「トロッコ問題」とは一体何か?究極の選択の思考実験をわかりやすくご紹介します

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トロッコ問題

有名な「思考実験」には、「シュレディンガーの猫」や「マクスウェルの悪魔」がありますが、もう一つ有名な「トロッコ問題」という究極の選択を迫る思考実験があるのをご存じでしょうか?

2019年に山口県岩国市の小学校と中学校でこの「トロッコ問題」を授業で取り上げたところ、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との抗議があり、学校側が謝罪したという報道がありましたので、お聞きになった方も多いと思います。

今回はこの「トロッコ問題」という思考実験をわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「トロッコ問題」とは

「トロッコ問題」とは、「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?」という形で、功利主義と義務論の対立を扱った思考実験で、倫理学上の問題・課題です。

この「トロッコ問題」は、イギリスの哲学者フィリッパ・フット(1920年~2010年)が1967年に提起したもので具体的には次のような問題です。

トロッコ問題2問

なおこれは思考実験なので、大声を出して助けるなど「線路を切り替える以外の手段」を取ることはできないものとします。

<Aのケース>

線路を猛スピードでブレーキの故障したトロッコが走っているとします。

このままでは、線路の前方で作業している5人の作業員が轢き殺されてしまいます。

あなたは線路の分岐器のすぐそばにおり、トロッコの進路を切り替えれば5人を助けることができます。

しかし、切り替えた進路の先には別の1人の作業員がいて、その1人は5人の代わりに死んでしまうでしょう。

この時に、進路を切り替えることは正しいのでしょうか?

どちらが正しいかの正解はありませんが、いろいろなところでこの実験について問いかけを行ったところ、80%以上の人が「進路を切り替えて5人を救う」と答えたそうです。少しでも犠牲者を少なくしたいという常識的な判断でしょう。

ではもう一つのBのケースはどうでしょうか?

<Bのケース>

あなたは橋の上にいて、またもや暴走したトロッコが走っています。

トロッコは橋の下を通過しようとしており、例のごとく橋を通過した先には5人の作業員がいます。

あなたの横には太った男が立っており、その男を突き落としてトロッコにぶつければ、トロッコは止まり5人の作業員は救われます。

この場合、太った男の背中を押して5人の作業員を救うことは正しいのでしょうか?

Bのケースについては、80%以上の人が「静観して5人を見殺しにする」と答えたそうです。AのケースとBのケースで多くの人の結論に違いが出たのはなぜでしょうか?

それは5人を救うために必要なアクションの大きさ・重さの違いによるものです。

人間が行うべき行為(義務)には、人を傷つけないことのような、人として最低限守らなければならない「消極的義務」と、人の命を救うことのような、プラスアルファで行えたら良い「積極的義務」があります。

一般に「消極的義務」を果たすことは「積極的義務」を果たすことよりも優先されます。

ちなみに、この問題に真正面から答えていない「解答例」としては、「線路の分岐器のレバーを真ん中にすればトロッコが脱線して全員が助かる」や「何もせずに現場から立ち去る(当事者でなく無関係な人になる)」というのもあるようです。

2.「カルネアデスの舟板」(カルネアデスの板)

「ある人が生きるためには別の人の死が伴うが、それは許されるのか?」という問いは、古くから存在します。

古代ギリシャの哲学者カルネアデス(B.C.214年~B.C.129年)は、次のような問題を提起しました。これが「カルネアデスの舟板」(カルネアデスの板)と呼ばれる思考実験です。

難破した舟の壊れた舟板にしがみついた人が、別の人がしがみつこうとしたのを突き飛ばした。なぜならその人がしがみついていた舟板はふたりがしがみつけば沈んでしまう程度のものだったからだ。彼は生還後、罪には問われなかったが、果たしてそれは正しかったのだろうか?

この問題は、今日の刑法理論によれば、自分の生命を救うためにやむを得ず他人の生命を犠牲にすることが許されるかという刑法第37条(*)の「緊急避難」の限界を論じる際にしばしば引用されます。

(*)<刑法第37条>

1.自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

2.前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。

「違法阻却事由」とするか、「違法ではあるが、期待可能性がないものとして責任阻却事由」とするかの対立はありますが、いずれの場合も「不可罰」とする点では同じです。

3.山口県岩国市の小学校・中学校における「トロッコ問題」騒動の顛末

2019/9/29の毎日新聞の報道(死ぬのは5人か、1人か・・・授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪)によれば、次のようなことです。

山口県岩国市立東小と東中で、「多数の犠牲を防ぐためには1人が死んでもいいのか」を問う思考実験「トロッコ問題」を資料にした授業があり、児童の保護者から「授業に不安を感じている」との指摘を受けて、両校の校長が授業内容を確認していなかったとして、児童・生徒の保護者に文書で謝罪した。
(中略)
授業は、選択に困ったり、不安を感じたりした場合に、周りに助けを求めることの大切さを知ってもらうのが狙いで、トロッコ問題で回答は求めなかったという。しかし、児童の保護者が6月、「授業で不安を感じている」と東小と市教委に説明を求めた。両校で児童・生徒に緊急アンケートをしたところ、東小で数人の児童が不安を訴えた。

これは、学校現場の「事なかれ主義」「保身体質」と「少数意見に振り回される」現状を象徴しているようです。

教師が正しいと思って行った授業について、学校側は堂々と目的や意義を説明するとともに、大半の生徒・児童は深く考えることを学んだはずだと主張すべきところ、少数の抗議に対して腰砕けになって「謝罪」するのは、正しい対応とは言えないと私は思います。

岩国市の教師・学校の対応は、「トロッコ問題」に即して言えば、線路の分岐器のレバーを「5人の作業員」(大勢の児童・生徒)の方に向けたままにすることによって、「大勢の児童・生徒に対して、人間社会における倫理的判断の難しさと社会正義の複雑な構造を学ぶ機会を提供すること」を犠牲にして、「1人の作業員」(数人の不安を感じた児童)の「(数人の児童の)不安やストレス」を救済する結果となりました。

4.「トロッコ問題」は「自動運転」ではどうなるのか?

現在、クルマの自動運転技術がどんどんレベルアップしており、「完全自動運転」も夢ではなくなってきました。

しかし、「自動運転」では「トロッコ問題」のような究極の選択を迫られた時、AIはどういう判断をするのでしょうか?

「自動運転車」同士の場合もあれば、一方だけが「自動運転車」の場合もあると思います。また「自動運転車」同士でも、そのレベルが異なっていたり、他社のAIの場合どうなるのでしょうか?

自動車の場合は「レール」がありませんので、「トロッコ問題」の基本形とは異なりますが、「究極の危険回避」の共通のルール・基準を作り設計することが必要ではないかと思います。

5.薩摩の「反実仮想(はんじつかそう)」「詮議(せんぎ)」の習慣

明治維新の立役者を輩出した薩摩藩には、「反実仮想」の習慣があったという話を聞いたことがあります。これは「もし、こうなったらどうするか?」ということをあらかじめ考えておく習慣のことです。これも「思考実験」の一つと言えます。

そのため、薩摩の人々は、これから起きうる事態を事前に想定し、対処のすべを用意することに長けていたということです。薩摩の人々の判断力の正体は、高い反実仮想力であったといってよさそうです。

これを鍛えたのは、薩摩の郷中(ごうちゅう)教育の「詮議」です。薩摩では、詮議と称して子供にいろいろな仮定の質問を投げかけて教育したそうです。

「殿様に急用で呼ばれた。早馬でも間に合わない時はどうするか?」「道を歩いていて脇の塀の上から唾を吐きかけられたら、どうするか?」など、仮定の質問を子供に問い、考えさせる訓練が繰り返されていたそうです。

この訓練によって、「想定外が想定内になる」のです。今の日本にとても大切なことではないかと思います。



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