推敲(すいこう)とは?言葉の由来となった賈島と韓退之の故事

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推敲

中国北宋の政治家・文人で「唐宋八大家」の一人として有名な欧陽脩(1007年~1072年)は、良い考えの生まれやすい状況として「三上」(馬上・枕上・厠上)を唱え、文章上達の秘訣三カ条として「三多」(看多・做多・商量多)という言葉を残しました。

「三多」の中の「商量多」は、「多く工夫し、推敲すること」ですが、この「推敲」という言葉の由来には興味深い故事があります。

1.推敲の故事とは

推敲の絵

中国唐代、都の長安に「科挙」(官吏の登用試験)を受けるためにはるばるやって来た賈島(かとう)は、乗っている馬(ロバ)の上で詩を作っていました。

彼は「鳥宿池辺樹 僧敲月下門」という詩句を考えつきました。

読み下すと「鳥は宿る池辺の樹 僧は敲(たた)く月下の門」となります。初めは「僧は推(お)す」としたのを再考して「僧は敲く」に改めたのです。

しかし、なおどちらが良いか判断がつかず、彼は手綱を取るのも忘れて馬上で門を「推」すまねをしたり「敲」くまねをしたりして夢中になって考えに耽(ふけ)るうちに、向こうから役人の行列がやって来たのにも気づきませんでした。

その結果、都の長官で大詩人の韓退之(かんたいし)の行列に突き当たってしまい、捕らえられて韓退之の前に連れて行かれました。

そこで彼が事の経緯をつぶさに申し立てたところ、名文家の韓退之は、「それは『敲く』のほうがいいだろう。月下に音を響かせる風情があって良い」と言いました。

そして二人は馬を並べて行きながら詩を論じ合ったという故事です。

これは「三上」の一つである「馬上」が良い考えが生まれやすい状況であることの例証とも言えます。

2.賈島とは

賈島

賈島(779年~843年)は、中国・中唐の詩人で范陽(河北省)の人です。

はじめ貧窮のために出家して無本と名乗りました。韓退之に詩才を認められて還俗し、たびたび科挙の「進士」の試験を受けましたがなかなか及第せず、ようやく進士に及第した56歳で地方官吏の長江県(四川省)の主簿となりました。

そして62歳で普州(四川省)の司倉参軍に任命されましたが、赴任する前に64歳で生涯を終えました。

自らも「二句三年に得、一吟双涙流る」と詠うように、「賈浪仙体(かろうせんたい)」とも呼ばれる一字一句に苦吟を重ねる詩風で、「推敲」の語源とされる逸話を生みました。

それだけに表現が険しく伸びやかさに欠け、寒々としているので、同じ中唐の孟郊とともに「島寒郊痩(とうかんこうそう)」とも評されます。

3.韓退之(韓愈)とは

韓愈

韓退之(768年~824年)は、中国・唐代中期を代表する文人・思想家・政治家で南陽(河南省)の人です。

792年24歳で「進士」に及第し、監察御史・中書舎人・吏部侍郎・知京兆府事などの要職を歴任しました。

散文では、対句を基調とする六朝風の華麗な駢文(べんぶん)に対して、自由な表現を重んじる「文体改革」を提唱し、詩では白居易とともに「韓白」と並称される中唐の代表的詩人であり、思想家としては「儒教中心主義」を強調して、仏教や道教を激しく攻撃しました。



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