盲目の塙保己一が40年の歳月をかけて「群書類従」を編纂したのは驚嘆に値する

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塙保己一

世の中には体が不自由でも、前向きに立派な仕事をしている方がたくさんおられます。「五体不満足」という本で一躍有名になった乙武洋匡氏(1976年~ )もそうです。彼の屈託のない明るい性格と、「障害は不便です。しかし不幸ではありません」と言い切る新鮮なメッセージとが相まって、この本は大ベストセラーになりました。ちなみにこの言葉は三重苦だったアメリカのヘレン・ケラー(1880年~1968年)の残した言葉(A handicap is inconvenient,is not a misfortune, though.)です。

ほかにも、事故で手足が不自由になり、口に絵筆をくわえて描くようになった画家の星野富弘氏(1946年~ )などがおられます。

江戸時代にも、幼少時に失明したものの立派な国学者となり、「群書類従」を編纂した塙保己一がいます。

今回は塙保己一についてご紹介したいと思います。

1.塙保己一とは

塙保己一(1746年~1821年)は、武蔵国(現在の埼玉県)の農家(父:荻野宇兵衛、母:きよ)の長男として生まれました。体が丈夫ではありませんでしたが、草花を好み非常に物知りであったそうです。

7歳の時、疳(かん)の病気(胃腸病)がもとで失明します。さらに12歳の時に母が病死したため、失意の中、学問で身を立てるべく13歳で江戸へ出ました。当時江戸では、「太平記」を暗記してそれを読み聞かせて有名になっている人がいると聞いて、彼は「わずか40巻の本を暗記するだけで妻子が養えるなら、自分にも不可能なことではない」と言ったと伝えられています。

そして15歳の時、雨富須賀一という検校の盲人一門に入門し、琵琶・琴・三味線・はり・きゅう・按摩などの修業をしますが、生来不器用で覚えが悪く三年経っても一向に上達しませんでした。やはり人には得手不得手があるものですね。

これは、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授が研究者の道に入る前、整形外科医の手術のトレーニング中、不器用で失敗が多いため「ジャマナカ(邪魔な山中)」と揶揄われたというエピソードを彷彿とさせる話ですね。

これでは生きて行く術がないと絶望した保己一は自殺を決意します。その思い悩んだ時の心境を吐露したのが「命かぎりにはげめば などて業の成らざらんや」という言葉です。そして自殺を直前で思いとどまった彼は、師匠の雨富に「学問への思い」を告げます。

すると師匠は、「盗みと博打以外なら自分の好きな道を目指せ。3年経っても見込みがなければ国元へ帰すことを条件に、3年間は私が面倒を見よう。」と言ってくれました。

喜んだ彼は、漢学・医学・律令・神道・和歌など様々な学問を学び始めました。目が見えないので書物を音読してもらい、超人的な努力でそれを暗記していったそうです。

師匠は体の弱い彼を心配して、旅をすれば丈夫になるだろうと、21歳の春、父と共に関西旅行をするよう勧めたそうです。京都の北野天満宮に詣でた彼は、菅原道真(845年~903年)を守護神と決めました。彼は古書の散逸や焼失を危惧しており、「古書の収集・編纂と刊行」を北野天満宮に誓ったそうです。

2カ月の旅を終えて戻ると体も丈夫になり、以降学問への集中力も高まったそうです。それから3年後、最晩年の賀茂真淵(1697年~1769年)に「六国史」などを学んでいます。

1775年には、師匠の雨富検校の苗字をもらって塙姓を名乗り、名も保己一に改めました。これは中国の「文選」にある「己を保ち百年を安んず」を出典としたもので、百歳までも生きて目的を遂げるとの決意のようです。

彼は「数万冊の古文献を頭に記憶していた」と言われています。大田南畝は「博覧強記にして、書、万巻を暗誦す」と述べており、松平定信は「塙は人にあらず、書物の精が生まれ変わったもの」と称賛しています。

1783年に「検校」となり、1793年には幕府から土地を借りて「和学講談所」を開設して会読を始め、多くの門人を教えています。1821年には検校の最高位の「総検校」となりました。

2.群書類従とは

群書類従

菅原道真は「学問の神様」として有名ですが、「類聚国史」(892年)の編纂者でもあります。「類聚国史」とは、編年体である「六国史」の記載を中国の類書にならって分類再編集した歴史書です。

この「類聚国史」を範として、彼は日本各地に散在している古代から江戸時代初期までの国学・国史を中心とした古書や資料を、江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て収集・編纂し、刊行(1793年~1819年)したのが「群書類従」です。

彼は群書類従の版木を製作させる際、20字×20行の400字詰めに統一させました。これが現在の原稿用紙の基本様式となっています。

1273種530巻666冊から成る膨大な書籍ですが、歴史学・国学・国文学などの学術的研究に多大な貢献をしています。

この40年の歳月をかけた畢生の大事業を成し遂げるために、幕府から版木製作費用や版木倉庫借用費を借用したり、大阪の鴻池などの豪商からも彼は多額の借金をしており、存命中には返済し切れず、息子の塙忠宝の代までかかったそうです。本来であれば、江戸幕府や健常者の国学者などが中心となって遂行すべき国家的事業を、盲目の彼が私費まで投じて完遂した執念は驚嘆に値します。

また貴重な書籍を求めて、幕府や諸大名・寺社・公家などに「筆写」の許可を求めることになったのですが、当時は秘本・珍本類の書籍は「門外不出」「他見を許さず」と言って、容易に見せたり筆写を許さなかったので、彼は大変苦労したようです。

3.ヘレン・ケラーとの意外な関係

ヘレン・ケラーは幼少時から「塙保己一を手本にせよ」と母親に教育されたそうです。1937年(昭和12年)に来日した彼女は、渋谷の「温故学会」(1909年に設立された塙保己一顕彰組織)を訪れて、人生の目標であった塙保己一の座像や使用した机に触れています。

彼女は「先生(塙保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っています。

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