種田山頭火はなぜ世間を捨て妻子を捨てて行乞放浪の人生を送ったのか?

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種田山頭火托鉢姿

前に酒を愛した漂泊の歌人「若山牧水」の記事を書きましたが、俳人種田山頭火も、「酒と漂泊」という点でよく似ています。

今回は「なぜ種田山頭火は世間を捨て妻子を捨てて行乞(ぎょうこつ)放浪の人生を送ったのか?」について考えてみたいと思います。

1.種田山頭火の生涯

種田山頭火写真

「種田山頭火(たねださんとうか)」(1882年~1940年)は、山口県出身の「自由律俳句」の俳人で、本名は種田正一です。

「自由律俳句」の俳人で「層雲」を主宰した「荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)」(1884年~1976年)の門下で、同門には「尾崎放哉(おざきほうさい)」(1885年~1926年)がいます。

彼は山口県防府の大地主の家に生まれました。父は村の助役を務めましたが、妾を持ち、芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は彼が10歳の時に井戸に身を投げて亡くなりました。この出来事は彼の心に深い傷を残しました。

「山頭火」という俳号は、「納音(なっちん)」の一つですが、彼の生まれ年の「納音」は山頭火ではなく、「楊柳木(ようりゅうぼく)」です。

14歳で私立周陽学舎(現・山口県立防府高校)に入学し、文芸同人雑誌を始め、俳句を作り始めました。20歳で早稲田大学文学部に入学しますが、神経衰弱のために22歳で中退しています。

この頃、生家は相場取引に失敗しており、立て直しのために先祖伝来の家屋敷を売り払い、24歳の時に父とともに酒造業を始めました。27歳で結婚し、子供も生まれます。

十代の半ばから俳句に親しんでいた彼は、28歳から「山頭火」と名乗って、翻訳・評論などの文芸活動を開始しました。

31歳で俳句を本格的に学び始め、俳句誌に掲載されるようになります。34歳の時、実力が認められて、俳句誌の選者の一人になります。

しかし同年、種田酒造場が倒産し、父は家出し、兄弟は離散します。彼も夜逃げ同然で妻子を連れて九州に渡ります。熊本市内で古書店(後に額縁店)を開業しますが失敗します。

36歳の時、弟が借金に耐え切れずに自殺します。行き詰った彼は37歳の時、職を求めて単身上京し、図書館に勤務します。38歳の時、熊本にいる妻から離縁状が届き、判を押します。

40歳の時、神経症のために図書館を退職し、翌年(1923年)の「関東大震災」で焼け出されて熊本に戻り、元妻の所で居候となります。

42歳の時、熊本市内で泥酔した彼は、市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こします。これは生活苦による自殺未遂と言われています。

この事件の時、現場に居合わせた新聞記者が彼を救い、禅寺(曹洞宗報恩寺)に入れます。翌年、これが縁で出家して「耕畝(こうほ)」と改名し、郊外の味取(みとり)観音堂の堂守となります。

生きるために托鉢を続けて1年あまりが経った1926年、彼が44歳の時に「漂泊の俳人」尾崎放哉が41歳の若さで亡くなります。

彼は3歳年下の放哉の作品世界に共感し、句作への思いが高まり、法衣と笠を纏い鉄鉢を持って熊本から西日本各地へと旅立ちました。この行乞の旅は7年間も続き、その間に多くの俳句が生まれました。

九州中国地方を経て、46歳で四国八十八カ所を巡礼し、小豆島では憧れの放哉の墓を訪ねています。48歳の時、思うところがあって過去の日記を全て燃やしています。

1932年、50歳を迎えた彼は肉体的に行乞の旅が困難となり、句友の援助を受けて山口県小郡の小さな草案に入り、「其中庵(ごちゅうあん)」と命名し、ここに7年間落ち着くことになりますが、深酒は相変わらずで、当初は近隣の人々から不審な旅僧と見られていました。

しかし、高名な俳人が彼を讃えたこと、其中庵での句会に多数の句友が集まったことから、次第に彼への接し方が温かくなっていったそうです。

55歳の時、無銭飲食のうえ泥酔し、警察署に5日間留置されています。56歳の時、積年の風雪で其中庵は朽ち果て、壁も崩れたため新しい庵を求めて旅立ち、湯田温泉に四畳一間を借り、「風来居」と名付けました。

57歳の春先には、近畿・木曽路を旅し、10月には死に場所を求めて再び四国に渡り、小豆島の尾崎放哉の墓参をしています。

年の暮れに松山で、終の棲家(ついのすみか)となる「一草庵」を結んでいます。58歳の時、脳溢血のために亡くなりました。

彼は晩年の日記に、「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記しています。

彼は生涯に約8万4千句を詠んだと言われています。小林一茶の2万句もすごいですが、今風に言えば「ツイッターのつぶやき」のようですね。

2.種田山頭火の自由律俳句

彼は季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を多く詠みました。

・分け入っても分け入っても青い山

・今日の道のたんぽぽ咲いた

・夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ

・焼き捨てて日記の灰のこれだけか

・こころ疲れて山が海が美しすぎる

・笠にとんぼをとまらせてあるく

・ほろほろほろびゆくわたくしの秋

・鈴をふりふりお四国の土になるべく

・酔うてこほろぎと寝ていたよ

・どうしやうもないわたしが歩いてゐる

・まっすぐな道でさみしい

・うしろすがたのしぐれてゆくか

・こうまでよりすがる蠅をうとうとするか

・ついてくる犬よおまへも宿なしか

・生死のなか雪ふりしきる

辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」です。

3.なぜ種田山頭火は妻子を捨て行乞放浪の人生を送ったのか?

種田山頭火

彼は「昭和の芭蕉」とも呼ばれますが、松尾芭蕉の「俳諧興行」の旅や小林一茶の俳諧修業のための「俳諧行脚」の旅ではなく、いろいろな苦しさから逃れるために、やむに已まれぬ気持ちから世間を捨て、妻子も捨てて「行乞(ぎょうこつ)放浪」の旅に出たようです。

同門の俳人尾崎放哉への共感も強く、彼の死が直接のきっかけだったかもしれません。

「行乞」とは、「修行僧が各戸で物乞いをして歩くこと」です。そして、それでも苦しさから逃れられないために酒に溺れたようです。

彼の大酒・深酒は半端ではなく、泥酔への過程を「まずほろほろ、それからふらふら、そしてぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」だと面白いオノマトペ(擬態語)を使って表現しています。最初の「ほろほろ」ですでに3合飲んでいたそうです。

彼が自由律俳句を作ったのは、苦悩を吐き出す「カタルシス効果」を得るためだったのではないでしょうか?

「カタルシス効果」(cathartic effect)とは、「心のモヤモヤや、イライラなど不安要素や苦悩や怒りなどを言葉にして表現することで、不快だった気持ちが取り除かれて安心感を得られる効果」のことです。

彼は酒と俳句について、「肉体に酒、心に句。酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と語っています。

なお、彼は存命中はほとんど無名だったため、師匠の荻原井泉水や「兼崎地橙孫(かねざきぢとうそん)」(1890年~1957年)ら支援者の援助によって生計を立てていました。

ちなみに、兼崎地橙孫は山口県出身の俳人で、弁護士・書家でもあり、山頭火の放浪や生活の面倒を生涯にわたって手助けしました。山頭火の句碑も数多く残しています。

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