忠臣蔵の四十七士銘々伝(その8)奥田貞右衛門行高は討ち入り直前に生まれた息子の顔も見ずに切腹

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奥田貞右衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.奥田貞右衛門行高とは

奥田貞右衛門行高

奥田行高(おくだ ゆきたか)(1678年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は貞右衛門(さだえもん)です。変名は小四郎(元禄15年3月頃)のち西村丹下(医者)。家紋は丸に洲浜(すはま)

家紋・丸に洲浜
丸に洲浜

2.奥田貞右衛門行高の生涯

延宝6年(1678年)に赤穂藩浅野家譜代家臣の近松行生の五男として誕生しました。母は徳島藩蜂須賀家家臣の仁尾清右衛門の娘・かめ。

異母兄に近松勘六行重がいます。元禄7年(1694年)、奥田孫太夫重盛の婿養子に入り、家督前の部屋住みとして過ごしました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には江戸にあり、4月に養父・重盛が堀部武庸らとともに国許の赤穂に向かった後も行高は江戸の深川八幡町にあり、討ち入り1週間前の元禄15年(1702年)12月8日に一人息子となる奥田清十郎(*)が生まれました。

(*)奥田貞右衛門行高の遺児である奥田清十郎は、2歳の時に祖母の実家である仁尾家に養子(仁尾官右衛門の養子)に入り、その家督を継ぎました。元服後に若くして阿波蜂須賀家から250石の高禄を得たことで徳島藩士たちと度々敵対し、享保9年(1724年)に心労もあり24歳で早逝しました

なお清十郎の叔母(行高の妹)・百も異母弟・仁尾官右衛門に嫁ぎましたが実子なく、仁尾家には養子が入り続きました。

その後は父とともに行動し、深川黒江町に住みました。変名は西村丹下。 赤穂事件で討ち入りの際には裏門隊に属しました。水野忠之の屋敷にて、同家横山笹右衛門の介錯で切腹しました。享年26

戒名刃秋跳剣信士で、主君浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られました。

3.奥田貞右衛門行高にまつわるエピソード

(1)遺児への気遣い

行高は、遺児である清十郎を気遣い、自分の死後、その脇差を売ってかまわないと言い残しています。しかし、実際には泉岳寺の住職が勝手に売却し、換金しました

(2)兄思いの弟

討ち入り後の引き揚げの時、戦いで池に落ちて負傷した兄の近松勘六行重に自分の小袖を着せていたわる姿が見られたということです。

4.奥田貞右衛門行高の辞世・遺言

辞世は無し。

遺言:弟の文良(谷中重福寺の僧)と生母聖光院宛の手紙(元禄15年12月2日付)
「此勢州と有脇指正作せんご村正にて御座候よし、此間去上手之目利者見せ申候、此脇差殊外出来よく無類のよし、銘をすりつむし候らえば正宗にも成り可申候。左候はば大莫百枚以上に成可申候。

此事承知仕候得共、此節殊外閙舗(さわがしく)不能其儀候、世倅清十郎成人仕り十人なみの生付にて御座候はば御はらひ金子にて成りとも高価にうれ不申候はば、やはり其のまま御置十四五歳にもなり申候はば、御渡し可被下候、それも近年に御はらひ被下候はば金子は少つゝ可被遣下候奉願候」