第二次世界大戦後の「極東国際軍事裁判(東京裁判)」で「A級戦犯」として死刑判決を受けて絞首刑に処された人々の中に、唯一人の文官(軍人以外の国家機関に勤務する者)である広田弘毅がいました。
そのため彼は「悲劇の宰相」とも呼ばれます。城山三郎の小説『落日燃ゆ』(1974年刊行)で有名になりましたね。
そもそも「極東国際軍事裁判」は、「戦勝国による敗戦国に対する一方的な裁判」で、しかも「戦争犯罪」の中の「平和に対する罪」(A級)や「人道に対する罪」(C級)という罪名は「事後的に作られたもの」という理不尽なものでした。
「戦争犯罪」とは、 戦時国際法 に違反する罪のことで 交戦法規 違反を指します。 通常は戦闘員や司令官(交戦者)、あるいは非戦闘員の個人の犯罪行為を対象とし、交戦規則を逸脱する罪が問われます。
「国際軍事裁判所条例」制定に関わる議論のなかでこの概念は拡張されており、国家犯罪(国際的懸念事項)としての「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が創設されました。
私は以前から「なぜ文官である広田弘毅が死刑にならなければならなかったのか?」という疑問を持っていました。
広田弘毅は、出頭直前に自殺してしまった近衛文麿に代わる「スケープゴート」(身代わり、生贄)になったのではないかと私は思います。
1.広田弘毅が東京裁判で文官で唯一人死刑となった理由とは?
(1)外相時代の「南京事件」に対する不作為の罪
広田弘毅は首相時代ではなく外相時代の「不作為」のため絞首刑に処せられました。
決して広田内閣時代の「軍部大臣現役武官制の復活」や「日独防共協定の締結」が理由ではありません。
東京裁判で広田弘毅は、外務大臣当時、南京事件(「南京大虐殺」と呼ばれる日本軍の惨虐行為)の情報を得ながら、それを止める有効な手立てを講じなかったという怠慢・不作為が犯罪であると認定されて極刑(絞首刑)に処せられました。外務大臣なので在華日本人外交官や海外の外交ルートからの情報が入っていたので、他の文官大臣とは違うというわけです。
ちなみにナチス・ドイツの戦争指導者たちを裁いた「ニュルンベルク裁判」では、ナチス・ドイツの外務大臣でやはり文官のヨアヒム・ファン・リッベントロップが広田同様絞首台送りになりました。外務大臣は自らの情報網や外交ルートから入ってくる情報があるので、自国の犯罪行為を止めようとしない怠慢・不作為の罪は他の大臣より重いというロジックです。
(2)「残虐行為防止義務の違反(無作為責任)」
広田は次の3つの訴因で有罪となりました。
- 侵略戦争の共同謀議
- 満州事変以降の侵略戦争
- 戦争法規遵守義務の無視
つまり有罪の理由は、訴因第1(東アジア、太平洋、インド洋等支配のための一貫した共同謀議)、第27(対中国戦争の実行)、第55(戦争犯罪および人道に対する罪の防止の怠慢)でした。
最終的には「残虐行為防止義務の違反(無作為責任)」で、南京事件当時の外相として、南京での残虐行為を知りながらそれを防止する努力をしなかったこと(不作為)が決め手となりました。これは「B級訴因」です。
東京裁判の訴因には有名な「A級訴因」すなわち「平和に対する罪」と、「B級訴因」すなわち「通例の戦争犯罪(捕虜や一般人の殺害など)」とがありましたが、東京裁判で死刑になった者(東條以下7名)は、例外なく「B級訴因」の有罪が原因でした。
「A級訴因」の有罪だけで死刑になった者は一人もいません。また「B級有罪」であっても関与が低ければ死刑にはなっていません(畑、小磯、重光の三人)。
2.広田弘毅とは
広田弘毅(ひろたこうき)(1878年~1948年)は、外交官出身の政治家です。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。
外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任しました。戦後に行われた「極東国際軍事裁判(東京裁判)」でA級戦犯として有罪判決を受け処刑されました。
(1)生い立ち・少年時代
広田弘毅は、福岡県那珂郡鍛冶町(なかぐんかじちょう)(現・福岡市中央区)に、石材屋を営む広田徳平の子として生まれました。父の徳平は農家から徒弟に出され、真面目さを見込まれて広田家の養子となった人物です。
広田も父の仕事を手伝っており、水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)の鳥居に掲げられた「天満宮」の字は、広田が書いたものです。幼少から書道を習っており、字を書くのが得意だったのです。
そのほか広田は、「玄洋社」(*)という政治結社の柔道場にも通っており、柔道もかなりの腕前だったそうです。
(*)「玄洋社(げんようしゃ)」(1881年 – 1946年)は、頭山満(とうやまみつる)ら旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって結成された政治団体です。当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張しました。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西欧列強と対抗する大アジア主義を構想しました。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていました。中村天風も玄洋社に属していました。
同時に「玄洋社」は、孔子の『論語』など、漢学も教えており、これらは広田の精神面の礎になりました。
(2)学生時代
少年期の広田は陸軍に入ることを志していました。しかし地元の修猷館(しゅうゆうかん)中学(現・福岡県立修猷館高校)に通っていたころ、国交を巡るとある事件をきっかけに、外交官を志すようになります。
1895年、日清戦争に勝利した日本は、中国と「下関条約」を結び、遼東半島を割譲されました。これに対し、帝国主義列強のフランス・ドイツ・ロシアがその返還を要求する「三国干渉」を行い、日本は遼東半島の返還を余儀なくされます。
この事実を目の当たりにした広田は「日本は外交が弱すぎる」と痛感し、優秀な外交官となるべく、1898年に旧制第一高等学校(現・東京大学教養部)への進学を決めました。
広田は学年でもトップクラスの学力を持っていましたが、家は貧しく、この進学に際しても「玄洋社」の支援を受けたということです。
広田の幼名は丈太郎で、外交官を目指すことを決めると同時に「弘毅」と改名しています。その意味は論語の一節「士は弘毅ならざるべからず」に由来しており、「弘」は「広い見識」、「毅」は「強い意志」を意味しています。
広田は1903年に、第一高等学校から東京帝国大学法学部へと進みました。
このころには、「玄洋社」社員で外務官僚の山座円次郎(やまざえんじろう)(1866年~1914年)に気に入られ、満州や朝鮮、シベリアの視察に向かっています。
余談ですが、山座円次郎も東大出身の外交官ですが、彼の東京大学予備門の同期には、夏目漱石・正岡子規・南方熊楠・秋山真之らがいます。
そして、卒業と同時に高等文官試験を受けて外交官になろうと思っていたのですが、実は広田はこの試験に一度落ちています。しかし、翌年には首席で合格しています。
(3)外交官時代
英語がすこぶる苦手だったといい、アメリカ大使館に勤めていた時には、「英語が下手すぎる」として通訳を降ろされたこともあったそうです。
ただ、広田は1906年に外交官となって以来、右に出る者はいないぐらいの猛勉強を積んでいきました。
広田は外務省入りを果たしてから20年余り、ヨーロッパを中心にさまざまな国の大使館に勤めました。
その間、同僚からの遊びの誘いには一切応じず、職務以外の時間をほとんど勉強に費やしていたといいます。
また、政治家の演説に耳を傾ける群集に近づき、直接意見を聞くことでその国の政治の流れを探ることもしていました。
生活のすべてを賭した努力によって、広田の才覚は磨かれていったのです。
こうして、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)(1872年~1951年)が外務大臣を務めた時代には、幣原と並ぶ外務省の重要人物と考えられるほどになりました。
1925年に結ばれたソ連との「日ソ基本条約」、それに伴う国交の回復は、広田の功績によるものとされています。
(4)協和外交
1933年、広田は斎藤実(さいとうまこと)内閣で外務大臣に就任し、続く岡田啓介内閣でも外務大臣を歴任しています。
外務大臣となった広田は、満州国の承認を巡ってピリついていた中国との交渉を担当しました。帝国議会で「私の在任中、戦争は断じてないと確信しています」と述べるなど、あくまで平和的な方法で交渉を行う姿勢(協和外交)を示していました。
ただ、この時期は満州を起点に、陸軍が独断で中国への侵攻を進めようとしていた時期でもあり、一筋縄では行きませんでした。
「満州事変」(1931年~1932年)や、犬養毅首相が暗殺された「五・一五事件」(1932年)など、その動向はかなり過激なものになっていました。
そのため、中国との融和を唱えるにしても陸軍を刺激しない内容に留める必要があり、実際の外交はあまり上手くいっていないのです。
広田の外務大臣としての功績が評価されていないのは、難しい時期にその官職を任されたがゆえといえます。
(5)内閣総理大臣
1936年、陸軍将校によるクーデター未遂「二・二六事件」が勃発しました。大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実らが殺害され、岡田内閣が総辞職に追い込まれます。これを受け、広田に組閣の大命が下ることとなりました。
広田が首相に選ばれたのは、日中関係を巡って過激さを増す陸軍を抑えられる人材と目されたからです。前任の岡田啓介にしても、海軍出身者で、陸軍をけん制できる人材であったため、首相に選ばれています。しかし、その岡田でさえも将校たちの襲撃を受ける事態になりました。
こうして、陸軍に受けのいい人物として貴族院議員・近衛文麿が推挙されるのですが、近衛はこれを辞退。「それなら外交に深い見識のある広田がよい」ということで彼が選ばれました。
広田が首相が務めた時期はわずか11か月です。その間、約3千人に上る陸軍軍人の人事異動を行い、大規模な軍縮に乗り出しています。「二・二六事件」を受け、軍部の暴走を食い止めるべく動いたわけです。
しかし、やはり陸軍の要求には慎重にならざるを得ず、代償として「軍部大臣現役武官制(現役の大将や中将が陸海軍大臣となる制度)の復活」や「軍備拡張予算の成立」などを認めることになりました。
この動向に対し、1937年1月、衆議院議員・浜田国松は陸軍の横暴を非難する演説を行います。陸軍大臣・寺内寿一はこれに激怒し、衆議院の解散を訴える事態にまで発展しました。
解散に反対した広田は説得を行いますが、寺内は断固として意見を取り下げず、最後は内閣不統一により、広田内閣が総辞職することとなります。
陸軍を抑え込むために組閣された内閣が、陸軍に振り回された挙句、総辞職となったわけです。
(6)太平洋戦争敗戦後の「極東国際軍事裁判(東京裁判)」でA級戦犯として死刑
1945年の終戦を迎えると、広田はGHQ総司令部によってA級戦犯の罪に問われ、逮捕されてしまいます。
首相辞任後の1937年、広田は近衛文麿内閣にて外務大臣となっており、その際の諸政策の影響を罪に問われることとなったのです。具体的には、「日中戦争に際し、陸軍を止めようとせず静観した」という内容でした。
広田は日中戦争に対して「不拡大方針」を示していましたが、陸軍の勢いを止められず、結局は占領地域の拡大に妥協せざるを得ませんでした。
ドイツ大使を通じて中国との和平交渉も模索しましたが、それも占領地域拡大に伴って決裂してしまいます。
広田は戦争にはあくまで反対していたものの、陸軍に押し切られる形でその決行を認めることとなってしまったのです。
死刑とされたことにはやはり、疑問を感じる部分もあります。実際、広田の死刑判決の11人の判事の判断は「死刑:6名、禁固刑:2名、無罪:3名」で、6対5の僅差での死刑判決でした。(ちなみに軍人6人は7対4での死刑判決でした。)
広田をすべての訴因において無罪としたオランダ代表の判事は、「文官政府は軍部に対しほとんど無力であった」ことを認め、その限られた枠の中で広田が十分な努力をしたと主張しました。
広田の死刑は、検事団にとってさえ意外であり、キーナン首席検事は「なんというバカげた判決か。絞首刑は不当だ。どんな重い刑罰を考えても、終身刑までではないか」と慨嘆しました。
禁固刑や無罪を主張した判事は判決を疑っており、弁明次第では罪を免れていたとされています。それでも、広田は裁判の席で一切の弁明を行いませんでした。
この裁判において「軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れることができた」という分析も多く、広田とは対照的に軍部に責任をなすり付ける発言に終始した内大臣・木戸幸一(1889年~1977年)(「明治の元勲」で「逃げの小五郎」の異名もある木戸孝允の孫)は、後に広田の裁判における姿勢について「立派ではあるけどもだ、…つまらん事だと思う」と評しています。
木戸幸一の『木戸日記』は、自分の罪を一部認めるが、犯罪全体を明らかにすることによって告白者の罪を減じるという「司法取引」の性格を持ったものでした。これは「A級戦犯」として起訴されることを察知した木戸が、GHQの諜報課長だったハーバード・ノーマンのルートを利用して、近衛文麿を文官としてA級戦犯の筆頭とする画策だったようです。
御前会議や重臣会議にも参加した広田は、被告人のなかでは昭和天皇と特に関わりの深い人物で、「そんな自分が余計なことを口走ってしまえば、天皇陛下に害が及んでしまいかねない」と彼は懸念して、裁判の席で沈黙を貫いたようです。
妻の静子はその意志を汲み、1946年5月18日、開廷前に服毒自殺しました。後ろ髪引かれる想いを捨てて裁判に臨めるよう、広田を送り出したのです。
こうして迎えた1948年12月23日、絞首刑によって、広田弘毅はその生涯を終えることとなりました。
なお広田よりも戦争責任が重いとされた近衛文麿は自殺し、松岡洋右は病死しています。彼らが存命であれば、広田は死刑になることはなかったのではないかとも言われています。
3.広田弘毅の言葉
・外交に日曜なし
これは、外交官時代に休日の過ごし方について聞かれた時の返答です。
・すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ
これは、絞首刑前に広田が残した言葉です。
・物来順応(ぶつらいじゅんのう)
広田の座右の銘です。「物来たればこれに応じて対処する」で、意味は「向こうから来るままに応じること」です。これは受け身に生きるという意味ではなく、「今ある事に全力を注ぐ」「与えられた役割を全うする」等の能動的な生き方を表しています。
4.理不尽な死・無念の死
蛇足ですが、広田弘毅のほかにも「理不尽な死」や「無念の死」の事例がいくつもありますのでご紹介します。
(1)「鎌倉殿の13人」に出てきた理不尽な死・無念の死
①主命によって源義高を討ち取ったのに処刑された藤内光澄
余談ですが、2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝および北条義時らの北条家と敵対したり邪魔になった多くの御家人たちが源頼朝や北条義時らによって「謀反の疑い(という名目)で成敗」されたり、「謀殺」「誅殺」「暗殺」されるなど、「鎌倉の血塗られた歴史ドラマ」が展開されています。
最近特に印象に残っているのが、5月1日放送分の藤内光澄(とうないみつずみ)(?~1184年)が処刑される際に「なぜだ…。なぜだぁー!」と絶叫する場面と、甲斐源氏の棟梁・武田信義の嫡男・一条忠頼が「謀反の疑い」で成敗される場面です。
人質となっていた源義仲の嫡男で源頼朝と北条政子の長女・大姫の許嫁(いいなずけ)でもある源義高が、大姫から「頼朝が義高を誅殺する計画がある」と聞き、北条政子らの手引きで幽閉先から逃亡しました。
義高の逃亡を知った頼朝が「義高を討ち取れ」と命令したのを受けて、御家人の藤内光澄が義高を討ち取ったにもかかわらず、大姫を不憫に思った北条政子の逆鱗に触れたため、恩賞をもらえるどころか理不尽にも処刑されることになったのです。「無念で、全く合点が行かない最期」だったでしょう。義時が処刑に立ち会っていました。
②「源義高をそそのかし鎌倉殿への謀反を企んだ」として誅殺された一条忠頼
父・武田信義(八嶋智人)とともに義高に頼朝討ちを持ち掛けていた一条忠頼(前原滉)は頼朝から、「此度はそなたが一番手柄じゃ。そなたがいなければ、義高を逃しておったぞ」と言われましたが、忠頼の背後を御家人たちが固め、「で、義高と何を話した。さらばじゃ」と一言。義時は「一条忠頼、源義高をそそのかし、鎌倉殿への謀反を企んだ、その咎によって成敗いたす」――。その口ぶりは、梶原景時(中村獅童)が上総広常(佐藤浩市)を斬った時のようでした。仁田忠常(高岸宏行)が背後から忠頼を斬りましたが、義時は冷たく無表情のままでした。
忠頼の父・武田信義は、「謀反とは家人が主人に対して行うもの。わしは一度も頼朝の家来になったことはない」と悔しがりましたが、後の祭りです。
(2)ロシアが侵略したウクライナでの一般市民の理不尽な死・無念の死
①ロシアによる軍事施設以外へのミサイル攻撃で死亡した市民
ロシアによるウクライナの住宅や劇場など軍事施設以外への無差別砲撃によって、ウクライナの多くの一般市民が犠牲になっています。
②「人道回廊」で救出されたはずが、「選別センター」という収容所に入れられ射殺された市民
本来はウクライナの安全な場所へ避難するはずだった市民を乗せたバスの一部が、途中でロシアが支配する地域で「選別センター」と呼ばれる強制収容所に送られ、「ウクライナ政府関係者」や「反ロシア」の住民が、拷問を受けたり射殺されたりしているようです。
(3)アメリカの空襲や原爆投下によって死亡した日本の一般市民
アメリカによる民家など軍事施設以外への空襲や原爆投下は明らかに国際法違反です。
これについては、「広島と長崎への原爆投下は国際法違反ではないか?その戦争責任は?」「広島と長崎への原爆投下の本当の理由とは何だったのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
(4)シベリアに抑留され、過酷な強制労働の末に命を落とした元日本兵ら
約60万人の元日本兵らが、ソ連軍によってシベリアに抑留されて、過酷な強制労働を強いられ、そのうち約5万5千人が彼の地で亡くなりました。これも明らかにソ連による「戦争犯罪」です。
これについては「北方領土返還問題」と「シベリアやフィリピンなどの戦没者遺骨収集事業は、今や断念し終了すべき時期!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。