすべく攻め込んできました。平国香の息子・貞盛(?~989年)は最初、将門討伐に消極的で和睦を望みましたが、良正・良兼に説得されて参戦しました。
しかし平将門は反対に奇襲などで撃退しました。そして今回は滅ぼすことはせず、わざと平良正や平良兼、平貞盛などが逃げられるようにしました。
その理由は、前に平国香を滅ぼしたことはやりすぎで、朝廷内での自分の立場を不利にしたからです。
そこで今回は、「平良正と平良兼が攻め込んできたので追い払っただけで、悪いのは二人の方」という形にして、朝廷内で有利に事が運ぶようにしたのです。
関東では「戦い」、朝廷内では「裁判」という形で、「平将門」VS「平良正・平良兼」の争いが行われていました。
そして、「戦い」も「裁判」も平将門の勝利に終わり、938年には平良兼が病死しました。その結果、平将門は関東一帯に大きな勢力を持つに至りました。
2.次々と争いに巻き込まれる平将門
(1)武蔵国に赴任した新任「受領」と「郡司」との争いの仲裁役をして讒言を受ける
938年に、武蔵国の新任「受領(ずりょう)」として京からやって来た興世王(おきよおう)と部下の源経基(みなもとのつねもと)(清和源氏の祖)に対して、地元の「郡司(ぐんじ)」の武蔵武芝(むさしのたけしば)が新任受領への接待・賄賂を拒否しました。
ちなみに「受領」とは、「国司(こくし)四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者」のことで、「郡司」とは、「律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官」のことです。
これに興世王と源経基は激怒し、武蔵武芝を潰すために朝廷に讒言し、逮捕状まで用意させました。
この「受領」と「郡司」との争いの仲裁役を平将門が買って出て讒言を受けることになります。
3人を招いて酒宴を開き、あと一歩で仲裁は成功するところでしたが、武蔵武芝の部下が源経基を殺害すべく動こうとしたため、それを察知した源経基は一足先に脱出しました。
そして、源経基は朝廷に「平将門と武蔵武芝が、受領の部下である私の殺害を図った」と報告しました。
源経基の報告は嘘とわかり、平将門の濡れ衣は晴れましたが、強大な力を持つ彼は警戒されるようになり、次第に歯車が狂い始めます。
(2)常陸国での「受領」と「国人」との争いに巻き込まれる
939年に、「受領」の藤原維幾(ふじわらのこれちか)(生没年不詳))が全く税を納めず反抗的な態度を取り続ける「国人」の藤原玄明(ふじわらのはるあき)(?~940年)の逮捕状の発布を朝廷に依頼し、出させることに成功したのです。
ちなみに「国人」とは、「在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主」のことです。
朝廷から逮捕状が出て「朝敵」となった藤原玄明は、妻子とともに常陸国から下総国に逃れて平将門に助けを求めました。
平将門は藤原玄明と面識はありませんでしたが、藤原維幾とは因縁があったのです。
以前、平貞盛が和睦を破って平良正・平良兼とともに攻め込んできた時、藤原維幾は平貞盛の味方をして攻め込んできた人物だったのです。
このような経緯から、平将門は藤原維幾から再三にわたって藤原玄明の身柄引き渡しを求められましたが、ことごとく無視したのです。
3.平将門の乱
(1)藤原維幾と戦い、結局「朝敵」となってしまった平将門
「藤原維幾憎し」の気持ちが強い藤原玄明は、平将門に「常陸国への帰還」と「身の安全の保障」を依頼しました。
平将門は、この願いを受け入れて常陸国に兵を送り、藤原維幾を攻めました。
常陸国には、藤原維幾と平貞盛の軍勢(3000兵)が待ち構えていましたが、平将門はわずか1000兵でさんざん敵を打ち破り、藤原維幾を降伏させ、下総国に連行しました。
残された藤原維幾の息子・藤原為憲(生没年不詳)と平貞盛は、平将門の所業を全て朝廷に報告し、訴えたのです。
朝廷の逮捕状をさんざん無視し、挙句の果てに常陸国の「受領」である藤原維幾を攻めたことで、平将門は結局「朝敵」となってしまいました。
(2)開き直った平将門は関東一帯を完全に制圧
後戻りができなくなった平将門は、「朝廷と対等に話をするには、朝廷が簡単に攻めてくることができないような強大な力が必要。そのためには他の国々を攻めましょう」との部下の進言を受け、さらに下野国・上野国と次々に攻め込みました。
そして、それぞれの国にいる「受領」を追放し、関東一帯を完全に制圧しました。
(3)新しい天皇「新皇」となった平将門
関東の支配者となった平将門は、関東の民に非常に人気がありました。武蔵国・常陸国で多額の税で苦しめる「受領」を追い払ってくれたからです。
その強い関東の民の支持のもと、平将門は「新皇(しんのう)」と自称したのです。「自分は新しい天皇で、京に居るのは古い天皇」「自分は桓武天皇の子孫でもあるため、天皇になってもおかしくない」ということなのでしょう。
平将門は朝廷と対等に話をしたいために「新皇」と称しただけで、朝廷に逆らう気はなかったのかもしれませんが、朝廷はそうは考えず、許すことはできませんでした。
(4)「平将門追討令」の発布
940年に、朝廷(朱雀天皇)は「平将門追討令」を発布し、破格の恩賞を用意して有力な武士を関東に送り込みました。
そして、この「平将門の乱」に参戦し、活躍したのは平貞盛と藤原秀郷(ふじわらのひでさと)(891年~958年)でした。平貞盛は終生、平将門のライバルとなりました。
(5)平貞盛と藤原秀郷に敗れ、平安京で「さらし首」となる
平将門が兵をそれぞれ地元に帰している時に、平貞盛と藤原秀郷が4000兵を集めて攻め込んできました。平将門も急遽兵を集めたのですが、集まったのはわずか1000兵ほどでした。
平将門は陣頭に立って奮戦しましたが、数に勝る「平貞盛・藤原秀郷」軍に追い詰められ、各地を転々として兵を募りましたが、「朝敵」となった平将門に味方する者はほとんどなく、最後は奮戦むなしく討ち取られました。
そして、その首は平安京に運ばれ、「晒(さら)し首」とされたのです。日本の歴史上、「晒し首」になったのは平将門が最初と言われています。
また、その平将門の首は、関東地方を目指して空高く飛び去ったという伝説があり、その首が落下したと言われているところに「首塚」があり、現在も残っています。
4.後世への影響
「平将門の乱」によって、朝廷は「武士の力」を再認識せざるを得なくなります。
従来天皇や貴族たちは、「警備員や従順な番犬のような存在」として武士を雇い入れ、身辺警護に当たらせていましたが、やはり武力を持つ者は強く、「飼い犬に手を噛まれる」のことわざとはちょっとニュアンスが違いますが、やがて武士に政治権力まで奪われてしまうことになります。
武士の力を見くびると大きな反乱につながり、またその反乱を収拾することができるのも武士の力であることがわかったのです。
また、この「平将門の乱」で勝利した平貞盛の子孫に平清盛(たいらのきよもり)が生まれ、藤原秀郷は関東中央部の武家諸氏の祖となり、その子孫から「奥州藤原氏」も誕生したのです。
鎌倉幕府・室町幕府から江戸幕府に至る武家政権も然(しか)りですし、明治維新も、薩摩藩と長州藩を中心とした軍事クーデターでしたが、第二次世界大戦後にアフリカ・アジア・中近東など世界各地でクーデターによる軍事独裁政権が誕生したのも、強大な軍事力が政治を大きく動かすことを証明しています。
現代も米中ロの超大国と、核保有国家の軍事力による「パワーポリティクス」が国際政治に大きな影響を及ぼしており、それらの国々の「パワーバランス」で成り立っています。