家定の正室は三人いた!?鷹司任子・一条秀子・天璋院篤姫の三人が正室

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徳川家定

1.家定の正室は継室二人を含めて三人いた

(1)家定の最初の正室・鷹司任子とは

最初の正室「鷹司任子(たかつかさ あつこ)」(1823年~1848年)は、後の江戸幕府13代将軍・徳川家定がまだ家祥と名乗っていた将軍世子時代に迎えた最初の御簾中(正室)です。

関白鷹司政煕の二十三女で、兄の関白鷹司政通の養女として輿入れしました。初名は有君。院号は天親院(てんしんいん)です。

文政11年(1828年)に家祥と納采し、天保2年(1831年)に江戸城本丸へ入輿。天保12年(1841年)に西の丸へ移り、天保13年(1842年)に婚儀が行われて、以後「御簾中様」と呼ばれました。

鼓などの遊芸に長けており、家定との夫婦仲も良かったようですが、嘉永元年(1848年)、疱瘡のため25歳の若さで亡くなりました。

(2)家定の二番目の正室(継室)・一条秀子とは

二番目の正室(継室)「一条秀子(いちじょう ひでこ)」(1825年~1850年)は、後の江戸幕府13代将軍・徳川家定がまだ家祥と名乗っていた将軍世子時代に迎えた二人目の御簾中(正室)です。

関白一条忠良の十四女で、初名は寿明姫。院号は澄心院(ちょうしんいん)です。

嘉永元年(1848年)に家祥の最初の御簾中・鷹司任子が死去したのを受け、同年中に家祥と納采。翌嘉永2年(1849年)11月22日に婚姻し、以後「御簾中様」と呼ばれました。

しかしその半年余り後の嘉永3年(1850年)5月27日に発病し、6月6日に25歳の若さで亡くなりました。

(3)家定の三番目の正室(継室)・天璋院篤姫とは

三番目の正室(継室)「天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)」(1836年~1883年)は、薩摩藩島津家の一門に生まれ、嘉永6年(1853年)島津本家の養女となり、安政3年(1856年)五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府13代将軍徳川家定御台所となった女性です。

しかし、結婚生活はわずか1年7ヵ月でした。

実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫です。

幼名は一(かつ)、その後に、市(いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めました。この際に篤の名は君号となり、篤君〈あつぎみ〉となりました。

2.家定唯一の側室・お志賀の方とは

「お志賀の方」こと「豊倹院(ほうけんいん)」(生没年不詳)は、江戸幕府13代将軍徳川家定唯一の側室です。名は志賀(しが)。父は旗本の堀利邦。法名は「満倹院」とも。

大奥にいつ奉公に出たかは不明ですが、「御三の間」勤めから、御手付き「御中臈」となりました。

非常に嫉妬深く、他の女中たちはお志賀の方を恐れて家定の側に近づけなかったということです。

3.徳川家定とは

13代将軍・徳川家定(1824年~1858年、在職:1853年~1858年)は、12代将軍・徳川家慶の四男として生まれました。母は「お美津の方」です。

家慶は、14男13女を儲けましたが、成人まで生き残ったのは家定だけでした。しかし祖父・家斉や父・家慶が健康体だったのに対し、家定は幼少から病弱で、人前に出ることを極端に嫌ったそうです。

天保8(1837)年世子に定められ、同12年西ノ丸に移りました。嘉永6(1853)年6月に家慶が死去し、同年11月将軍宣下を受けました。

性来病弱で癇癖が強く、人前に出ることを嫌ったといわれ、また子を得ませんでした。安政4(1857)年10月アメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見、この前後から将軍の継嗣選定が問題となり始めました。

一方の候補は徳川宗家と血脈の近い紀州藩主徳川慶福(家茂)、他方は徳川(一橋)慶喜で尾張藩主徳川慶恕、越前藩主松平慶永、薩摩藩主島津斉彬がこれを支持し一橋派を構成しました。翌年、老中堀田正睦が条約勅許を得ることに失敗したのちの4月、井伊直弼を大老に任じて幕政指導を委ねました。

5月1日、大老・老中を招集し、慶福を継嗣とする意向を伝え、6月25日に公表しました。次いで7月5日、慶福の安全を図るため一橋派の大名を処分し、翌日没しました。

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