ホトトギス派の俳人(その2)村上鬼城:心耳の詠み人・境涯の俳人と呼ばれる

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村上鬼城

「ホトトギス派」の俳人と言えば、高浜虚子が代表格ですが、大正期には渡辺水巴(すいは)、村上鬼城(きじょう)、飯田蛇笏(だこつ)、前田普羅(ふら)、原石鼎(せきてい)が輩出しました。

昭和に入ると、山口誓子(せいし)・水原秋桜子(しゅうおうし)・阿波野青畝(あわのせいほ)・高野素十(たかのすじゅう)・山口青邨(せいそん)・富安風生(とみやすふうせい)を擁し、花鳥諷詠・写生俳句を提唱して『ホトトギス』の全盛期を形成しました。

特に山口誓子・水原秋桜子・阿波野青畝・高野素十は、「ホトトギスの四S」と称されます。

さらに中村草田男(くさたお)、川端茅舎(ぼうしゃ)、星野立子(たつこ)、中村汀女(ていじょ)ら新人を加えて、新興俳句の勃興にも伝統を堅持して揺るがず、俳壇の王座に君臨しました。

1951年、虚子は長男・高浜年尾(としお)に『ホトトギス』を継承させ、年尾没後の1979年からは年尾の二女・稲畑汀子(いなはたていこ)が受け継ぎました。

2013年(平成25)汀子の長男・稲畑廣太郎(こうたろう)が主宰を継承し、明治・大正・昭和・平成・令和の五代にわたる最古の俳誌としての歴史を誇っています。

そこで今回から、ホトトギス派の有名な俳人を(既に記事を書いている人を除いて)順番に詳しくご紹介したいと思います。

1.村上鬼城とは

村上鬼城(むらかみ きじょう)(1865年~1938年)は江戸小石川生まれのホトトギス派の俳人で司法代書人(現在の「司法書士」)です。本名は村上荘太郎(むらかみ しょうたろう)。

明治法律学校中退。正岡子規に書を送り、『ホトトギス』創刊後は俳句・写生文を投稿。飯田蛇笏らと並び、大正期前半の『ホトトギス』を支えました。

句集に『鬼城句集』(1917年)、『続鬼城句集』(1933年)のほか、『鬼城俳句俳論集』(1947年)などがあります。

自らも不遇な環境に置かれていたため、貧窮の境涯に根ざした諦観を詠んだ句が多くあります。困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多く、小林一茶に似た「境涯の句」で知られています。

また、本人も耳が不自由だったためか、身体障碍者に対する感情を詠ったものが多く(但し、今日では差別語として好ましくないとされる表現を用いた句もあります)、阿波野青畝など影響を受けた俳人も多くいます。

また、座右の銘が「心眼」ならぬ「心耳」であったことから、今日では「心耳の詠み人」と呼ばれます。耳疾と貧苦に悩む生活を詠んだ句が多いことから「境涯の俳人」とも呼ばれました。

2.村上鬼城の生涯

村上鬼城は1865年(慶応元年)に、鳥取藩士・小原平之進の長男として江戸小石川(鳥取藩の江戸藩邸)に生まれましたが、明治維新後の8歳の時、父が県庁官吏の職を得て、前橋に移住しました。

11歳の時に母方の村上家の村上源兵衛の養子となり村上姓を名乗りました。

祖父小原平右衛門は大坂御蔵奉行を務め、家禄五百石を受けていましたが、その後三代養子が続いて禄を減らされ、父平之進の時には350石となりました。

「鬼城」という雅号の由来は、先祖の地・鳥取にある古城「鬼ヶ城」にちなんだものです。

1884年(明治17年)に上京し、軍人を志しましたが耳疾のために断念し、明治法律学校(明治大学の前身)で法学を学びながら、司法代書人(司法書士の前身)となりました。

24歳でスミと結婚し、二人の娘を授かったのも束の間、父が亡くなり、その直後にスミも27歳の若さで病死しました。

父の勤務先であった高崎裁判所司法代書人となって以降、彼は亡くなるまで高崎で過ごしました。

その傍らで俳句を嗜み、広島市の大本営にいた正岡子規(1867年~1902年)に教えを請い、また幾度となく『ホトトギス』に俳句を投稿していました。

「詩歌というものが弱音を吐くために必要になってきて、何かと胸中のムシャクシャを言い表わそうとする」と、鬼城は述べています。

32歳でハツと再婚し、二男八女の子宝に恵まれますが、生活は楽ではありませんでした。

子規の死後、彼は『ホトトギス』主宰である高浜虚子(1874年~1959年)から句を見てもらうことになり、高崎での俳句会で虚子の推輓を受けました。

それが契機となって1913年(大正2年)から『ホトトギス』の同人活動を始め、1918年(大正7年)に自身の作品が入選。以後は司法代書人の傍ら、俳人、また撰者としても敏腕を振るうことになりました。

二男八女の子宝に恵まれましたが、生活は絶えず困窮していたそうです。しかしながら人脈は深く、51歳の時に耳疾を理由に代書人を解雇された時には、虚子門下の弁護人を立てて復職を遂げています。

人生の辛酸をなめつくして初めて得られた独特の境涯句は、俳人・俳論家の大須賀乙字(おおすがおつじ)(1881年~1920年)の激賞(*)を受け、乙字編『鬼城句集』(1917年)によって一躍俳名が上がりました。

(*)「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である。」(『鬼城句集』の序文)

その後愛知県発行の俳誌『山鳩(やまばと)』の選者に迎えられ、浅井啼魚(ていぎょ)らの尽力で大阪に鬼城会も発足し、生活も次第に安定しました。

1927年(昭和2年)、高崎鞘町の鬼城庵が全焼しました。虚子などの著名人をはじめとする俳人たちが、鬼城庵再建の具体策を進めて、翌年に高崎並榎町に新居が完成しました。当時はすそ野が広がる榛名山と向き合い、遠く浅間・妙義の峰も望める高台という環境で、鬼城はここで絵を描く楽しさに親しむようになりました。

また「並榎村舎」と称して、俳句活動の拠点とし、後進の指導にあたりました。(現在は、村上鬼城記念館として公開されています)

鬼城の主たる活動の場は、新聞『日本』・『ホトトギス』・『山鳩』等の紙誌でしたが、中でもホトトギスでは巻頭18回を占め、巻頭作品だけでも205句という俳句が選ばれました。

これらの作品の多くは「鬼城自画賛」として書と俳画に残されています。その抜群の造形力やバランス感覚は、近代俳画の最高峰を示すものとして、今日、改めて注目を浴びています。

1938年(昭和13年)7月頃から胃腸病を患って高崎市の自宅にて静養に入り、9月17日に家人や門人に看取られながら、 胃癌のため自宅で死去しました。享年74。戒名は青萍院常閑鬼城居士。墓所は高崎の龍広寺。

3.村上鬼城の俳句

桜の大木

<春の句>

・ゆさゆさと 大枝ゆるる 桜かな

・榛名山 大霞して 真昼かな

・残雪や ごうごうと吹く 松の風

・蟻出るや ごうごうと鳴る 穴の中

・蛤に 雀の斑(ふ)あり 哀れかな

・ 生きかはり 死にかはりして 打つ田かな

・闘鶏の 眼(まなこ)つぶれて 飼われけり

<夏の句>

・五月雨や 起き上がりたる 根無草

・雹(ひょう)晴れて 豁然とある 山河かな

・念力の ゆるめば死ぬる 大暑かな

・水すまし 水に跳ねて水 鉄の如し

・昼顔に レールを磨く 男かな

・麦飯に 何も申さじ 夏の月

<秋の句>

・蟷螂の 頭まわして 居直りぬ

・親よりも 白き羊や 今朝の秋

・浅間山の 煙出て見よ 今朝の月

・ほの赤く 掘起しけり 薩摩芋

・痩馬の あはれ機嫌や 秋高し

・小鳥この頃 音もさせずに 来て居りぬ

・秋の暮 水のやうなる 酒二合

<冬の句>

・小春日や 石を噛みいる 赤蜻蛉

・うとうとと 生死の外や 日向ぼこ

・冬蜂の 死にどころなく 歩きけり

・鷹のつら きびしく老いて 哀れなり

・大寒や 下仁田(しもにた)の里の 根深汁(ねぶかじる)

・いささかの 金ほしがりぬ 年の暮