1.「築山殿(つきやまどの)事件」とは
天正7(1579)年8月29日、徳川家康の正妻築山殿(瀬名姫)が、家康の命令により殺害されました。またこれに続いて9月15日には築山殿と家康の間の長男信康も切腹を命じられました。
この築山殿事件は、「家康生涯最大の痛恨事」と言われています。
通説としては、信長と家康の間に結ばれた「清須同盟」(1562年)が対等の同盟でなく、信長を主とし、家康を従とする主従関係に近い同盟だったので、信長の命に逆らうわけにいかず、妻と息子を殺さざるをえなかったというものです。
(1)通説
この事件の経緯は通説によると次のようになっています。
築山殿はもともと今川義元の妹の娘です。二人はまだ家康が今川家の人質であった時代の弘治3(1557)年に結婚し、2年後に信康が生まれました。時代は激動し今川義元は織田信長に「桶狭間の戦い」(1560年)で倒され、いつしか今川に縁のある築山殿は家康と別居。
信康は信長の娘の徳姫と結婚します。築山殿としてはこの処遇が面白くなく、甲斐の武田と内通して夫の家康を倒しわが子信康をたてて徳姫を排除、武田と連合で仇敵織田を倒そうと図りました。
ここでその動きを察知した徳姫は父の信長に「十二ヶ条の書状」を書き、ちょうど信長に会いに行く予定のあった徳川家の家臣の酒井忠次(1527年~1596年)に託して届けさせます。その書状を読んだ信長は激怒し、家康に、築山殿だけでなく、その子である信康も殺害するよう酒井を通して命じました。織田に逆らうことのできない家康は泣く泣く腹心の家臣に二人の殺害を命じます。
まず築山殿の元には野中重政ら3人を派遣しました。野中らは築山殿に家康殿がお会いしたいと言っているので来て下さいといって連れ出し、舟で佐鳴湖を渡っていた時に野中が突然後ろから「殿の命によりお命頂戴致します」と言って斬り殺しました。
報告を受けた家康は一応頷いたあと小声で「体だけ大きくて頭の回らない奴よなぁ。女なのだから尼にでもして逃がしてやればよいものを」と言いました。それを知った野中は自分のいたらなさを恥じ、故郷の堀口に隠居しました。
一方信康の方には服部半蔵と天方通綱を派遣しました。半蔵ははっきりと「殿からの命です。切腹して下さい。」と信康に告げます。信康は身に覚えがないため「なぜだ。父に会わせてくれ」と言いますが半蔵は「それは許されてないのです」と拒否。納得のいかない信康でしたが父の命令は絶対。やむなく形見の品などを託した上で半蔵に介錯を命じて念仏を唱え腹をきれいに十字に切りました。しかし半蔵もこの若君が哀れで哀れで首を切ることができません。そこで天方通綱が代わって介錯を務めました。享年21でした。
(2)異説
この通説に対しては、以下のような疑問・異説があります。
①なぜ徳姫が築山殿の内通を知ることが出来たのか? 築山殿は別居している訳だし、徳姫は徳川家内ではいわばよそ者で行動の自由も余り無いはずなのに。
②徳姫のそのような内容の書状をなぜ酒井ともあろうものがわざわざ信長に届けたのか。徳川に極めて忠実な酒井であれば当然信長の所には持っていかずに家康に届けるのではないか?
③なぜ信長ほどの人が娘の書状を見たくらいで家康に確認もせずにその妻子の殺害を命じたのか? そもそも徳川は織田に従属するものではなく、両者はむしろ同盟関係にあったはずである。信長は常々「家康殿は織田家にとって最も大事な人」と言っていた。
④家康にしてもなぜ自分で築山殿を取り調べなかったのか?そもそも築山殿は本当に武田と内通していたのか? もしそうであったら家康としては築山殿だけでなく関係するもの全員を処置する必要があった筈である。
⑤「築山殿は武田と内通したりしてなかった。徳姫の織田信長への十二ヶ条の書状なるものは存在しなかった。信長が築山殿と信康の殺害を命じたようなことはない。」と通説を全否定して、家康が自分の判断で自分の正妻と息子を殺害させた。
(3)司馬遼太郎らの説
司馬遼太郎は②の「酒井忠次陰謀説」をとっています。この根拠としては徳川家が豊臣秀吉により関東に国替えになった時、家康が徳川四天王の内、井伊には12万石、榊原と本多には10万石を与えているのに対して酒井にはなぜか3万石しか与えていないというのが背景にあります。大久保彦左衛門の『三河物語』もこの説をとっています。
(4)その他の説
①徳姫陰謀説
信康が側室を置いたことに嫉妬した徳姫が築山殿の内通をでっちあげて信長に通報したのが原因である。
②信長陰謀説
信長が徳川の力を削ぐためにその優秀な後継者である信康を殺害させた。
③於大の方陰謀説
「於大の方(おだいのかた)」(1528年~1602年)は家康の生母です。彼女の兄は織田家に仕えていたため、今川の支配下にあった広忠(家康の父)は彼女を離縁。そこで於大の方は今川を憎んでおり、今川家の築山殿を亡き者にしようとした。それを察知した築山殿は思い余って武田に援助を求め、それを察知した徳姫がこのことを信長に通報した。
この「於大の方陰謀説」は歴史学者に多いとも言われます。
④岡崎衆クーデター説
石川数正を筆頭とする信康の家臣たち(岡崎衆)は家康を排除して信康を徳川家の当主にすることを企んでいた。これを察知した家康が腹心中の腹心の服部半蔵とその従兄の青山成重に命じて信康と障害になると思われる築山殿を殺害した。酒井忠次は家康の命を受けて信長に、徳姫の夫である信康を殺害する許可を取りに行ったものである。石川数正は後に徳川家を去って豊臣に仕えている。
2.家康の正室・築山殿とは
家康の正室・築山殿(つきやまどの)(?~1579年)は、今川氏の一族関口親永の娘で今川義元の養女となり、弘治3 (1557) 年家康が今川氏の人質のとき、駿河で結婚しました。
家康との間に一男 (信康) 一女 (亀姫、奥平信昌夫人) がありました。桶狭間の戦い後、三河国岡崎に入り、岡崎の築山というところに居所を構えたのでこう呼ばれました。
天正7 (1579) 年、武田勝頼(かつより)に内通したことを織田信長に咎(とが)められ、家康の命を受けた家臣野中重政(しげまさ)の手によって浜松の近在で討ち取られました。
余談ですが、築山殿は嫉妬深い女性だったようで、次のようなエピソードがあります。
築山殿の侍女だった「お万」(後の側室「小督局(こごうのつぼね)」)が家康の寵を受けて懐妊したことを知った彼女は、嫉妬のあまり、お万を裸にして浜松城内の樹木に吊るしたそうです。
3.家康の嫡男・信康とは
徳川信康(1559年~1579年)は、徳川家康の長男で母は築山殿です。駿河(するが)(静岡県)駿府(すんぷ)で誕生。織田信長の娘徳姫と結婚。元亀(げんき)元年岡崎城主となり岡崎次郎三郎信康と名乗りました。
武田勝頼(かつより)との関係を信長に疑われ、家康の命で天正(てんしょう)7年9月15日遠江(とおとうみ)(静岡県)二俣城で切腹しました。
4.徳川家康とは
徳川家康(とくがわいえやす)(1542年~1616年、在職:1603年~1605年)は、江戸幕府初代将軍です。
岡崎城主松平広忠の長男。母は水野右衛門大夫忠政の娘。幼名は竹千代、初名を元信、のち元康と名乗りました。院号は安国院。
織田信秀、次いで今川義元の人質となりましたが、永禄3 (1560) 年義元が桶狭間の戦いで敗死すると、岡崎に帰り、織田信長とも親交を結び戦国大名として成長しました。
豊臣秀吉の天下統一に協力、五大老の筆頭として重きをなしましたが、秀吉の死後、石田三成と反目して慶長5 (1600) 年「関ヶ原の戦い」で三成らの西軍を破り、天下の覇権を握りました。
慶長8 (1603) 年2月 12日征夷大将軍宣下。同 10年将軍職を子秀忠に譲って大御所として駿河に引退しましたが、なお幕政を後見しました。
大坂冬・夏の陣 (「大坂の陣」 ) で豊臣氏を滅ぼし、幕府の基礎を築きました。元和2 (16) 年3月太政大臣となっています。墓所は初め久能山、のち日光山 です。