犬山城は難攻不落と言われたのに簡単に落城したのはなぜか?その謎に迫る!

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国宝犬山城

国宝「犬山城」は、「後ろ堅固」で難攻不落の名城と言われていましたが、池田恒興によって天守閣後方の木曽川から攻められ、簡単に落城しました。

今回はこの犬山城落城の謎について、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.犬山城とは

白帝城と呼ばれる犬山城

犬山城(いぬやまじょう)は、尾張国と美濃国の境、木曽川南岸の地「犬山」(現在の愛知県犬山市)にあった平山城(ひらやまじろ)で、天守の後ろが断崖絶壁になっている小高い山の上に建っているため「白帝城(はくていじょう)」とも呼ばれます。

これは、中国・長江流域の丘上にある「白帝城」を詠んだ李白の詩「早發白帝城」にちなんで荻生徂徠(1666年~1728年)が命名したものです。

中国長江の白帝城

犬山城は、室町時代の応仁の乱の最中の1469年に、織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりと言われています。1537年に、織田信長の叔父の織田信康(?~1544年)が現在の位置に城郭・天守を造営しました。

現在は天守のみが現存しています。江戸時代までに建造された「現存天守12城」の一つです。

また、「天守が国宝に指定された5城」の一つです。(他は、姫路城・松本城・彦根城・松江城)余談ですが、犬山城は、日本で最後まで個人が所有していた城(2004年まで)です。

犬山城

2.犬山城落城の歴史

(1)1564年に織田信長に攻められて落城

犬山城を築城した織田信康は、兄の織田信秀(1511年~1552年)に従って、「小豆坂の戦い」(1542年)などで戦功を立てました。しかし信康の子の織田信清(生没年不詳)は、信長に対して反抗的で、敵対関係となり、1564年に織田信長に攻められて落城しました。

犬山城は、北側の美濃からの防御は木曽川があるため完璧なのですが、南側から大軍に攻め寄せられると脆いものだったようです。

以後、池田恒興、織田勝長などが城主を務めました

1582年の「本能寺の変」の後は、尾張国を領有した織田信雄(おだのぶかつ)(1558年~1630年)配下の中川定成が城主となりました。

(2)1584年の小牧・長久手の戦いの主戦場となり落城

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康陣営との戦いである1584年の「小牧・長久手の戦い」では、小牧城・犬山城・楽田城が中心戦場となりました。

(3)犬山城が難攻不落と言われたのに簡単に落城した理由

ここで、織田信雄方と見られていた大垣城主の池田恒興が、突如犬山城に奇襲をかけ、信雄方から犬山城を奪取しました。

この時、池田恒興は「後ろ堅固」と言われた天守閣の後ろの木曽川側から船で漕ぎ寄せ、少数の兵で絶壁を攻め上り、犬山城を奪取しました。

織田信雄が、かつて信長の重臣であった恒興に油断していた」こと、「城の南側からの攻撃に対する防御は固めていたが、城の北側からの攻撃を想定していなかった」こと、「かつて犬山城主でもあった恒興は、城内を知り尽くしており、木曽川側からの攻め方も心得ていた」ことと、「城内の内応者からの手引き」(たとえば松明で明るくしたり、絶壁に縄梯子を下ろすなど)もあったのでしょう。

その結果、犬山城は尾張国における西軍の橋頭保となり、秀吉はここに本陣を置いて、小牧山城の家康と対峙しました。この戦いで秀吉陣営は勝利し、秀吉の覇権が決定的となりました。

ただし、恒興はその後、徳川氏の根拠地である三河国を直接攻撃することを秀吉に進言し、自ら先鋒を務めましたが、家康の逆襲に遭い嫡子元助とともに討死しました。

なお、犬山城は1587年には、再び織田信雄に返還されています。

(4)1600年の「関ヶ原の戦い」で西軍の拠点となり落城

しかし、1590年に織田信雄が改易されると豊臣秀次が城主となり、実父の三好吉房が城代となりました。1596年に秀次が切腹すると石川貞清に城主が代わりました。

1600年の「関ヶ原の戦い」では、岐阜城・竹鼻城などとともに、西軍の拠点となりました。石川貞清は西軍に与し、家康からの降伏勧告を拒否して加勢の西軍諸将とともに籠城しました。

しかし、東軍の猛攻に遭うと、加勢の西軍諸将は極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、「内応」を約定して引き揚げようとしました。彼も結局説得されて城を捨てましたが、彼は西軍本隊に合流して奮戦しました。

敗戦後、彼は東軍の池田輝政に投降しました。本来であれば「改易されて所領没収の上、死罪」を申し渡されるところでしたが、籠城中に東軍に加担した木曽郷士らの人質を解放したことが評価されたのと、池田輝政の働きかけによって、黄金千枚で助命されました。

その後彼は京に隠棲し、剃髪して宗林と号し、茶人・商人として余生を過ごしました。

なお1607年には、徳川家康の小姓出身で「徳川十六神将」の一人に数えられる平岩親吉(ひらいわちかよし)が犬山城主となっています。

3.池田恒興とは

池田恒興(いけだつねおき)(1536年~1584年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名です。尾張犬山城主、摂津兵庫城主、美濃大垣城主を務めています。

彼は1582年に開かれた「清洲会議」に出席した4人の織田家重臣の一人です。ちなみに「清洲会議」とは、織田家の継嗣問題および領地再分配に関する会議です。

ちなみに、姫路城を現在に残る姿に大規模に修築した池田輝政(1565年~1613年)は、彼の次男です。

池田恒興

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