1.お静の方(浄光院)とは
「お静の方」こと「浄光院(じょうこういん)」(1584年~1635年)は、2代将軍徳川秀忠(1579年~1632年、在職:1605年~1623年)の愛妾(本人および秀忠の死後に「側室」の扱いがなされたました)で、会津藩祖・保科正之の生母です。
父は元後北条氏家臣の神尾栄嘉(かんおさかよし)、あるいは武州板橋在竹村の大工の娘とも言われています。名は静です。
慶長年間に秀忠の乳母・大姥局(おおうばのつぼね)に仕えました。その際、秀忠に見初められ、やがて懐妊しました。
秀忠は恐妻家で、嫉妬深い激しい気性のお江与の方(崇源院)をはばかったため、彼女は側室に迎えられることなく、見性院(武田信玄次女、穴山梅雪未亡人)の元に預けられました。そして慶長16年(1611年)に幸松(後の正之)を生みます。
元和3年(1617年)、見性院の縁で旧武田家臣の信濃(しなの)(長野県)高遠藩主保科正光が幸松を預かり養子として養育することになったため、彼女もそれに伴って信濃の高遠城に住むようになります。
寛永12年(1635年)、同地にて52歳で病死しました。一旦長遠寺(長野県伊那市)に葬られ、正之が会津藩主となった後は浄光寺(福島県会津若松市)に改葬されますが、静自身は日蓮宗を信仰していたため、正之の手で身延山久遠寺(山梨県身延町)にさらに改葬されました。
戒名は「淨光院殿法紹日惠大姉」ですが、久遠寺の碑名には「淨光院法紹日惠靈」とあります。なお、同碑銘には「孝子會津從四位上左近衞權少將源朝臣正之奉祀」と刻されています。
2.保科正之とは
保科正之(ほしなまさゆき)(1611年~1673年)は、江戸前期の大名で、会津松平藩祖です。将軍徳川秀忠(ひでただ)の第四子で、家光(いえみつ)の異母弟。幼名幸松麿(ゆきまつまろ)。
長兄の家光が正之という弟の存在を知ったのは、鷹狩りの際に家光がお忍びで5人ほどの供を連れ、目黒の成就院という寺で休憩した時の会話からだということです。
寛永6年(1629年)6月、正之は兄の家光と初対面、また次兄徳川忠長とも対面しており、忠長からは大変気に入られ、祖父・徳川家康の遺品を忠長より与えられました。
正之が実父の秀忠と初めて対面したのは、お江与の方没後4年を経た1630年のことでした。
1632年の秀忠の死後、家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がったそうです。
母は秀忠の側室神尾(かんお)氏お静、その出生を憚り7歳のとき信濃(しなの)国(長野県)高遠(たかとお)藩主保科正光の養子となり、寛永8年(1631年)養父正光の遺領3万石を継ぎました。
1636年出羽(でわ)山形藩20万石、1643年3万石を加増され会津23万石となりました。同時に幕領で南山(みなみやま)5万石余を私領同様の取扱いで預かりました。1651年家光の死去後、遺言によって幼少の将軍家綱(いえつな)の後見として幕政に参与、慶安(けいあん)事件(由比正雪(ゆいしょうせつ)の乱)などで動揺した幕政を安定させ、文治政治を推進しました。明暦(めいれき)大火後の両国橋架橋、玉川上水工事などにも尽力しています。
一方藩政では、入部と同時に家臣の知行(ちぎょう)を俸禄(ほうろく)制とし、城代、家老、奉行(ぶぎょう)、加判制と月番制、軍役などの制度を改正整備しました。また郷村仕置の法令を布達し、領内産物の他領流出の防止、市場の再興、特産物の蝋(ろう)、漆(うるし)の納入および買い方の決定などを正保(しょうほう)年間(1644~1648)までに確定、1648年、領内総検地を実施しました。
1654年、農民に低利で米金を貸与する社倉法を実施、さらに1658年、定免(じょうめん)制によって藩財政の収入を安定させるなど会津藩の藩体制を揺るぎないものとしました。また殉死の禁止、領民の風俗匡正(きょうせい)、人身売買の厳禁、孝子節婦の表彰、高齢者の養老扶持(ふち)の支給なども行いました。
正之は朱子学と神道(しんとう)の信奉者で、朱子学は山崎闇斎(あんさい)に、神道は吉川惟足(これたり)に学び、『輔養編』『玉山(ぎょくざん)講義附録』『二程治教(にていちきょう)録』『伊洛(いらく)三子伝心録』を編纂(へんさん)し、『会津神社誌』『会津風土記(ふどき)』なども残しています。
家光は死の床にある時、有力大名を呼びだし、大老酒井忠勝が将軍最後の言葉として「新しい将軍の政を身を挺して助けるように」と申し渡しましたが、その際、家光は寝床に横になったままでした。
これに対して正之を枕頭に呼び寄せた際だけ、家光は堀田正盛に抱きかかえられながら起き上がり、自らの口で「肥後よ宗家を頼みおく(=肥後守(正之)よ、我が息子(=家綱)を頼むぞ)」と遺言しました。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めました。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守りました。
幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を特に固く守り、佐幕派の中心的存在として最後まで薩長軍を中心とする官軍と戦いました。
3.徳川秀忠とは
徳川秀忠(1579年~1632年、在職:1605年~1623年)は江戸幕府2代将軍で、徳川家康の三男です。母は於愛の方(西郷氏)。幼名長松(長丸とも)、竹千代。法号台徳院。
1590年聚楽第で元服、主として江戸城にあって家康の留守を支えました。「関ヶ原の戦い」(1600年)では信州上田城の真田昌幸に遮られて間に合わず、家康の叱責を受けました。
1605年2代将軍を継ぎ,駿府の大御所家康との二元政治のもと、東国を中心とした大名の統率に当たりました。家康死後は外交権などを将軍のもとに吸収し、初めて大名領知宛行状(あてがいじょう)を発するなど独自の政治を実施しました。
一門・譜代を含む39大名を改易した大名統制、五女和子(東福門院)を後水尾天皇のもとへ入内させ二条城へ行幸した対朝廷政策、キリシタン禁制の強化と貿易の統制・管理を結合させた外交政策など将軍権力の強化に果たした役割は大きいものがあります。
1623年家光に将軍を譲り、大御所として後見しました。鉄砲の名手であったと伝えられ、近年発掘の墓には遺愛の鉄砲が納められていました。