現在の日韓関係は最悪の状態ですが、日本と朝鮮半島の交渉の歴史を知ることは重要だと思います。
その中でも「神功皇后の三韓征伐」は、日本の朝鮮半島に対する最初の大規模な戦いですので、わかりやすくご紹介したいと思います。
1.三韓征伐とは
三韓征伐は、「神功皇后が新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下に置いた遠征」です。
現代の我々から見ると、日本国内の平定がまだ終わっていないのに、なぜ朝鮮半島にまで出兵したのか疑問に思いますが、彼女の祖先が新羅からの渡来人であることや、「任那(みまな/にんな)」という属領諸国がすでに朝鮮半島南部にあったことから、熊襲(九州)征伐の次は朝鮮半島征伐と考えたのでしょう。
2.神功皇后とは
神功皇后は、古事記・日本書紀(記紀)に見える仲哀天皇(第14代)の皇后で、3世紀から4世紀に活躍した人物です。名はオキナガタラシヒメノミコトです。父は開化天皇(第9代)の曽孫で、母は新羅から但馬に渡来したというアメノヒボコの玄孫タカヌカヒメです。神と交感する能力を持つ巫女的な女性で、いわゆる「三韓征伐」の中心人物です。ジャンヌ・ダルクのようなカリスマ性を持った女性で、女傑だったようです。
「記紀」によれば、仲哀天皇が熊襲を討つために九州に赴き筑紫で急死すると、同行した皇后は妊娠中にもかかわらず、武内宿禰と諮って新羅に遠征し、新羅が降伏した後筑紫に帰って応神天皇(第15代)を生んだということです。
この遠征の結果、百済と高句麗も日本に帰服しました。
その後、皇后は大和に戻って他の王らの反乱を平定し、応神天皇を皇太子に立てて約70年間摂政として自ら政治を行ったと言われています。
日本書紀は皇后を「魏志倭人伝」に見える女王卑弥呼に擬しています。これは正しいのではないかと私は思います。
古事記によれば、仲哀天皇が「西に金銀財宝に満ちた国があり、その国を帰順させよう」という神託を受けましたが信じなかったそうです。そのため神の怒りに触れて亡くなります。
その後神功皇后が新たな神託を受けて神がかりし、身重の体ながら軍を整え舟を並べて海を渡ると、魚は舟を背負って進み、追い風が舟を進め新羅の国までたどり着いたそうです。新羅の国王は恐れおののき、降伏して朝貢することを誓い、百済も従ったということです。
古事記は伝説的な要素が強いですが、神功皇后の遠征の結果、朝鮮半島の三国(新羅・百済・高句麗)が帰服したことは事実のようです。
3.任那とは
任那とは、4~6世紀頃、朝鮮半島南部に日本(倭)が領有していた属領的諸国の総称です。
4世紀に入ると朝鮮半島では高句麗が南下して勢力を拡大し、4世紀中頃には西部に百済、東部に新羅が建国しました。
このような情勢の中で、日本(倭)は半島での有利な立場を築くために、370年頃に大軍を送って半島南部の諸小国群を支配下に収め、いわゆる「任那」を成立させました。
しかし5世紀以降、大和政権の動揺と百済・新羅の進出によって任那は分割され、やがて562年に新羅に併合されました。