「徳川埋蔵金」はなぜ見つからないのか?そもそも存在しないのか?その謎に迫る。

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徳川埋蔵金

今年(2023年)のNHK大河ドラマは「どうする家康」ですが、徳川家にまつわる「日本史の大きな謎」の一つに「徳川埋蔵金」というのがあります。

最近この「徳川埋蔵金」が再び注目されているようです。

その額は「当時の貨幣単位で約400万両、現在の価値で20兆円」ともいわれており、埋蔵金の存在を信じる愛好家らによって、いまでも群馬県の赤城山麓等で探索が続けられています。

現在のところ、まだ発見には至っていませんが、そもそも埋蔵金は本当に存在するのでしょうか?

「日本史を学び直すための最良の書」として、元外務省情報分析官で作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっています。

「徳川埋蔵金」の真相がぜひとも知りたいところですね。

そこで今回は、「徳川埋蔵金」の謎に迫りたいと思います。

1.「徳川埋蔵金」とは

徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)とは、江戸時代末期の1867年に江戸幕府が大政奉還に際し、密かに埋蔵したとされる幕府再興のための軍資金です。埋蔵金は金塊あるいは貨幣とされ、現在も個人やマスメディア等により発掘が試みられていますが、大規模な発見には至っていません。

(1)発端

1868年4月に江戸城が無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府幕府御用金を資金源として期待していました。

ところが城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まりました。

探索の手は大政奉還当時「勘定奉行」であった小栗上野介(小栗忠順)にも及びました。小栗は奉行職を辞任した後、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁していました。

彼が幕府の財政責任者であったことから「小栗が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、更には「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れました

加えて小栗が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一人斬首」となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みました。

その後、赤城山に眠る徳川埋蔵金は以下のようなものであると定義されました

・幕府の将来を憂慮した大老井伊直弼により莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが企画された。

・井伊直弼が暗殺された後、軍学者であった林靏梁によって埋蔵が実施された。

・埋蔵された額はおよそ360万 – 400万両。この額の根拠は、勝海舟の日記にある「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない。」との記述が元と思われる。

・埋蔵に際しては中国の兵法の1つである「八門遁甲」が施され、各所に偽計が張り巡らされている。

・山中にある双永寺は埋蔵時、見張り所とされていた。

・小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた。

(2)存在の証拠

「徳川埋蔵金」の存在を示す証拠として以下のようなものが挙げられています。

・東照権現の黄金像 (明治23年 源次郎の古井戸から出たとされる)

・銅製の燈明皿 (明治23年 源次郎の古井戸から出たとされる)

・大義兵法秘図書「たいぎへいほうのひずしょ」 (明治24年 児玉惣兵衛宏則なる人物が書き残したとされる)

・意味不明な文字や絵図が刻まれた3枚の銅板 (双永寺の床下から出たとされる)

・直径が20メートルもある巨大な石灰の亀(二代目義治が山中で発掘したとされる)

・亀と同じ大きさの石灰の鶴(昭和38年に亀の近くで発見したとされる)

・萬四目上覚之帳「よろずしめあげちょう」 (源次郎が保管していたとされる)

(3)各地の説

赤城山での発掘が次々と失敗に終わっていく中、一部の人々は赤城山を本当の埋蔵場所を隠すための囮だと考えるようになり、「真の埋蔵場所」を求めて持論を展開するうちに各地で埋蔵金伝説が誕生しました。以下はその一部です。

・日光山内(東照宮、二荒山神社など、それぞれの論により詳細な場所は異なる)

・男体山、中禅寺湖、明智平(いずれも奥日光)

・榛名山、妙義山(赤城山を加えて上毛三山と言われる)

・備前楯山(足尾銅山の坑道)

・上野東照宮、久能山東照宮、日吉東照宮、世良田東照宮など各地の東照宮

このうち、世良田東照宮にはかつて上毛三山になぞらえられた小高い丘が存在しています。

・都市伝説の一つに童謡「かごめかごめ」の歌詞中に埋蔵金の在り処を示すとしているものがある。

・赤城山にも諸説あり(津久田原・長井小川田・芳ヶ沢・双永寺・年丸橋(小川田橋)説等)。

・群馬県昭和村長者久保。

・上海

(4)その他の説

他にも「徳川埋蔵金」については様々な説が出されています。

①久能山御用金説

徳川家康が残した軍用金は久能山東照宮に納められたが、神柩を日光へ移す際に江戸城へと運ばれた(久能山御蔵金銀)。そのほとんどは日光東照宮の造営や徳川家光の上洛などで使い果たされたとされているが実は裏帳簿により一部が残されて埋蔵金となった。

②他家埋蔵金説

江戸幕府は各地に残る大名の埋蔵金伝説をもとに発掘プロジェクトを実施している。結城埋蔵金等、その全ては失敗に終わったとされているが、実は成功したものが幾つかあり、それらをまとめて埋蔵した。

③国家予算流用説

第二次世界大戦直後の日本政府がそうであったように、いかに財政難とは言え、破綻していない以上は国家として事業を運営する為の資金は常備されているものである。国家の大事として大老と勘定奉行が画策したのであれば、国家予算の一部を埋蔵して機に備えるということも十分に考えられる。

(5)埋蔵金架空説(埋蔵金非実在説)

もともと幕末期の江戸幕府が大赤字に見舞われていたため埋蔵金にあてがうだけの金銭・蓄財が存在するはずがない、という説です。

実際に徳川埋蔵金は多くの発掘計画が各地で行われていますが、その殆どが成果を出しておらず、埋蔵金自体も発見されていないことから架空説も根強く存在します。

・江戸幕府は初代将軍以降、数々の城や寺社の普請、江戸を見舞った数度の大火被害の復興資金などの支出が続いた。5代将軍綱吉の治世頃には既に財源が枯渇しており、不足分は貯蔵してあった蓄財を切り崩して賄われた(「久能山御蔵金銀」など)が、それもやがて使い切った。農村体型を基本とする江戸幕府の財源はこれらの支出に耐えられず、貨幣改鋳を度々行わなければならないほどの事態に陥っていた

その後、新井白石による正徳の治や、8代将軍吉宗による享保の改革などの倹約令や税収見直し、または田沼意次による重商主義的な改革など財政改革が幾度となく実施されたが、それでも江戸幕府の財政難は改善されることはなく、むしろ悪化の一途を辿り、さらに幕末に頻発した大地震や飢饉により、末期の江戸幕府は困窮の極みにあった

・日本の開国後、江戸幕府は軍事力を増強(大量の武器・軍艦を購入)するために巨額の資金を投入している。いわゆる埋蔵金伝説において、資金を秘匿し、埋蔵を画策したとされる小栗忠順は史実では造船所などの建設を主導し、大量の資金を投入(散財)している責任者である

すなわち将来の再興を期して資金を貯蔵し秘匿する”埋蔵金”という存在自体が、いま現在の幕府の存続のために急速に軍備を充実させるための資金投入を惜しまなかった、史実として伝わる小栗の行動と矛盾する。

・そもそも巨額の資金があるなら、幕府軍はもっと軍備増強にその資金をつぎ込むのが自然であり、幕府存続の危機的状況において資金を蓄財しておくことはできなかったし、必要性はなかったはずである。

・仮に秘匿されて明治維新を乗り越えた蓄財があるとしても、維新以降に静岡藩に移され、元幕臣らの生活を守り、また牧之原台地の開墾などに資金が必要だった徳川本家が、この資金の活用に着手しないはずが無い。

・江戸城は何千人も働いており、開城の混乱に紛れて一人200~300両ずつ持ち逃げしたとすれば400万両ほどはすぐに無くなる

・また、幕府御用金四百万両は蒸気船「早丸」に隠されていたが、久里浜沖の海獺島付近で暗礁に乗り上げ沈没してしまったという伝説もある

これらの理由をもって、末期の江戸幕府には秘匿する余剰の金など到底存在しないことから、徳川埋蔵金は架空の存在でしかなく、実在性は無いとする説が「埋蔵金架空説」です。

(5)埋蔵金の所有権

もし埋蔵金が見つかった場合、以下のような手続きが為されると予想されます。

①発見者は文化財保護法第57条の2の規定により、直ちに文化庁長官宛に江戸時代後期の遺構が発見されたことを書面で報告しなければなりません。また、発見後は災害等の緊急避難的措置を除き、現状維持をしなくてはなりません。

②文化庁長官はその歴史的価値を考慮した上で発掘調査を行うかどうかの判断を行うとされています。

徳川埋蔵金が「歴史的価値の高い文化財」であると判断されれば、文化庁の機関または管轄する地方公共団体の教育委員会により発掘調査が施行されることになります。

③以降、発見者は独自の判断で発掘を行うことは勿論、許可が無ければ埋蔵金に触ることもできなくなります。

<発掘調査により埋蔵金が徳川幕府の埋蔵金であるという客観的証拠が発見された場合>

・大政奉還以降の取り決めによって徳川幕府の資産は全て明治新政府に引き渡されることになっています。つまり所有権は現在の政府にあると認定されます。

・遺失物法の規定により埋蔵金の5~20%に当たる報労金が支払われます。なお、この報労金の代わりに埋蔵金現物を引き渡すことも法律上可能ですが、その判断は所有者である政府に委ねられます。

・政府に引き渡された埋蔵金は国庫に帰属し、文化財保護法の規定に従い管理されます。

<発掘調査でも埋蔵金が徳川幕府の埋蔵金であるという確証が得られなかった場合>

・文化財保護法第59条の規定により、遺失物として所管の警察署長より公告が為されます。

・所有者の申し出が無い場合、文化庁の機関が発掘した場合は文化財保護法第63条の規定により埋蔵金の2分の1に相当する額の報償金が支給され、埋蔵金は国庫に帰属します。

教育委員会が発掘した場合は同法63条の2及びその自治体の条例等に従い埋蔵金の額に相当する額の報償金が支給され、管轄する都道府県に帰属します。

・報償金を算定する基準となる「埋蔵金の価額」は文化庁または教育委員会が決定するため、市場価格とは異なる可能性があります。

・発見場所の地権者と発見者が異なる場合、報償金は両者の間で折半することとなります。

2.「徳川埋蔵金」についての私の個人的な疑問と推理

(1)「江戸城無血開城」時点の幕府の財政状況はどうだったのか?

幕府財政は確かに逼迫していたとはいえ、金蔵が空っぽというのは信じがたい話で、隠匿した可能性が高いと私は思います。金額については、400万両(現在の価値で20兆円)もあったかどうかはわかりませんが、相当な金額は残っていたはずです。

(2)「江戸城無血開城」時点での「勘定奉行」小栗上野介が隠匿を指示したのではないか?

「勘定奉行」小栗上野介(小栗忠順)は鋭い情勢判断能力を持っていましたので、事前に「幕府再興のための軍資金」としてかなりの金銀の隠匿を指示した可能性は高いと思います。

小栗上野介(小栗忠順)については、「小栗忠順とは?勝海舟の政敵で佐幕派重鎮だが明治の偉大なファーザー!?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

だからこそ、新政府軍は当時の金庫番である小栗上野介を取り調べましたが、最後まで白状しないため斬首刑にしたものと思われます。

敗戦必至となった太平洋戦争末期に、日本軍が大量の金銀(現在の貨幣価値で数兆円)を東京湾に沈めたり、農村部かどこかに大量の物資を隠匿した事実もあります。東京湾に沈められた金銀はGHQによって発見されました。農村部かどこかの隠匿物資は、後に政商として暗躍する小佐野賢治や児玉誉士夫らの資金源になった可能性があります。

田中角栄元首相の「刎頸の友」と言われた政商の小佐野賢治や児玉誉士夫などのフィクサーが現れて混乱期に乗じて財を成したことや、闇市で旧日本軍の隠匿物資が大量に売られた事実を見ると、これは明らかです。

この辺の事情については、「NHKスペシャル<戦後ゼロ年東京ブラックホール1945-1946>は終戦後の闇を暴く!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

(3)「江戸城無血開城」の際に西郷隆盛は幕府の保有資金額をなぜ確認しなかったのか?

「江戸城無血開城」は西郷隆盛と勝海舟の直談判の成果のように思われていますが、実質的な交渉は、事前に徳川慶喜から直々に指示を受けた山岡鉄舟と西郷隆盛との間で行われました。

これについては、「勝海舟は江戸の町を戦火から救った大恩人か?それとも単なる大ほら吹きか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください

江戸城総攻撃の回避条件として西郷隆盛から山岡鉄舟へ提示されたのは以下の7箇条でした。

  1. 徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
  2. 江戸城を明け渡すこと。
  3. 軍艦をすべて引き渡すこと
  4. 武器をすべて引き渡すこと
  5. 城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
  6. 徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
  7. 暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

これは6日前に大総督府軍議で既決していた「別秘事」に(若干の追加はあるものの)概ね沿った内容です。山岡は上記7箇条のうち第一条を除く6箇条の受け入れは示しましたが、第一条のみは絶対に受けられないとして断固拒否し、西郷と問答が続きました。

ついには山岡が、もし立場を入れ替えて西郷が「『島津の殿様を他藩に預けろ』と言われたら承知するか」と詰問すると、西郷も山岡の立場を理解して折れ、第一条は西郷が預かる形で保留となったそうです。

ここで「軍艦」や「武器」を全部引き渡すことは明記されていますが、「幕府御用金」に全く触れられていないのは西郷隆盛が軍事面では有能でしたが、財政面での感覚に乏しかったからかもしれません。

これは大きな手抜かりだったと思われます。西郷隆盛とすれば、「残っている莫大な幕府御用金は、当然新政府軍が全額没収できるもの」と考えていたのかもしれません。

(4)「江戸城無血開城」後に誰か(複数)が横領(持ち逃げ)したのではないか?

正式な手続きとしては、残った家臣への「退職金支払い」としても使われたでしょうが、金蔵から複数の家臣が無断で横領(持ち逃げ)したことも十分考えられます。

徳川幕府が倒れた後、「空き城」から夜の間に金銀財宝が何者か(盗人)によって盗まれたという話は、私も聞いたことがあります。

3.マスメディア等による推理・発掘

(1)1990年代~2000年代の番組企画

1990年6月、TBSのテレビ番組『ギミア・ぶれいく』で、コピーライターの糸井重里を中心としたプロジェクトチームを結成。約2年半にわたって計10回の発掘作業が行われました。

自称超能力者の助けを借りるなどして埋蔵箇所を「源次郎の井戸」と推定し、大型重機を使用した大掛かりな発掘を試みました。江戸時代以降に掘られたと見られる穴や遺物を多数発見しましたが、埋蔵金に直接繋がるような発見はなく、プロジェクトチームも解散しました。

1999年12月31日〜2000年1月1日にもTBSの年またぎ特別番組『超える!テレビ』内で同様の発掘企画が放送され、2008年にも『ギミア・ぶれいく』の後継番組『バラエティーニュース キミハ・ブレイク』が同様の発掘企画をしました

(2)最近の番組企画

最近では、TBSの『林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎 隠された財宝3000億円徹底解明スペシャル』(2016.12.21放送)で、同局の『徳川埋蔵金シリーズ』の最新版として赤城山中にて再度の発掘調査を行いました。