源頼朝の死因は落馬か暗殺か糖尿病か亡霊か?頼朝の名言もあわせて紹介。

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源頼朝坐像

前に「源頼朝とはどのような人物だったのか」という記事を書きましたが、「死因」についても様々な説があります。

1.死因をめぐる4つの説

建久9年(1198年)12月27日、彼は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩しました。原因は落馬と言われますが、定かではありません。

建久10年(1199年)1月11日に出家し、1月13日に死去しています。

彼は落馬が元で亡くなったとされていますが、落馬ではなく暗殺された、あるいは病気が元で亡くなったなどとも言われています。

(1)落馬説

「落馬説」は『吾妻鏡』の記述が元になっています。

吾妻鏡は、源頼朝が挙兵をした頃から、鎌倉幕府第6代将軍が入洛するまでの約90年間を編年体で記した書物で、完成したのは鎌倉時代末期の1300年頃と言われています。

吾妻鏡は徳川家康が愛読したほど有名な書物で、「鎌倉幕府の公式記録」とも言われています。

もっとも吾妻鏡は、後で作られたものであることや、時の権力者である北条氏の視点から書かれているもので、信ぴょう性については注意が必要とも言われています。

源頼朝が亡くなったのは1199年ですが、編年体でありながらも吾妻鏡の記述は1198年で一旦終わり、1199年については記述がありません。

では、源頼朝が落馬したというのがいつ書かれたのかというと1212年。源頼朝が亡くなって13年後です。

鎌倉幕府の公式記録とも言われる吾妻鏡に、源頼朝の死がかなり遅く出てきたことは不自然ということで、落馬説については疑いが持たれています。

落馬説が疑われている理由は他にもあります。

源頼朝は少年期まで京で過ごし、公家の文化にもなじんでいます。しかしながら、あくまでも武家の棟梁なので、乗馬ができないとは考えられません。

当時の馬は今よりもはるかに小さく、源頼朝は長身であったと伝えられています。

吾妻鏡の記述によれば、源頼朝は相模川に架けた橋の開通記念行事の折、馬が暴れだして落馬したとされていますが、乗馬能力や馬の体格を考えると落馬したというのは不自然です。

もっとも、落馬説を肯定する意見として溺水説があります。

これは公家の日記の記述で、「飲水で病が重くなった」という部分で、後述しますが一般的には糖尿病説の根拠になっています。

しかし、何かの原因で橋の途中で落馬し川に落ちたとしたら、大量の水を飲んだという可能性は否定できませんし、そこから肺炎などの病気を発症させた可能性もあります。

これは吾妻鏡の落馬説と、貴族の日記から大量の水を飲んだという説を融合したもので、落馬説を後押しした考えと言えそうです。

死因と落馬の関係性は不明です。落馬により頭を打ったりして頭部外傷等で亡くなった場合は落馬自体が原因になります。

しかし脳卒中等の脳血管障害による意識障害等で落馬したとするならば、落馬が原因で死去したのでなく、結果的に落馬した事になります。その経緯は不明なので、詳しくは分かりません。

(2)暗殺説

源頼朝は、「源氏の御曹司」でありながらも、実態は「一介の流人」でした。

平氏打倒の機運が高まり世に出る機会を得、打倒に成功もしますが、それは取り巻く豪族たちの力によるものです。

つまり、源頼朝は武家の棟梁という立場であったものの、豪族たちから見たら「お神輿のような存在」だったとも言えます。

源頼朝は長女の大姫後鳥羽天皇に嫁がせようとします。結果的に計画はとん挫し、大姫も病気で亡くなります。

しかしこの行為は、かつての藤原氏や平氏がとった行動と同じで、源頼朝は天皇の外祖父として自らも貴族になることを意味していました。

鎌倉幕府はすでに成立し軌道に乗ろうとしています。豪族たちも有力御家人として幕府で重要な役割を果たしています。

源頼朝が将軍として君臨するのは是としても、御家人たちは源頼朝が公家化することも、積極的な統治をすることも望んでいなかったのかもしれません。

しかし源頼朝は朝廷に接近し貴族化を図り、政治にも積極的に関わります。このことは坂東武士といわれた有力御家人にとって、明らかな裏切りですし失望にもなります。

源頼朝が有力御家人の意に背き、鎌倉幕府の土台が揺らぐ前に実行されたのが、源頼朝暗殺ということです。

また源頼朝の後を継ぎ将軍となったのは源頼家ですが、源頼朝が亡くなった年のうちに「鎌倉殿の13人」という合議制の機関ができます。

これは暗君とも言われた源頼家の実権を取り上げ、幕府の運営を有力御家人で行うというものですが、このことも源頼家には政治をさせないという、有力御家人の考えを示したものかもしれません。

なお、源頼朝暗殺の背景としては、源頼朝の貴族化という説が最有力ですが、別の説としては源頼朝浮気説があります。

これは、源頼朝の浮気癖が治らないことに激怒した妻の北条政子が、暗殺を謀ったというものです。

では、それぞれの説の実行犯はだれでしょうか。

源頼朝が朝廷に接近したことが暗殺の理由だとしたら、実行犯は有力御家人の誰か、あるいは総意ということも考えられます。

また、鎌倉幕府は結果的に北条氏が執権として統治するようになりますが、そのことを考えると有力御家人の中でも、とりわけ北条氏が怪しいということになりそうです。

一方、源頼朝浮気説が理由だとしたら、やはり北条政子の実家である北条氏が一番怪しいといえそうです。

(3)病気(糖尿病)説

源頼朝と概ね同時代を生きた、藤原家実(1179年~1243年)の『猪熊関白記』という日記に、先ほどの「飲水で病が重くなった」という記述があります。

糖尿病は水を多く飲む傾向がありますが、ここから源頼朝糖尿病説がでてきます。

糖尿病が死因になるというよりも、糖尿病の合併症により死亡したということは考えられます。

たとえば、糖尿病で足が不自由になり馬の操作を誤った、あるいは視力低下により落馬をしたなどが考えられます。

糖尿病説は猪熊関白記、落馬説は吾妻鏡によるもので、この2つを併せると、源頼朝は糖尿病のため落馬し、それが亡くなる原因となったとなります。

なお、水を多く飲む病気としては尿崩症がありますが、この病気が死に結び付いたという説もあります。

(4)亡霊説

南北朝時代に成立した「保暦間記」には落成供養の帰路に、亡霊を見て亡くなったと記載されています。

具体的には八的ヶ原で弟の源義経と叔父の源行家の亡霊を見ています。今度は稲村ヶ崎海上で若き少年であった安徳天皇の亡霊を目撃。その後に鎌倉で気を失い、ついに馬から落ちて倒れました。

加持祈祷が行われたものの、一向に容体は良くならず1199年1月13日に死去したそうです。似た記載は「承久記」にもあり、「水神に領せられて、病患頻りに催す」と書かれています。

当時は祟りや怨霊という考えは当たり前にありましたが、現在の考え方では亡霊を見て亡くなることは死因にはなりませんね。

ただ、弟の源義経から深い恨みを買っていたことは想像に難くありませんので、その亡霊の悪夢にうなされることはあったと思います。

2.源頼朝の名言

・大事を思ひはからふ者、物とがめをせず、事ならぬことを事になさず。

意味:大事をなそうと考えている者は、こまかなことを咎め立てせず、ささいなことを取り立てて問題にしない。

・今度は天下の草創なり、もっとも淵源を究め行はるべく候。

意味:今は天下が始まろうとしている次期であり、それがなぜ必要とされているのかの根本的な理由を、深く突き詰めて考えるべきである。(京の九条兼実に宛てた手紙から)

・身を重くし心を長くして、あだ疎かに振舞はず、小敵なりとも侮る心なくて、物騒がしからず計らひ、たばかりをするが、能き事にてあるぞ。

意味:自分の身を重々しく、気長に心を保つようにし、軽率な行動はすることなく、力のなさそうな敵を見ても侮らず、冷静にじっくりと計略を練るようにしなさい。

・当時は国の者の心を破らぬ様なる事こそ、吉事にてあらんずれ。

意味:合戦の時は、諸国の住民の気持ちを大切にする必要がある。

・偽りの ことの葉しげき世にしあれば 思といふも誠ならめや

意味:偽り事の多い世の中であるから、「あなたを信頼している」と言ってくれたとしても、それは本当に誠であるのであろうか。

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