忠臣蔵の四十七士銘々伝(その34)間瀬久太夫正明は長男と討ち入り、次男は伊豆大島に遠島で病死

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間瀬久太夫

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.間瀬久太夫正明とは

間瀬久太夫正明

間瀬正明(ませ まさあき)(1641年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は久太夫久大夫(きゅうだゆう)です。間瀬の読みは一説に「まなせ」。変名は、三橋浄貞。

厳格で真面目な性格で、多くの藩士から信頼を得ていました。討ち入りには長男の孫九郎正辰と共に加わり本懐を遂げました。

しかし、次男の貞八正岑は連座して伊豆大島に遠島となり、同地で病死しています。

久太夫は、大石内蔵助とともに重職義士五人のうちの一人です。藩士たちの行動の理非を糾し取り締まる大目付であったので、非常に厳格正直な人柄であったと伝えられます。

小野寺十内とは従兄、中村勘助の叔父にあたり、嫡子の孫九郎とともに吉良邸に討ち入った親子組の一人です。

家紋:右三巴(異説有)

2.間瀬久太夫正明の生涯

寛永18年(1641年)、赤穂浅野家臣・間瀬権大夫の長男として誕生しました。母は浅野家家臣多川九左衛門の娘です。

正保2年(1645年)に父が隠居したため家督相続しました。赤穂藩では200石の藩大目付役料10石)。

父の間瀬権太夫 浅野采女正長重家臣で山鹿素行に私淑しましたが、久太夫が五歳の時に病没しています。

刈部弥次郎の娘を妻に迎え、その間に間瀬正辰と間瀬正岑を儲けました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際には赤穂にいました。

4月18日には収城目付荒木政羽らの城検分の案内をしています。大石良雄に神文血判を提出して赤穂藩の飛び領の加東郡の本徳寺領へ移りました。

城明け渡しのときには、内蔵助を助けて受城使との折衝にあたり、開城後もひきつづき残務整理にあたるなど内蔵助が頼みとしていた長老の一人であり、内蔵助のよき相談相手でした。

老齢ながら忠義の心は厚く、大石にたびたび決起を迫りました。

元禄15年(1702年)7月28日、京都丸山で会議がもたれ、討ち入り決行が決議されましたが、この席上、日ごろ寡黙な久太夫が自ら進んで意見を述べ(*)、内蔵助の決断を促したと伝えられています。

(*)京都円山会議には長男の孫九郎共々出席し、吉良上野介を討ち取ることを進言して、仇討ちの方針が決まったと言われます。

頃日、堀部弥兵衛の書状を見ると、堀部もはや八十になんなんとして上方衆の永分別には余命たえがたし、一人でも吉良の館に突き入り臣たる道を潔くしたいと。拙者とても六十を余り、所詮若い方々と立ち並んで甲斐々々しい働きも出来そうもない。評議次第によっては弥兵衛老人と生死をともにしたいものでござる。

元禄15年(1702年)8月には一族の多川九左衛門が脱盟していますが、間瀬親子は残りました。

9月には息子の正辰が江戸へ下向し、10月には久太夫も江戸下向しました。三橋浄貞と称して新麹町四丁目の中村正辰の借家に入りました。なお、三橋は祖父の苗字でした。

討ち入りのときには表門隊に属し、原惣右衛門とともに内蔵助の傍らにあって司令部を構成、半弓を携え表門内を守ったということです。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられました。細川家では腹痛で下痢をしており、「粗相をしかねないのでよろしく」と接待担当の堀内伝右衛門に言っています。

元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣・本庄喜助の介錯で切腹しました。享年63

戒名刃誉道剣信士で、主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.間瀬久太夫正明にまつわるエピソード

(1)入念に吉良上野介の在宅を確認

宛先不詳の書簡(元禄15年12月13日付)
今十三日内蔵助殿江参候用事は斎手筋に而弥明日吉良殿江客有之候段、承候得共無心許候間三平殿斎へ参相尋候様に与被申候故、直きに斎へ候参処成程客有之候得共末慥候間、明朝斎より案内次第又々其段可申入候。以上 十二月十三日 正明 花押。

意味:吉良屋敷で茶会があると聞き出した羽倉斎の所へ大石三平が行って確かめたが、更に念を押して明朝再度、斎から返事があるから、返事があり次第お知らせする。

(2)遺児の次男は遠島先の伊豆大島で病死

なお、次男の間瀬貞八正岑は幼いため討ち入りには加わりませんでしたが、父や兄の切腹後、一族連座して伊豆大島へ流されました。

大島では伊豆代官手代の小長谷勘左衛門の厳しい監視を受け、開墾や畑仕事などにも従事しました 。なお、島では元禄3年(1690年)に塩竃が破損し、大島の特産である塩の製造が休止しました。

その後、伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児(ほかに吉田兼直、中村忠三郎、村松政右衛門)は、宝永3年(1706年)8月に桂昌院の一周忌に当たり大赦令で赦免されましたが、正岑だけは既に金子と糧米も尽き果て、蓆を打ち蓬を編んで鹹風蜑雨と闘いましたが、衰弱して痩羸死していました。

(3)甥は木村岡右衛門(赤穂浪士の一人)に斬殺された

間瀬正明の甥・大助は泥酔して木村岡右衛門貞行に絡み、木村に斬殺されたそうです。

4.間瀬久太夫正明の辞世・遺言

雪とけて 心に叶う あした哉

思ひきや 今朝立春に ながらへて 末の歩みを 猶待たんとは

遺言:「お腹をこわしているので切腹に臨み粗相があってはと心配している」