日本の有名な推理作家と言えば、最近では東野圭吾・夏樹静子・内田康夫・西村京太郎・山村美紗などの名前が思い浮かびますが、かつては松本清張・江戸川乱歩・高木彬光等の作家が活躍しました。
この中で江戸川乱歩は「怪人二十面相」「黒蜥蜴」などで有名で、高木彬光は「白昼の死角」で有名ですが、「過去の人」という感じが否めません。
西村京太郎は「十津川警部のトラベルミステリー」、山村美紗も「ミステリーの女王」と呼ばれましたが、マンネリ・ワンパターンの多作・テレビドラマとのコラボという印象があります。
しかし、松本清張は推理小説にとどまらず、「日本の黒い霧」などの政治・社会問題や、「かげろう絵図」などの時代小説、「昭和史発掘」などのノンフィクション、古代史の「邪馬台国論争」など幅広い分野に関心を示しました。また数多くの作品が映画化・テレビドラマ化されています。そのため、彼の文学は「脱領域の文学」とも評されています。
そこで今回は松本清張についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.松本清張(まつもとせいちょう)とは
松本清張(1909年~1992年)は、福岡県小倉出身(出生地は広島)の作家で本名は「きよはる」と読み、「せいちょう」はペンネームです。彼は単なる娯楽本位の探偵小説ではなく、「社会派推理小説」という新分野を開拓しました。
1953年に「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞しています。
(1)生い立ちと幼年期
父の松本峰太郎は鳥取県日野郡日南町の田中家出身ですが、幼少時に米子市の松本家の養子となっています。青年期に広島市に出奔し、書生や看護雑役夫などをしていました。
彼が広島市で生まれて間もなく、一家は小倉へ移って出生届を出し、その後祖父母のいる下関市に移住しています。
彼の父はあらゆる下層の職業を転々としましたが、学問への憧れは強く、夜ごと手枕で彼に本を読み聞かせたそうです。
しかし彼が7歳の時、父は借金取りに追われて姿をくらましました。残された彼と母は知人の家に世話になるなど苦労を重ね、下関市内の尋常小学校に入学しています。
1920年、彼が小学5年生の時に家族で小倉に移住したため、小倉の尋常小学校に転校しています。
(2)文学への関心と挫折
1924年、彼は高等小学校を卒業すると、生家が貧しかったため、職業紹介所を通じて(株)川北電気企業社小倉出張所の給仕に就職し雑用をこなしました。
この頃は新刊書を買う余裕がなく、貸本屋で借りるか、書店で立ち読みしていました。当時興味があったのは旅の本で、田山花袋の紀行文を好んで読みました。
やがて文学に夢を託すようになります。特に愛読したのは芥川龍之介で、ほかに菊池寛の小説や戯曲、岸田國士の戯曲も愛読しました。
休日には図書館に通って、森鴎外、夏目漱石、田山花袋、泉鏡花などを読み、世界文学全集も手当たり次第に読み漁ったそうです。しかし、当時評判だった志賀直哉の「暗夜行路」などは「どこが良いのかさっぱりわからなかった」そうです。
また、雑誌「新青年」で翻訳探偵小説の面白さに開眼し、国内では江戸川乱歩の作品を愛読しました。
しかし、1927年に勤務先の出張所が閉鎖となり、失職しました。そこで子供の頃から新聞記者に憧れていた彼は、地元紙「鎮西報」の社長を訪ねて採用を申し込みましたが、「大学卒でないと雇えない」と拒否されました。
この頃、一時は繁盛した父の飲食店も経営が悪化したため、失職中の彼も露店の手伝いをしています。
(3)印刷工から広告図案工へ
1928年になっても働き口は見つかりませんでしたが、「手に職をつける仕事」をしたいと考えた彼は、小倉市内の高崎印刷所で石版印刷の見習い工となりました。
しかし、本当の画工になれないと思った彼は別の印刷所に見習いとして入り、基礎から版下の描き方を学び、同時に広告図案の面白さを知りました。
1929年3月に仲間が「プロレタリア文芸雑誌」を購読していたため、彼も「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置されています。釈放された時、父によって蔵書を燃やされ、読書を禁じられています。
1931年にこの印刷所が潰れたため、約2年ぶりに高崎印刷所に戻りましたが、博多の嶋井オフセット印刷所で半年間見習いとなりました。
ポスターの図案を学ぶつもりだったものの、文字もデザインの一つだからという理由で、もっぱら文字を書かされました。書を彼に教えたのは、能書家で俳誌「万燈」の主宰者でもあった江口竹亭でした。後の作品に現れる俳句趣味や、彼の能書家としての下地はここで培われたようです。彼の直筆の原稿や手紙を見ると、その達筆なことに驚かされます。
その後、みたび高崎印刷所に戻り、ようやく一人前の職人として認められました。その頃から広告図案が重視されるようになり、嶋井オフセット印刷所で学んだ技術が役に立ちました。
彼は1936年11月に寺の住職の紹介で佐賀県出身の内田ナヲと見合い結婚しています。
高崎印刷所の主人が死去し経営状態が悪化したため、将来への不安を感じ、1937年2月に印刷所を退職して自営の版下職人となりました。
その頃、朝日新聞西部支社が門司から小倉へ社屋を移転し、最新設備による印刷を開始する旨の社告が載りました。
版下の需要が増えると見込んだ彼は、支社長の原田棟一郎に版下画工に使ってほしいと手紙を書き、下請け契約に成功しました。
1939年には広告部の嘱託となり、1940年には常勤の嘱託となっています。
(4)戦時中の活動
1943年には朝日新聞広告部意匠係に所属する正社員となりましたが、独創性を必要とされない仕事内容で、また学歴差別が根強く実力を評価されない職場環境で、回想的自叙伝「半生の記」ではこの時期を「概して退屈」「空虚」と記しています。
そんな中、彼の楽しみの一つは、図案家仲間との交流で、もう一つの楽しみは北九州の遺跡巡りでした。これが後の古代史研究に発展して行くのです。
やがて教育召集のために久留米の連隊に入り、陸軍衛生二等兵として3カ月軍務に就きました。1944年6月には召集令状が届き、歩兵連隊補充隊の衛生兵として朝鮮半島に渡っています。衛生上等兵として同地で終戦を迎えました。
この衛生兵の経験が、後に「小説帝銀事件」を書く時に役立っているように思います。
(5)終戦直後
1945年10月末に、彼は家族が疎開していた佐賀県の農家に帰還し、朝日新聞社に復職しています。しかし会社の給料だけでは生活が苦しいため、藁帚の仲買のアルバイトを始めました。やがて見本を持って関西方面まで遠出し、空いた時間に京都・奈良・飛鳥の古い寺社を見学しています。
1948年頃になると正規の問屋が復活し、このアルバイトができなくなったため、印刷屋の版下描きや商店街のショーウィンドウの飾りつけのアルバイトや、観光ポスターコンクールへの応募などを行っていました。
姉二人が乳児の時に死亡したため彼は一人っ子同然で、兵役に服した時以外はほとんど両親と同居し、貧しい家計を助けるためにいろいろな職を転々として働き続けました。
両親は、戦後亡くなりました(母は75歳、父は89歳で死去)が、彼は作家として売れるようになるまでは、子供4人を含む一家8人の生活を支えるために、今風に言えば「ワーキングプア」のように必死で働きました。
この境遇を彼は「この泥砂の中に好んで窒息したい絶望的な爽快さ、そんな身を虐むような気持ちが、絶えず私にあった」と書いています。
(6)1950年代に42歳から文筆活動開始
漫談家の綾小路きみまろ風に言えば「潜伏期間30年」といったところでしょうか?
もともと作家志望ではなく、42歳の時、生活のために勤務中に書いた処女作「西郷札」(1951年)が「週刊朝日」の「百万人の小説」の3等に入選し、直木賞候補にもなりました。
1952年に、木々高太郎(1897年~1969年)の勧めで「三田文学」に「記憶」「或る『小倉日記』伝」を発表しました。
ちなみに木々高太郎というのは、慶応義塾大学医学部卒の大脳生理学者(医学博士)で小説家(推理作家)でもあります。「探偵小説芸術論」を展開し、「日本探偵作家クラブ」(現日本推理作家協会)の第3代会長となったユニークな人物です。
1953年に「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補となりましたが、後に芥川賞選考委員会に回され、選考委員の一人の坂口安吾から激賞され、第28回芥川賞を受賞しました。
1953年12月に朝日新聞東京本社に転勤となり、一家で上京しています。この頃は、歴史書を雑読したり、民俗学の雑誌や樋口清之の考古学入門書を愛読しています。
しかし1956年5月に朝日新聞社を退社しています。退社の直接の契機は、毎日新聞社出身の作家井上靖からの「作家活動に専念するために退社すべき」という助言です。
井上も毎日新聞社に勤務の傍ら書いた「闘牛」で芥川賞を受賞し、40代で新聞社を退職後、新聞小説作家としての地位を確立しました。
1955年から「張り込み」で推理小説を書き始め、1957年短編集「顔」が第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞、同年から雑誌「旅」に「点と線」を連載しています。「点と線」は翌年刊行され、「眼の壁」とともにベストセラーとなり、「清張ブーム」が起こりました。
長年にわたって独学で蓄積して来た知識に想像力が加わって才能が一気に開花したようです。芥川賞作家でも、第2作・第3作を続いて書けない人が多い中で、彼には真の文学的才能が確実に眠っていたということです。
その後も「ゼロの焦点」「かげろう絵図」「黒い画集」「歪んだ複写」などを次々に発表し、執筆量の限界に挑みました。
なかなか書けない「遅筆」の小説家が多い中で、彼の多作ぶりは同時代の作家たちにも驚異(脅威?)であり、種々の憶測を呼びました。
作家の平林たい子は「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく『タイプライター』です」と発言しました。
これに対して彼は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論しました。
彼は後に執筆し過ぎのために「書痙」となり、以後は口述筆記させ、それに加筆するという形になりました。
1959年には「帝銀事件」を題材にして「小説帝銀事件」を書きました。帝銀事件は当時すでに最高裁で死刑判決が出て確定していました。その事件を推理することは「裁判批判」を意味しました。
しかし当時、「帝銀事件」のほかに国鉄三大ミステリー事件と呼ばれる「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が次々と起こり、ほかの文化人・作家による裁判批判も行われていました。
彼は「下山事件」に関しては、広津和郎や南原繁元東京帝大総長とともに「下山事件研究会」を結成し、「推理は推理、真実の追及は別になければならない」として、真相究明を訴え続けました。
(7)1960年代の文筆活動と、「純文学論争」、ベトナム戦争への関心
1960年にはノンフィクション「日本の黒い霧」の連載が始まりました。
これは、1945年~1952年までに起こった10件の事件(下山事件、もく星号墜落事故、白鳥事件、ラストヴォロフ事件、ゾルゲ事件、鹿地事件、松川事件など)に対する彼の推論と背景を論じたもので、当時「黒い霧」は流行語となりました。私の小学校高学年の頃ですが、この流行語はよく覚えています。
1960年~1961年にかけては読売新聞に「砂の器」を連載しています。
1961年9月に文芸評論家の平野謙が雑誌「群像」で「松本清張、水上勉らの社会派推理小説などの中間小説の優れたものが台頭し、純文学という概念は歴史的なものに過ぎない」と述べたことから、伊藤整、高見順などとの間に「純文学論争」が起こりました。
しかし彼は、ベストセラー作品への「中間小説という一括りの評価」に反発して、「文学には純文学と通俗文学の二つしかない」と述べています。
1963年11月から1964年1月にかけて、古代史の知識を駆使した「陸行水行」を発表しました。彼は「この小説は、論文として書かれたものでもなければ、私の邪馬台国論を小説化したものでもない。(中略)本にまとまるとかなりの反響があった。そこでこういうものが私の邪馬台国論と思われては困ると思い、その後二年して『中央公論』に『古代史疑』を執筆した」と述べています。
1964年~1971年にかけては、週刊文春に「昭和史発掘」を連載しています。これは「二・二六事件」に至る昭和初期の諸事件を、関係者への取材や史料をもとに描いたものです。
「ベトナム戦争」に際しては、「ワシントン・ポスト」紙に掲載するベトナム反戦広告募集の呼びかけ人の一人となっています。
(8)1970年代の文筆活動と歴史への関心、「霧プロダクション」設立
1970年代以降は、伝奇小説の大作「西海道談綺」や、奈良時代を題材にした歴史小説「眩人」を書いています。
また「邪馬台国ブーム」が盛り上がった1970年前後には、古代史をめぐる対談・座談会等が彼を交えてたびたび行われました。
1977年にはアメリカの世界的推理作家エラリー・クイーンを光文社などと共同で日本に招待しています。
1978年~1980年にかけて「週刊新潮」に連載された「黒革の手帖」は何度もテレビドラマ化され、最近では武井咲主演で大変話題になりました。
1978年には映画監督の野村芳太郎らと、映画・テレビの企画制作を目的として「霧プロダクション」を設立しました。
(9)1980年代のインド・中国訪問と「フランス世界推理作家会議」出席
1983年にはインド・中国を訪問しています。
1987年には、フランス・グルノーブルで開かれた第9回「世界推理作家会議」に招待され、日本人推理作家として初めて出席し、講演を行っています。
2.松本清張の言葉
・人間には、先入観が気づかぬうちに働きまして、そんなことはわかりきったことだと素通りすることがあります。これが怖いのです。
・空白の部分を考える。それが私の喜び。
・空想の翼で駆け、現実の山野を往かん。
・作家になるには、24時間、机の前に座っていられる性格であればいい。
・ぼくの史観?それはイデオロギーとか、政治学ではなくて、やはり人間を、あるいは組織をですね、見下ろすんじゃなくて、底辺のところで見回す、あるいは上を見上げるというか、そういうことだろうと思うんだ。ぼくは上から人間を描いたことはないと思いますけどね。
・自分は努力だけはしてきた。それは努力が好きだったからだ。思うように成果はなかったけれども、80歳になってもなお働くことができたのは有難い。
・私は小説家になるつもりは全くなかった。だから、読んだ本もきわめて少数にとどまる。ほんとうの一読者だから気ままな読み方で、好きなだけを手にとり、不向きだと思われる本ははじめから読まなかった。
手にした本でも退屈だったり、難解だったりしたら、すぐに投げ出した。つまり、小説家志望ではないから、勉強のための義務づけがない。我慢して読み「知識」をつける必要は少しもなかった。そのため、私の読書歴は浅く、視野は狭い。体系的でもない。
・私には時間がないんだよ。出発が遅かった私には、書きたいことがヤマのようにある。人生が足りないんだ。