シュリーマンの「古代への情熱」は虚偽だったのか?その真実の人物像に迫る!

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シュリーマン

シュリーマンと言えば、子供の頃に聞いたギリシャ神話のホメーロスの物語にある「トロイアの遺跡」の実在を信じ続け、商人として成功した後、その発掘を私財を投じて行って「トロイア文明」の実在を証明した考古学者として知られています。

少年時代からの「トロイア遺跡発掘」の夢を持ち続け、前半生を発掘費用を捻出するために商売に専念し、40代前半で費用準備が整ったので後半生を「トロイア遺跡」やギリシャのミケーネ遺跡発掘に捧げたというイメージがあります。

シュリーマンはまた、「古代への情熱」という自伝で大変有名ですが、これは彼の実像だったのでしょうか?実際のところは虚偽あるいは虚像ではなかったのでしょうか?

前に「赤裸々な人間像を描く最近の伝記(偉人伝)」という記事を書きました。かつての伝記は「偉人=立派な人」ということで、偉人の負の側面・闇の側面・黒歴史などは、教育的配慮もあってか触れないようにしていました。

自伝」となると、ある意味で「自己宣伝の道具」であり、「不都合なことは書かない」のは当然で、「自己の過大評価や美化」や「虚偽の記述」も十分考えられます。

今回はシュリーマンの真実の人物像に迫りたいと思います。

1.シュリーマンとは

ハインリッヒ・シュリーマン(1822年~1890年)は、ドイツの実業家・考古学者で、ギリシャ神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘した人物です。

(1)生い立ち

シュリーマンは北ドイツの貧しい牧師(プロテスタントの説教師)の家に生まれました。彼が9歳の時に母が死去したため、叔父の家に預けられました。

13歳で「ギムナジウム」(ヨーロッパの中等教育機関)に入学しましたが、貧しかったため1836年に退学して食品会社に勤め始めました。

貧困から抜け出すために1841年にベネズエラに移住することにしたものの、船が難破してオランダ領の島に流れ着き、オランダの貿易商社に入社しました。

1846年にロシアのサンクトペテルブルクに商社を設立し、翌年ロシア国籍を取得しました。この時期に貿易商として成功し、30歳の時にロシア人女性と結婚しましたが後に離婚しています。

さらに1848年頃、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サクラメントにも商社を設立して成功を収めました。またクリミア戦争(1853年~1856年)に際してはロシアに武器を「密輸出」して巨万の富を得ました。

「機を見るに敏な商才」があったとも言えますが、違法な密輸出に手を染めるなど、かなり危ない橋を渡っていたようです。

(2)トロイア

トロイア発掘報告書扉絵

彼が発掘した当時は、「トロイア戦争はホメーロス(ホメロス)の創作と言われ、トロイアの実在も疑問視されていた」と彼は述べています。

ただし実際には、当時も「トロイアの遺跡発掘」は行われていたそうです。つまり、トロイアの遺跡発掘は彼が最初ではないということです。

彼は40歳代前半で事業をたたんだ後、世界旅行に出ています。清(当時の中国)に続き、1865年には幕末の日本を訪れ、「シュリーマン旅行記清国・日本」に当時の東アジアの状況を描写しています。

その後、ソルボンヌ大学やロストック大学に学んだのち、ギリシャに移住して17歳のギリシャ人女性ソフィアと再婚し、トルコに発掘調査の旅に出ました。発掘にはオリンピア調査隊も協力しています。

1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始しました。

1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」を発見し、「伝説のトロイアを発見した」と喧伝しました。

プリアモスの財宝プリアモスの財宝2

この発見によって、古代ギリシャの先史時代の研究が大いに進むことになったのは、彼の功績です。

「プリアモスの財宝」は、オスマン帝国政府に無断でシュリーマンによってギリシャのアテネに持ち出され、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈されました。

第二次世界大戦中にモスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されていますが。トルコ・ドイツ・ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていません

彼は発掘の専門家ではなく、当時は現代のような考古学も整備されておらず、発掘技術にも限界がありました。

発掘にあたって、シュリーマンはオスマン帝国政府との協定を無視して出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどしました。

発見の重大性に気付いたオスマン帝国政府が発掘の停止を命じたのに対し、彼はイスタンブールに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けました。

こうした不適切な発掘作業のために遺跡にはかなりの損傷が見られ、これらは現在に至るも考古学者による再発掘や再考証を難しいものにしています。

(3)ギリシャ考古学

シュリーマンらによるミケーネ発掘調査

シュリーマンは、発掘した遺跡のうち下から2番目(現在、第2市と呼ばれる)がトロイア戦争時代のものだと推測しましたが、後の発掘で実際のトロイア戦争時代の遺跡は第7層A(下から7番目の層)であることが判明しました。

第2層は実際はトロイア戦争時代より約1000年ほど前の時代の遺跡でした。これによって、古代ギリシャ以前に遡る文明(エーゲ文明)が、エーゲ海の各地に存在していたということを証明しました。

また彼は、1876年にミケーネで「アガメムノーンのマスク」のような豪奢な黄金を蔵した竪穴墓(竪穴式石室)を発見しました。

アガメムノンのマスク

彼は建築家ヴィルヘルム・デルプフェルトの助力を得てトロイア発掘を継続するかたわら、1884年にはティリンス(ミケーネ文明時代の遺跡)の発掘にも着手しています。

しかし、1890年に旅行先のナポリの路上で急死しました。

2.シュリーマンへの疑問

(1)語学力に対する疑問

「自伝」では「事業の合間に『イーリアス』の研究と語学の勉強に勤しみ、15ヵ国語を完全にマスターした」と述べていますが、その信憑性は低いとされています。

(2)トロイア発掘を志したきっかけは後付けの創作?

彼は幼少の頃にホメーロスの「イーリアス」に感動したのがきっかけだと自身の著作で述べていますが、これは「功名心」の高かった彼による「後付けの創作」である可能性が高いと言われています。

発掘調査費用を捻出するために貿易事業などに奔走し、発掘費用の準備ができた時点で事業をたたんだのではなく、事業をたたんでから世界旅行を経て遺跡発掘を思いついたようです。

4.シュリーマンに対する批判

(1)デイヴィッド・トレイル著「シュリーマンーー黄金と偽りのトロイ」(1999年、周藤芳幸・澤田典子・北村陽子訳、青木書店)

シュリーマンは8歳のときにトロイ戦争の物語に魅了され、いつの日かトロイを発掘することを心に決めた。彼は、子供の頃の夢を実現するために十分なだけの資金を得るべく、前半生を商売に捧げた。ようやく40代も半ばになって、彼はパリへ考古学の勉強に出かけた。

1868年のトロイ平野への旅の途中、彼はヒッサルリクの丘こそがホメロスのトロイであるという画期的な結論に達した。すぐに彼は、トロイ探求者としてははじめて、自らの鋤によって自説を証明するという実際的な作業にとりかかった。

1873年の6月に、彼の説は劇的なかたちで証明された。妻ソフィアの協力のもと、彼は市壁内から『プリアモスの宝』と彼が呼ぶことになる膨大な宝物を発見したのである。

一般には上のように信じられていますが、デイヴィッド・トレイルによると「近年の研究では、それらがいずれも事実ではないことを証明している」とのことです。

「考古学に対する最初の衝動についての話は、ほぼ確実にシュリーマンのでっちあげである。さまざまな証拠が、子供の頃のシュリーマンはトロイを発掘する夢など持っていなかったという結論を示している」とのことです。

では彼が後半生の20年間、ホメロスの考古学に没頭する契機になったのは何でしょうか?

初老に差し掛かって結婚生活が行き詰まり、深刻なアイデンティティ危機に直面していた裕福な一商人が試みた遅ればせの海外長期旅行の途上で、1868年8月、「ヒッサルリクこそトロイ」と主張するイギリスの考古学者フランク・カルヴァートにたまたま出会ったことがきっかけとなり、「考古学者として世界中から注目を浴びたいという野望」を抱いたことだったようです。

シュリーマンは、この野望を実現するのに十分な財力と、持続する熱意と、したたかなマスコミ操縦術を持っていたのです。そして同時に、度を超えた自己中心癖と虚言癖を持っていたということです。

古典学者のウィリアム・M・コールダーは「シュリーマンの自伝は、歴史的な真実を綴ったものではない。それは、彼が自分自身のために創作して事実として受け入れることを望んだ理想像なのである。シュリーマンの虚言癖に、伝記作家たちはうかうかと騙されたのだ」と手厳しい意見を述べています。

子供時代のエピソードにとどまらず、彼は「発掘の事実をかなり操作し、『出土品』の中に購入したり偽造した品を混ぜる」ことまで行っていたということです。

「考古学者としてのシュリーマンの経歴を考える時に最も重要なのは、彼の虚偽とペテンである。彼の著書には至る所に虚偽の記述があり、それらの特徴は、彼の虚言癖が病的な域に達していたことを示している」とのことです。

(2)エーベルハルト・ツァンガー著「蘇るトロイア戦争」(1997年、和泉雅人訳、大修館書店)

「彼が47歳になる以前に考古学に対して何らかの関心を抱いていたことがあったという事実は、6万通にのぼる膨大な書簡からは浮かび上がってこない」ということです。

シュリーマンは、「ヒッサルリクがトロイだと言い出したのは自分だ」と強弁していますが、考古学者のフランク・カルヴァートが「私が1868年に初めてシュリーマンと会った時、ヒッサルリクこそがトロイのあった場所だという話について、彼は何も知らなかった」とザ・ガーディアン紙に表明しているそうです。

「実際のところ、シュリーマンが本当に発見した考古学の発掘地はただの一つもなかった。そのほか、自分はサンフランシスコで大火を経験したとか、二人のアメリカ大統領を訪問したことがあると主張しているのは作り話だった」とのことです。これはアメリカの市民権を取得するための経歴詐称だったようです。

「シュリーマンは後に発表した著作のなかで、自らの功績をほぼ首尾一貫した形で自分の個人的経歴に反映させながら描いている。しかし、自ら描いたその経歴のかなりの部分が創作されたものであった。また、その功績の大部分も彼一人のものではなかった。シュリーマンはその伝記のある部分を自らでっちあげ、内容を理想化して表現した」とのことです。

(3)私の個人的感想

テレビドラマなどで、犯人が「私は母の恨みを晴らすために今日まで生きてきた」とかいう「凄まじい負の執念の持続」を見ることがあります。

私を含めて多くの人が信じてきた「子供の頃からのトロイア遺跡発掘の夢を持ち続け、前半生を発掘費用を捻出するために商売に専念し、後半生をトロイア遺跡などの遺跡発掘に捧げた」というシュリーマンの「プラスの執念、情熱の持続」も、現実にはなかなかあり得ない「出来すぎた話」のように見えます。

そういう意味で上にご紹介した二人の批判者の意見の方が正しいように思えます。

ひょっとするとシュリーマンは、「ほら吹き男爵」として有名なミュンヒハウゼン男爵にちなんで命名された「ミュンヒハウゼン症候群」という病気だったのかもしれませんね。

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