1.バブル崩壊までの「一億総中流社会」
1991年の「バブル崩壊」までは、日本社会は「一億総中流社会」と呼ばれ、大多数の国民がほどほどに豊かな中流階級意識を持っていたように思います。
しかし、大蔵省や日銀の金融政策の失敗によって、クラッシュとも呼ぶべき悲劇的なバブル崩壊とその後の長期にわたる景気低迷とデフレを招きました。
バブルが弾けたのは1991年です。大蔵省が1990年3月に「土地融資の総量規制」という金融引き締め策を発動し、日銀の三重野総裁が、1990年8月に公定歩合を6%に大幅に引き上げたことで、景気に急ブレーキをかけたのが原因です。1991年には「地価税法」が施行され、バブル崩壊(クラッシュ)を決定的にし、「失われた20年」をもたらしました。もう少し「ソフトランディング」させる政策判断をすべきだったと私は思います。
2.小泉元首相と竹中平蔵氏のコンビの「構造改革・規制緩和」
竹中平蔵慶応大学教授は、小泉純一郎首相(2001年~2006年)のもとで、経済財政策担当大臣、金融担当大臣、総務大臣を歴任し、「小泉・竹中構造改革」の実質的な司令塔を務めました。
かつてないデフレの長期化を受けて、小泉元首相の「構造改革なくして日本の再生と発展はない」というプロパガンダのようなスローガンは景気回復を切望する国民大衆に好感をもって迎えられ、「小泉劇場」は多くの人々の支持を集め、主役の小泉元首相も熱狂的な人気ぶりでした。
「聖域なき構造改革」とも呼ばれた「小泉構造改革」のもともとの発想は、「新自由主義経済派」の「小さな政府」がベースで、「郵政事業の民営化」「道路関係四公団の民営化」など、政府による公共サービスを民営化などによって削減し、市場にできることは市場に委ねること(市場原理主義)、いわゆる「官から民へ」と、国と地方の三位一体の改革、いわゆる「中央から地方へ」が改革の柱でした。
概要は、次の三つでした。
①簡素で効率的な政府を作るための財政構造改革の推進と、歳出の徹底的な見直し
これには福祉・公共サービスの削減も含みます
②新規産業や雇用創出を促進するための規制緩和
これには新規参入による競争促進も含みます
③不良債権処理の加速化
3.構造改革・規制緩和がもたらしたものとは?
しかし、この「構造改革・規制緩和」政策は、はたして成功したのでしょうか?
(1)実感なき景気回復
「いざなぎ景気」(1965年~1970年、57カ月)超えといっても、それは実質GDPの伸びで見た景気拡大期間が長かったというだけで、国民一人一人の生活実感からすれば、まさに「実感なき景気回復」でした。
その理由の一つは、「低いレベルの成長」だったことです。「いざなぎ景気」は平均10%超、「平成バブル景気」は約5%だったのに対し、今回は2%程度だったからです。
もう一つの理由は、企業部門と家計部門の所得状況の違いです。企業が業績好調でも賃上げ幅は低く抑え続けられており、「労働分配率」が低いままだったからです。
(2)経済社会の二極化・分断化(格差の拡大と固定化)の進行
若年層の失業率や学卒未就職率が上昇し、パート・アルバイト・派遣社員などの「非正規雇用」が雇用者数の3人に1人となりました。
その結果、4対1とも言われる「正社員」との給与格差が固定化されるとともに、累積的に所得格差が広がり、生活基盤の劣化、ひいては非婚・少子化などさまざまな問題が出てきました。
過重な労働実態、過労による労災件数の増大、ワーキングプアの増加、うつ病、突然死の増加など雇用の劣化、あるいは崩壊と呼べる事例が多く出てきました。
(3)規制緩和の弊害
規制緩和によってタクシー業界への新規参入が起こり。タクシー業界の過当競争・ドライバーの過重労働を招きました。
(4)分割民営化した郵政各社の問題行動
郵政民営化によって良くなると期待しましたが、分社化でかえってややこしくなっただけでなく「かんぽ生命やゆうちょ銀行の不適切販売」問題が発生するなど期待外れに終わりました。
(5)役所から民間への無責任な「丸投げ」の横行
役所をスリム化して、役所だけで出来ない部分は民間に委託して経費削減を図るはずでしたが、公務員だけでも出来そうな多くの業務を民間に「丸投げ」して、チェックもほとんどせず、委託費用も決して安くないなどマイナス面が次々に明らかになりました。
もちろん、(1)の「景気回復」が小泉改革の成果だとは必ずしも言えないのと同様に、(2)の「経済社会の二極化・分断化の進行」も全て小泉改革の罪だとは言えません。(3)の「規制緩和」も、善意に解釈すれば発想としては「市場原理に任せれば『神の見えざる手』によってうまく行く」と考えていたのかもしれません。(4)と(5)も小泉改革の直接の責任ではないかもしれません。
しかし、結果的に現在のような状況になることを防げなかったというのは厳然たる事実です。