忠臣蔵の四十七士銘々伝(その31)不破数右衛門正種は不始末で浪人したが討ち入りでは一番の活躍

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不破数右衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.不破数右衛門正種とは

不破数右衛門正種

不破正種(ふわ まさたね)(1670年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は数右衛門(かずえもん)です。変名は松井仁太夫、町人 八左衛門。

浅野家に仕えていましたが、平時には不向きな粗野な性格が災いして江戸城松の廊下刃傷事件勃発当時は浪人となり江戸にいました。

旧藩の危急を知り、義盟への参加を切望して願いが叶ったとされ、吉良邸では義士中一番の働きをして本懐を遂げています。

義士の中で、浪人から帰参を許されたのは数右衛門ただ一人です。

家紋:隅角切横一

2.不破数衛門正種の生涯

寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣・岡野正治(のち浪人、変名して佐倉新助)の長男として生まれました。母は同家臣の長沢六郎右衛門の娘です。

姉に酒井三郎右衛門室、弟に佐倉慶也、佐介、亀八。妹に笹川只右衛門(本多忠孝家臣)室、上島弥介(浅野長矩家臣)室がいます。

元禄3年(1690年)頃に浅野家家臣の不破数右衛門の婿養子に入りました。養父・数右衛門が死去して不破家の家督を相続し、数右衛門の通称も継ぎました。赤穂藩では100石取りの馬廻役・浜辺奉行をつとめました。

しかし、それから間もなく主君・浅野長矩の勘気を蒙り「百箇日の閉門の処分」を受けて藩を追われ浪人しました。

閉門の原因は、次のようなものだったようです。

・家僕を斬った
・埋葬された死体を掘り出し試し斬りした
・暮し向きが不自由としながら客に馳走をし、賑やかな囃子などをして不興をかった
・平生役儀を粗略にし、同役と仲が悪かった

那波屋記録には「元禄10年8月18日不破数右衛門が家僕を斬って閉門を仰せ付けられ、11月晦日閉門御免」とあります(なお、実父の岡野も赤穂藩を追われているため正種と連座したものと思われます)。

その後は江戸へ移り住みましたが、元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、即日切腹、赤穂浅野家は断絶となりました。

篭城になるとの噂を耳にした正種数人の元赤穂藩士の浪人とともに赤穂城へ馳せ参じたとされますが、この浪人は父の佐倉新助で、家老大石良雄に断られて帰されています

赤穂城引渡し後、大石良雄が中心となって旧藩士の間で義盟が結ばれた。良雄が江戸へ下った際に、正種は義盟への参加を懇願しました。

吉田兼亮のとりなしで正種の長矩の墓への墓参がかないました。そして、泉岳寺の主君の墓前で閉門を解かれ帰参が叶い、帰参した家臣として義盟への参加を許されました。その後、松井仁太夫と変名して他の同志とともに江戸に潜伏しました。

元禄15年(1702年)12月15日未明の吉良屋敷への討ち入りでは、裏門隊に属して屋外に配置されましたが、こらえがたく持ち場を離れて屋内に突入しています。討ち入りでは一党中もっともめざましい働きをしたと伝えられます。

原惣右衛門の「討入り実況書」には次のように書かれています。

大に働き申候処は不破数右衛門働きにて、勝負致候相手如形手きゞにて、数右衛門へも数ヶ所切付候得共、着込之上にて候故、疵も無之候。小手、着物は悉く切りさかれ申候。

刀は皆これなき様に罷り成り四、五人も切りとめ申積りにご座候。其外少し手あい致し候得ども、少許の太刀合せまでに御座候。(大石内蔵助送寺井玄渓)

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、泉岳寺への引き上げに際して、大石良雄に進言して「大目付仙石久尚へ出頭して口上書を差し出すべきである」と主張したともいわれています

その後、伊予松山藩主松平定直の中屋敷へ預けられました。松平家では義士たちは罪人として厳しい扱いを受け、酒や煙草・暖房具(炭火など)も禁じられました。加えて、公儀の沙汰が下る前に切腹の介錯人まで決めてしまいました

元禄16年(1703年)2月4日、沙汰前の義士たちに清めとして「早天より切腹人に水風呂使わし、みな謦咳の有様にて切腹申付を憂惧して拝す」とあります。

江戸幕府の命により松平家家臣の荒川十大夫の介錯で切腹しました。享年34

戒名刃観祖剣信士で、主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.不破数右衛門正種にまつわるエピソード

(1)創作・逸話

多くが不破の粗野な性格を基にした創作で、史実ではありません。

また、⑥の逸話にあるささらのようになった鈍刀では敵にダメージは与えても、深く斬り込めないので致命傷になりません。さらに、不破は討ち入りには槍を使用しています(赤穂義士祭などの扮装や赤穂市内の石板絵でも槍を持つ姿です)。

①ある日、赤穂城下の刀屋・杉本屋から買った銘刀「貞宗」を試したくて、乞食が沢山いるところに行って試し斬りをした。

②高取峠の山賊・望月庄次郎を斬殺し、知り合いの筆屋長次郎から盗んだ金子を取り返しているところを家来の小助が、「盗人の上前はね」と嘲笑したのに腹を立て家来も斬り捨てた。

③仲間が「幽霊が出る」と言うので原因となっている、最近亡くなったというその知人の墓を掘り起こして死体を細切れに斬りまくった

④創作では、芝居を観て内容に激怒し役者を殴打したり、討ち入りに加わるため未練になるとして、妻・お國や子・お鶴まで殺してしまう設定もある。

⑤義盟に加わる条件として、大石から赤穂城に居る犬を斬ってみせるよう命じられた。

⑥討ち入りでは数人の敵を倒し、愛刀「貞宗」はささらのようになっていた。感じ入った仙石の命により、切腹の介錯に同じ貞宗が使われたとする脚色もある

⑦歌舞伎では数右衛門の惚れた芸者が夫、三五郎の金策のために不破をたぶらかしたと判る。数右衛門はお金を取られた恨みで三五郎はじめ多数の殺人を引き起こす

(2)親族

実父・岡野治太夫正治は佐倉新助と改名し、娘婿の酒井三郎右衛門(数右衛門の義兄)を頼っています。娘(数右衛門の姉)・熊と共に古市で暮らしました。弟たち三人も絶縁して岡野から佐倉に改姓しています。

数右衛門は妻・お国との間に二児あり、幼い長男・不破大五郎は、連座を免れるために古市村の大膳寺にて出家し、のち永昌寺の僧「大雄」となっています(享保5年(1720年)に還俗して出奔、その後の消息不明)。長女・鶴は照明寺住職へと嫁し、享保15年(1730年)に死去しています。

大五郎の子・亀八郎(不破正種の孫)は尾張藩に仕えましたが、安永8年(1779年)、不正があり家屋敷を召し上げ放逐されて、不破家は断絶しました。宗玄寺にある不破家の墓は無縁仏になっています。

4.不破数右衛門正種の辞世・遺言

今日ありと 心に知りて 武士(もののふ)の おはる月日の 身こそ辛(つら)けれ

遺言は無し。

5.『赤穂義士外伝~荒川十太夫(出世の太刀取り)』あらすじ

吉良邸討入りを成功させた赤穂浪士四十七士。浪士のうち十人は松平隠岐守の屋敷に預けられ、切腹に処せられることになります。堀部安兵衛と不破数右衛門との介錯人は徒歩(かち)という身分の低い侍、荒川十太夫に決まりました。

いよいよ切腹という時、安兵衛は十太夫に名前と役職とを尋ねます。二百石取りという身分ある侍である安兵衛が自分のような者に介錯されるのは心持が悪かろうと思い、十太夫は思わず「物頭役でござります」と偽りを言ってしまいました。切腹が終わって、あのような嘘を付いてしまったと罪責に苦しむ十太夫は、それから懸命に内職に励んで金を貯めます。

本所松坂町吉良邸に討ち入り、首尾よくご主君の仇を討った赤穂浪士四十七士。浪士は毛利、細川、松平、水野の四家のお大名へお預かりの身になった。四国松山十五万石、松平隠岐守の中屋敷、現在は三田のイタリア大使館のある場所だが、ここにお預かりの身になったのは大石内蔵助(くらのすけ)の息子、主税(ちから)をはじめとして大高源吾、岡野金右衛門、不破数右衛門ら十人。十人の浪士は隠岐守の屋敷で切腹に処せられることになる。

切腹の介錯には腕が優れていなければならない。屋敷のなかで介錯人として四人までは決まったがもう一人がなかなか見つからない。腕前が優れている者として徒歩(かち)の荒川十太夫という者が抜擢された。身分にやかましかった封建時代で徒歩というのは最下級の武士。十太夫は堀部安兵衛と不破数右衛門、二人の切腹の介錯をする事になった。

元禄十六年二月四日、切腹の当日、いよいよ安兵衛切腹という時、安兵衛は十太夫に名前と役職とを尋ねる。十太夫は戸惑った。安兵衛は赤穂藩では馬廻り役を勤め二百石をいただいていた身分ある人物。そのような人物が自分のような身分の低い者に介錯されるのは心持が悪かろうと思ったのだ。十太夫は思わず「物頭役でござります」と偽りを言った。物頭役というのは弓や槍を預かる身分ある者の役目。そのような身分ある方に介錯して頂くのは喜ばしい事だと安兵衛は納得し、見事に切腹を成し遂げる。十太夫は、忠義のお方の最期の前で愚かな偽りをしてしまったと自責の念に駆られ、夜もろくろく眠れない。

それからある事を思いつき、十太夫はせっせと手内職を始める。そして一年、それ相応の金が貯まる。義士切腹から一年目、誰にも見られないよう早朝に十太夫は三田の中屋敷を抜け出し、途中で衣類を着替え、訪ねたのが芝高輪萬松山泉岳寺。「某(それがし)松平隠岐守家臣物頭役を相勤めまする荒川十太夫でございます」と告げ、安兵衛へのお経料として内職で貯めた金を寺に納める。安兵衛の墓前で、十太夫は身分を偽った事を詫び、せめて本日身なりだけでも物頭役にふさわしく整えて参上したので許して貰いたいと告げる。

屋敷に戻った十太夫。再び手内職で金を貯め、また一年が経った。泉岳寺へ向かうが、今回は用事があり時間は午後になっていた。同じ時、松平隠岐守の御目付役で松本源左衛門という人物もまた泉岳寺を訪ねていた。僧侶が「ただいま物頭役の荒川十太夫殿がお越しになっている」と言う。当家には荒川などという物頭役はいない。乱心者かと思った源左衛門。安兵衛の墓前から戻ろうかと思った十太夫は源左衛門と鉢合わせしてしまう。役職を偽っていることとその身なりを咎められ、十太夫はすべてを打ち明ける。十太夫はその場で腹を切ろうとするが、源左衛門は押しとどめる。

源左衛門はこの事を隠岐守に伝える。翌日、十太夫は源左衛門に呼び付けられた。切腹かと思った十太夫。殿の仰せで、忠義の武士への言葉を偽りとしないよう、十太夫を今日から誠の物頭役に取り立てると聞かされ驚き、有り難涙に暮れる。

十太夫は再び安兵衛の墓前に参拝し、安兵衛の忠義のおかげで出世できた事に礼を言う。

だまされて 心地よく咲く 室の梅