忠臣蔵の四十七士銘々伝(その21)武林唯七隆重は吉良上野介を捕らえ斬殺した功労者

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武林唯七

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.武林唯七隆重とは

武林唯七隆重

武林唯七隆重

武林隆重(たけばやし たかしげ)(1672年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は唯七(ただしち)です。変名は渡辺七郎右衛門。

家紋・巴

2.武林唯七隆重の先祖

隆重の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛です。

「江戸名所図絵」巻六 金竜山浅草寺の項によれば、孟二寛は古代中国の思想家孟子の後裔(広島の国泰寺塔頭南湘院墓地にある墓によれば孟子から六十一世)として浙江省杭州(旧称は西府)武林に生まれ、医学を学んで育ち、文禄の役の際に日本軍の捕虜となりましたが、医術に精通していたことから毛利家が召し抱えたということです(文禄の役に毛利家は出陣していませんが、慶長の役には毛利秀元が出陣しています)

一方広島の国泰寺塔頭南湘院墓地にある墓によれば「明杭州武林郡人 漂流仕長門国 称孟二官 後仕芸州藩 為医官 改武林治庵 明暦三年丁酉五月十八日病死 実亜 聖孟子六十一世裔也」とあり、捕虜ではなく漂流説をとっています

いずれにしてもその後浅野家に仕えるようになり、日本の士分に取り立てられて、故郷の「武林」を氏として「武林治庵士式」と改名しました。さらに日本人の渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の姓をとって「渡辺治庵」と改名しています。

その間に生まれた子が隆重の父の渡辺式重です。式重には男子が二人あり、兄の渡辺尹隆が渡辺家を継ぎ、次男の隆重分家することになりましたが、この際に祖父がかつて使った「武林」を家名として使うこととして武林家を再興しました。

なお、『忠臣蔵』を紹介するメディアで「赤穂浪士の中に外国人がいた」として祖父が明出身だった武林のことが紹介されることがありますが、上記のように帰化して三世にあたるため外国人とは呼べず、こういった表現は誇張です。

ただ、武林は漢詩をよくし、また浅野長矩による朝鮮通信使の饗応には御供しています。

3.武林唯七隆重の生涯

寛文12年(1672年)、赤穂藩士・渡辺式重の子として誕生しました。母は北川久兵衛の娘です。兄に渡辺尹隆がいます。赤穂藩では、中小姓15両3人扶持で仕えました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となりました。

隆重はこの際には江戸に居ましたが、赤穂藩の江戸屋敷が引き払われたあとにすぐさま赤穂へ向かい、ここで大石良雄に神文を提出したあと、6月には江戸へ戻りました。

堀部武庸らに賛同して江戸急進派の一人となりました。兄・尹隆も江戸急進派でしたが、両親が病になったため、兄弟のどちらかが看病しなければならなくなり、のちに隆重や大石良雄から討ち入り参加を諌止されてやむなく脱盟しました。

10月の大石第一次東下りの際に江戸三田の前川忠太夫邸で江戸急進派を集め、隆重も出席しています。大石は来年一周忌に決行を約束しましたが、元禄15年(1702年)2月になっても江戸下向しませんでした。

そのため隆重と不破正種が上方へ送られ、原元辰宅を訪ねました。ここで隆重は大高忠雄に向かって「ご家老が決起しないのは側近のあなたたちが腑抜けだからだ」と暴言を吐き、不破に諌止されたといわれます。

また、6月には浅草茶屋にて杉野次房・前原宗房・倉橋武幸・不破正種・勝田武尭と同盟した。この同盟は目的がいまひとつ不明ですが、同じ中小姓で同程度の家格の者として結びあったものと思われます。江戸では父や兄の氏を取り、「渡辺七郎左衛門」の変名を使用しました。

討ち入りの際には隆重は表門隊に属して屋内に突入した一人です。しかし1時間あまり、赤穂浪士たちは屋敷をくまなく探索しましたが、吉良義央は見つかりませんでした。

明け方ちかく、隆重たちが炭小屋に矢を射掛けると、二人の敵が飛び出してきました。敵を斬り捨てると、隠れていた白髪の老人が脇差を抜いて飛び出してきました。間光興が初槍をつけ、隆重が斬殺しました

駆けつけた大石らと共に死体を検分すると、額と背中に松之大廊下で浅野長矩が斬りつけた傷があったため、吉良義央と確認。一番槍の間光興が首をはねました。隆重は二番太刀ではありますが、吉良を絶命させた武功者として讃えられました。この二人は日頃から親密でした。

赤穂浪士一党は浅野長矩の墓所がある泉岳寺に引き上げ、墓前に吉良義央の首級を供え仇討ちを報告しました。初槍をつけた間光興が一番に焼香し、討ち取った隆重が二番目に焼香しました。

隆重は毛利綱元の上屋敷へ預けられました。毛利家は武林ら義士たちを罪人として厳しく扱い、護送籠に錠前をかけ、その上から網をかぶせました。到着後は長屋の窓や戸には板を打ち付けました

元禄16年(1703年)2月4日、江戸幕府の命により毛利家家臣・鵜飼惣右衛門の介錯により切腹しました。その際、鵜飼の介錯は首の半ばまで斬りこんだが失敗し、二太刀目で再び首を斬り介錯しています。享年32

戒名は、刃性春劔信士で、遺体は泉岳寺に運ばれ丁重に葬られました。

綱元は義士切腹後に、「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と大いに慶び、跡地を清め藩邸内の何処で切腹したか、判らないようにすべく指示しています。またのちに、江戸で没したにもかかわらず自身の遺体を長府に送らせ、菩提寺である泉岳寺での赤穂義士との併葬を拒否しました。

令和の御代になっても、毛利庭園での切腹地の場所は全く不明のままです。毛利家の意向により預かり四大名で唯一、同地には赤穂義士の顕彰碑の類が皆無です。庭園名に「毛利」を冠した森ビルも踏襲しています。

なお兄・半右衛門は、広島藩浅野本家に召抱えられました。「武林勘助尹隆」と改名し、内蔵助の遺児である大石良恭の広島藩召抱えに尽力しましたが、曽孫・武林隆斌の代で断絶しています。

国泰寺にあった武林氏家祖の墓は昭和20年(1945年)8月6日の原爆投下で全焼全壊しました。昭和53年(1978年)に国泰寺が広島市西区の己斐に移転した際、大三郎の墓とともに再建されています。

5.武林唯七隆重にまつわるエピソード

(1)吉良上野介を捕らえた功労者

吉良上野介吉良上野介吉良上野介

広間から進み吉良義周の居間に近づこうとした時、薙刀をもって向かってきたので斬り合って額と背中に傷を負わせたが助太刀が来て取り逃がします。

捨てて逃げた薙刀には吉良家の定紋が入っていたので吉良左兵衛義周であったかも知れないと口惜しがったと書いている書物は「介石記」「烈士報讐録」「赤穂四十七士伝」「元禄快挙真相録」「真記赤穂義士録」「武林隆重伝」など多くありますが、戦った武士は不破数右衛門が正しいとする説もあります。

台所近くの炭部屋で、吉良上野介を捕らえた手柄により泉岳寺で二番目に焼香しています。

(2)大石内蔵助とともに遊郭で遊興

母への書簡で「憂さはらしに島原や吉原へも行ったから浮世に気の残りはない」と書いており、大石と共に遊郭で遊んだようです。

(3)「忠臣蔵」での逸話

「忠臣蔵」の芝居では、隆重が赤穂を出立する前に、武林兄弟の母は自害します。また、兄の半右衛門は脱落義士と蔑まれましたとあります。

しかし史実では、父(渡辺式重)と母(九兵衛娘)は病床にあり、半右衛門が両親介護のため義挙から撤退しています。

(4)「講談」での逸話

「講談」の「粗忽の使者」では、隆重は或る時、広島藩の浅野宗家と間違えて黒田家の藩邸に行き、座敷に上がり昼餉だけ馳走になったあと、火事だと騒いで屋敷を飛び出し帰宅してしまったとあります。また、広島藩邸で貰った進物の花を馬の鞭にしてしまったという脚色もあります。

しかしこれは実話ではありません。

6.武林唯七隆重の辞世・遺言

仕合や 死出の山路は 花ざかり

三十年来一夢中、捨身取義夢尚同、双親臥病故郷在、取義拾恩夢共空

遺言:兄・渡辺半右衛門宛の手紙

「払ひ道具など後座候間、御見合次第に御払ひ下さる可く候。頼み奉り候。金にいたし母に渡し申し度く存じ奉り候。貴様御世話ながら、ひらにひらに頼み奉り候」

「憂さはらしに島原や吉原へも一度は行ったから浮世に気の残りはない。ただ大きな心残りは赤穂に残して置いた妾のことで、思えば可哀想でならない」

「妹が松山より帰って赤穂へも参っているだろうから何事も兄貴を御頼みしており宜敷面倒を見てやって欲しい」