沢庵漬けの考案者として有名な沢庵和尚(沢庵宗彭)とはどんな人物だったのか?

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沢庵和尚

沢庵和尚と言えば、「沢庵漬け」(略して「沢庵」)の考案者として有名ですが、彼が執筆した「剣法(兵法)と禅法の一致(剣禅一致)」についての書物である『不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)』に次のような言葉があります。

心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心許すな

これは「心こそが自分を迷わすモノだから、自分が心に思うこと、感じることに、また自分の心の動きに気を許すな」という意味ですが、禅問答のようで意味深長な言葉です。

ちなみに『不動智神妙録』は、沢庵和尚が徳川将軍家兵法指南役・柳生宗矩(1571年~1646年)に与えたもので、宮本武蔵(1584年?~1645年)の『五輪書』、柳生宗矩の『兵法家伝書』等と並び、後の武道に多大な影響を与えた書物です。

そこで今回は沢庵和尚の人物についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.沢庵和尚(沢庵宗彭)とは

沢庵和尚こと沢庵宗彭(たくあん そうほう)(1573年~1646年)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧です。諡は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。号に東海・暮翁などがあります。

父・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)は但馬国主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣でした。彼が8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。彼は1582年、10歳で出石の唱念寺で出家し「春翁」の法諱を得ました。

さらに同地の宗鏡寺(すきょうじ)に入って、希先西堂に師事し、「秀喜」と改名しました。1591年、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。

1594年、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、「宗彭」と改名しました。1599年、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交があった春屋に住職の派遣を依頼しました。春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。

「関ヶ原の戦い」(1600年)の結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びました。この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っています。

1601年、薫甫が亡くなった後、和泉国・堺に出て、文西洞仁の門下に入りました。その文西が1603年に亡くなった後は南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった1604年8月4日、遂に大悟し、「沢庵」の法号を得ました。

1607年、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。1609年、37歳で大徳寺の第154世住持に出世しましたが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り、堺へ戻りました。

そして1620年、郷里の出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを「投淵軒」と名づけて、隠棲の生活に入りました。

1628年、「大徳寺に出世した正隠宗知の勅許」をめぐって、かねてより朝廷の寺社に対する権限の制限を定めていた幕府はこれを「無効」としました。翌1629年彼は玉室宗珀らと共に幕府に対し抗議書を提出しました。

そのため罪に問われ、出羽国・上山(山形県)に流されました。これが有名な「紫衣事件(しえじけん)」(*)です。

(*)「紫衣事件」とは、江戸時代初期における、江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件で、最大の不和確執とみなされる事件です。

また、後水尾天皇はこの事件をきっかけに幕府に何の相談もなく譲位を決意したとも考えられており、朝幕関係に深刻な打撃を与える大きな対立でした。

「紫衣」とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜りました。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもありました。

これに対し、江戸幕府はかねてより寺院・僧侶間の訴訟・争論に対処しており、公家の乱脈・不行跡ぶりが白日の下にさらされた事件である「猪熊事件」(1609年)と併せて、宗教界・朝廷の統制を行う必要性を認識していました。1613年、幕府は「公家衆法度」と共に「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに1615年には「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたのです。

このように、幕府が紫衣の授与を規制したにも関わらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えました。これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、1627年、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じました。

幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出しました。

1629年、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処しました。

この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示しました。これは、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったということを意味しています。

1632年、大御所・徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、沢庵ら「紫衣事件」に連座した者たちは許されました。

1636年に玉室、江月らと共に家光に拝謁したところ、二人は帰されましたが、沢庵のみ江戸に留まるよう求められ、家光に近侍することとなりました。

江戸においては、柳生宗矩の下屋敷に逗留し、家光の召しに応じて登城して禅を説きました。度々上方へ戻りましたが、1638年には後水尾上皇に「原人論」の講義などを行った際、上皇より国師号授与の内示がありましたが、沢庵はこれを断り、代わりに大徳寺一世・徹翁義亨へ追諡を願っています。

また同時期に柳生宗矩の頼みを受け、大和国・柳生庄に赴き、後に柳生家の菩提寺となる芳徳寺を開山しています。翌1639年、67歳の時、江戸に戻ると、家光によって創建された萬松山東海寺に初代住職として入ることとなりました。

1641年、長年の努力が実り、「紫衣事件」の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。これにより両寺は従前通りの出世入院が認められ、また幕府から剥奪された大徳寺住持正隠宗智をはじめとする大徳寺派・妙心寺派寺院の住持らの紫衣奪還も行われています。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。

彼は書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。一般的に沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説(後述)あります。

2.沢庵和尚の人物像

・彼は当時の代表的禅僧として知られ、また受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けています。しかしながら、沢庵自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで自らは一禅僧に過ぎないと述べています。

・名利を求めない反面、宗門の為に権門に交わることも厭いませんでした。大徳寺・妙心寺の寺法旧復のために家光に近侍し、また乞われれば政治的助言も与えています。この態度を以って、沢庵は大名好きだという批判を受けることもありましたが、1641年に寺法旧復が成った際に、批判したことを恥じる者が多かったということです。

・柳生宗矩の求めに応じ、剣禅一味(剣禅一如)の境地を説きました。この境地を記した『不動智神妙録』は、禅を以て武道の極意を説いた最初の書物であり、武術から武道への流れを開く端緒のひとつになりました。なお、宗矩とは若い頃から交流があり、時には諫言し、時には頼るなど、その親交は深いものがありました。また宗矩の息子である柳生三厳(十兵衛)からも慕われ、こちらにも様々に教授したということです。

・詩歌を好み、細川幽斎や烏丸光広と交わり、自らの歌の添削などを依頼しています。

・自身の禅を自分一代で断絶させています。嗣法を家光や後水尾上皇から求められてもこれを拒否し、最後まで嗣法の弟子を定めず、遺戒においては、自身の禅を継いだと称する者は法賊であるとまで言っています。また、自らの事蹟を残さないようにも命じていますが、後に門人・武野宗朝が『東海和尚紀年録』を記しています。

3.沢庵和尚にまつわるエピソード

・隠棲時、豊臣家や様々な大名家(細川忠興、浅野幸長、黒田長政など)から招かれましたが、これらの招きを全て拒否しました。その他、高松宮好仁親王が弟子入りのために自ら投淵軒を訪れた際も決して会おうとしなかったということです。

・大悟後、かつての師である春屋と問答をした際、その受け答えが当意即妙だったため、「伶牙利舌(れいがりぜつ)の漢」と称賛されました。またこれを聞いた師の一凍は「真の跨竈児(こそうじ)」と賞賛したということです。

・細川忠興に茶に招かれた際、かけられていた大燈国師(宗峰妙超)の墨蹟を一目で贋作だと見破りました。これにより、贋作偽造を行った大徳寺の松岳紹長が破門されています。

・「紫衣事件」の時、幕府に提出した抗弁書は自分一人が書いたものであり、処罰は自分一人にして欲しいと述べました。この態度に感銘を受けた天海は、沢庵を賞賛し、刑の軽減を主張しています。

・柳生三厳(十兵衛)が最初に書いた伝書を父・宗矩に「焼き捨てよ」と命じられた際、十兵衛にその真意を教え諭し、伝書に一筆加えて宗矩へ取り成したことで、十兵衛は柳生新陰流の印可を得ることができたということです。

・1642年、日蓮宗と浄土宗の宗論に立ち合い、家光に「何故両宗は仲が悪いのか」と尋ねられた際、「両宗とも、末法の世に教えを説くために仏法を分かりやすく引き下げてしまったために、引き下げた教えに食い違いが生じ、それ故に宗論が自宗の正しさを示すものになるためです。他宗の場合は同じところに教えがあるので、そうはならないのです」と答え、家光も納得したということです。

・家光から屋敷や寺を与えると言われても頑なに断り続け、最終的に柳生宗矩に説得され、ようやく東海寺住持となることを引き受けたということです。

・家光が東海寺を訪れた際、「東海寺ト言ヘト海近シ」と問われた時、即座に「大君ト言ヘト将軍ト称スルカコトシ」と返したということです。

4.沢庵和尚の言葉

沢庵の辞世

・辞世


百年三万六千日
弥勒観音幾是非 (みろくかんのんいくばくのぜひ)
是亦夢非亦夢  (ぜもまたゆめ、ひもまたゆめ)
弥勒夢観音亦夢 (みろくもゆめ、かんのんもまたゆめ)
仏云応作如是観 (ほとけいわくおうさにょぜかん)


百年三万六千日
弥勒・観音、幾(いく)ばくの是非(ぜひ)
是もまた夢、非もまた夢
弥勒も夢、観音もまた夢
仏云く、まさに是(か)くのごとき観を作(な)すべし

「この世の全ては是も非もない。人生の全ては夢なのだからとらわれてはいけない」
という意味で、臨終の間際に彼を慕う弟子たちに求められ、やむなく筆を取り「夢」と書き、添えた辞世です。

・遺言

遺骸は夜中に運び出し、全身を埋め、ただ土を覆うて去ること、経を読むな、斎を設けるな、道俗の香典は受け取るな、塔や像、碑を建てるな、年譜をつくるな

「自分の葬式はするな。香典はもらうな。夜半ひそかに死骸を担ぎ出して山に埋め、二度と参るな。墓を作るな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌を作るな。法事をするな。年譜を記すな」という意味です。

<私の個人的意見>

沢庵の遺言は至極もっともで、今の日本全国の寺院の僧侶に聞かせてやりたいものだと私は思います。私は「キリスト教の歴史は横暴の歴史」であり、「日本の仏教(の僧侶)の歴史も横暴の歴史」という考えを持っており、高い「戒名料」や葬式の「読経料」で金儲けをする今の「葬式仏教」を見れば、「檀家離れ」や「墓じまい」が多くなるのは当然の成り行きだと思います。「京都の花街は僧侶で持っている」という話もあながち的外れとは言えないと私は思います。

・大根の もののふなれど 沢庵も おしつけられて しほしほとする(狂歌)

・此世の人、来たとおもえば、苦労もなし。心に叶いたる食事にむかいては、よき馳走におもい、心に叶わぬ時も、客なれば、ほめて喰わねばならず。

・用心とは心を用いると書申候へは、ことばにも色にも出して候へは、用心に成申さず候。

・富はなせば仁ならず、仁すれば富まず。

・水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様。

・人の善し悪しを知らんと思わば、その愛し用ふる臣、または親しみ交わる友を以て知れ。

・葉一つに心をとられ候(そうら)わば、残りの葉は見えず。一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候(そうろう)。是(これ)を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候。

・一事を成さんとしたら、本心一途にしたほうがよい。何ごとも血気に迷い、怖じればしそこなう。怖ずるは平常のこと、試合の場で怖じ気は許されぬ。溝を飛ぶときは、ずんと飛べ。危うしと思えば落ち込むぞ。

・万物皆純善にして悪なきなり。すなわち皆善なり、半ばを過ぎるときは、すなわち善も悪となる。

・人みな各々の得たる所一つあるものなり。その得る所をとりて之を用ちふるときは、則ち人を捨てず。

・人退くとも退かず、人進めば我いよいよ進む。

・人の真実は何にて知りぬべき。涙の外あるべからず。

・人みな我が飢(うえ)を知りて人の飢を知らず。

・道を説く人はあるがこれを知る人は鮮(すくな)い。これを知る人はあるが行う人は鮮い。説きえずとも知るは説くに勝り、知らずとも行うは知るに勝る。説くは知るため、知るは行うため。故に知らぬは説かざるごとく知りて行わぬは知らぬと同じである。

・三歳の童子と雖も言ふところ深むる所好語なるときは、則ち受けて以って聖賢の語に同うす。

5.「沢庵漬け」発祥の諸説

「沢庵漬け」の発祥に関しては諸説ありますが、沢庵宗彭が考案したという説が最も有名です。沢庵は「紫衣事件」で出羽国に流罪となり、春雨庵(山形県上山市)に隠遁しましたが、付近住民の差し入れた大量の大根を干して漬け込み、保存食にしたといい、現在、春雨庵境内には「沢庵漬名称発祥の地碑」があります。 その後、江戸に戻った沢庵が創建した東海寺では「初めは名も無い漬物でしたが、ある時徳川家光がここを訪れた際に供したところ、たいそう気に入り、『名前がないのであれば、沢庵漬けと呼ぶべし』と言った」と伝えられています。

異説として沢庵和尚の墓の形状が漬物石の形状に似ていたことに由来するという説もあります。なお東海寺では禅師の名を呼び捨てにするのは非礼であるとして、沢庵ではなく「百本」と呼んでいます。

また別の説によると、元々は「混じり気のないもの」という意味の「じゃくあん漬け」、あるいは、「貯え漬け(たくわえづけ)」が転じたとも言われています。

この大根の漬物は、18世紀に江戸だけではなく京都や九州にも広がり食べられていました。

また、比叡山には元三大師こと慈恵大師良源(912年~985年)が平安時代に考案したとされる「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物が伝えられており、これを沢庵漬けの始祖とする説もあります。これは丸干しした大根を塩と藁で重ね漬けにしたものであったとされますが、現在「定心房たくあん」として販売されているものは一般的な糠漬けの沢庵です。



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