2024年NHK大河ドラマは「源氏物語」の作者である紫式部が主人公でそのパトロンでもあった藤原道長とのラブストーリーも含む「光る君へ」(主演・吉高由里子 作・大石 静)です。
2020年の「麒麟がくる」、2021年の「青天を衝け」、2022年の「鎌倉殿の13人」、2023年の「どうする家康」と力作・話題作が続くNHK大河ドラマですが、2024年の「光る君へ」も楽しみですね。
なお「源氏物語」と紫式部については「紫式部はなぜ源氏物語を書いたのか?藤原道長との不倫の真相は?」という記事に、また光源氏のモデルとされる8人については、「光源氏のモデル・源 融とは?イケメンで光源氏のモデルの最有力候補。」など8回に分けて記事に書いていますので、ぜひご覧ください。
ところで、前に「紫式部が仕えた中宮彰子とは?摂関政治を支えたその生涯と人物像に迫る。」「二后を持った一条天皇とは?平安女流文学開花に寄与した生涯と人物像に迫る。」という記事を書きましたが、紫式部の父・藤原為時とはどんな人物だったのかも気になりますよね。
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、岸谷五朗さんが演じます。
そこで今回は、藤原為時の生涯と人物像に迫ってみたいと思います。
1.藤原為時とは
(1)生い立ちと系譜
藤原為時(ふじわら の ためとき)(949年頃~1029年頃)は、平安時代中期、一条朝の貴族・歌人・漢詩人で、紫式部の父です。藤原北家良門流(ふじわらほっけよしかどりゅう)、中納言・藤原兼輔の孫で、刑部大輔・藤原雅正の三男。官位は正五位下・左少弁。
藤原氏一族の「藤原北家(ふじわらほっけ)」に属しますが、同じ藤原北家の道長のような本流ではなく、傍流でした。下の「藤原北家の家系図」を見れば一目瞭然ですね。
(2)文章生となり、蔵人所雑色・播磨権少掾などを経て、東宮の副侍読も務める
「紀伝道(きでんどう)」(大学寮において、歴史、主に中国史を教えた学科)を菅原文時に師事し「文章生(もんじょうしょう)」(大学寮で紀伝道を専攻した学生)に挙げられます。
蔵人所雑色・播磨権少掾を経て、貞元2年(977年)東宮・師貞親王の御読書始において副侍読を務めます。
右馬頭藤原為信の娘と結婚し、973年頃に紫式部をもうけます。
(3)東宮時代から近侍した花山天皇の式部丞となる
永観2年(984年)、東宮時代から近侍した師貞親王が即位(花山天皇)すると「式部丞(しきぶのじょう)」(律令制における八省のひとつで大学寮・散位寮の2寮を管掌していた「式部省(しきぶしょう/のりのつかさ)」の官職)・六位蔵人に任じられます。
(4)花山天皇の退位にともない、官職を辞任
なお、紫式部の「式部」は為時の官職名に由来します。寛和2年(986年)奇行と好色で有名な花山天皇の退位に伴い官職を辞任します。
ちなみに花山天皇は、「光源氏のモデル」とされる8人(源 融・源 光・源高明・光孝天皇・藤原道長・藤原伊周・藤原実方・在原業平)の中には入っていませんが、紫式部は『源氏物語』を書くにあたってその好色な人物像も参考にしたのではないかと私は思います。
(5)一条天皇の時に越前守となり、紫式部と共に越前国に下向
一条朝に入ると約10年に亘って「散位(さんい)」(内外の官司に執掌を持たず、位階のみを持つ者)の状況となりますが、長徳2年(996年)に従五位下・越前守に叙任されて越前国へ下向します。この際に娘・紫式部も同行させたとされます。
(6)越後守となり越後国に下向するも、任期1年前に辞任し帰京
寛弘6年(1009年)正五位下・左少弁に叙任されますが、2年後の寛弘8年(1011年)に越後守となり再び受領を務めます。
息子の惟規も越後国に同行しましたが、惟規はまもなく現地で亡くなっています。また、長和3年(1014年)6月に任期を1年残しながら越後守を辞任し帰京しましたが、一説には直前に紫式部(973年頃~1014年頃)が亡くなったからではないかと言われています。
(7)三井寺にて出家、その後の消息は不明
長和5年(1016年)4月29日に三井寺にて出家。寛仁2年(1018年)には摂政・藤原頼通邸の屏風の料に詩を献じましたが、その後の消息は不明です。
2.藤原為時の人物像・逸話
・彼の妻(紫式部の母)が、紫式部の4歳の頃に病気で亡くなってしまったため、母がいないことを不憫に思って、人一倍愛し大切に育てたそうです。
・彼が少女時代の紫式部の文学的才能に驚愕したというエピソードが残っています。
紫式部の少女時代は、女性はかな文字を使い、男性は漢文で読み書きをしていました。父為時が弟の藤原惟規(ふじわらののぶのり)に、司馬遷の『史記』を教えていたときのことです。そばにいた紫式部が先に覚え暗唱したため、娘を見ながら「おまえが息子だったらよかったんだがなぁ」と残念がったそうです。このエピソードは、『紫式部日記』に記されています。
・娘の紫式部は宮廷に大変興味を持ち、彼が帰ると質問攻めにしたそうです。
紫式部が幼少期に暮らした邸宅は、京都御所に隣接する天台宗の寺「廬山寺(ろざんじ)」にあったといわれています。紫式部が15歳の頃、彼が学問を教えていた皇太子が天皇となりました。その花山天皇のもとで、先ほど触れました式部丞を務めています。
紫式部は宮廷に興味を持ち、彼が帰ると飛びつくように寄ってきて、質問攻めにしていたそうです。彼も見聞したことを、困りながらも優しく話したそうです。紫式部は、目を輝かせて聞き入り、文に書き残していたようです。
・花山天皇の退位にともなって失職しましたが、宮廷歌人としての地位は確保していたようです。藤原道長や頼通らの貴顕の催す詩会などに献詠し、本領を発揮しています。
『紫式部日記』によれば、道長邸での新年の宴会のあと、一条天皇の御前の遊びにも招かれていましたが出席せず、道長から「ひがみたり」と評されるほど非社交的な側面がありました。
紫式部も彼に似て、引っ込み思案なところがあったようです。
・『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に漢詩作品13首が採録されており、大江匡衡は源為憲・源孝道らと並べて「凡位を越える詩人」と評しました。『後拾遺和歌集』(3首)および『新古今和歌集』(1首)に和歌作品が入集しています。
・官途に恵まれなかったため、一条天皇に漢詩で訴えた逸話があります。
藤原為時は長徳2年(996年)正月25日の除目で淡路守に任ぜられましたが、3日後の28日に右大臣・藤原道長が参内して、にわかに越前守に任ぜられたばかりの源国盛を停めて、藤原為時を淡路守から越前守に変更しました。
下国である淡路国に比べ越前国は大国であり、国司としての収入には雲泥の差があります。この任官のいきさつについて、『古事談』に以下の逸話があります。
一条天皇の時代に源国盛が越前守に任ぜられた。藤原為時は「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」の句を女房(女官)を通して奏上、一条天皇はこれを見て食事も喉を通らず、寝所に入って泣いた。
藤原道長が参内してこれを聞き、自分の側近(『今昔物語集』では乳母子)で、越前守に任じられた(おそらく道長の推挙と想定される)ばかりの源国盛を呼び越前守を辞退させて、代わりを藤原為時とする除目を行った。
その時、越前守を譲らされた源国盛の家では嘆き悲しみ、国盛は衝撃のあまり病気になってしまい、秋の除目で播磨守に任じられたが病は癒えずとうとう死んでしまった。
同様の話は『続本朝往生伝』『今昔物語集』『十訓抄』など多数の説話集に掲載されており、除目のやり直しにより為時が淡路守から越前守に栄転したことは当時の人々の注目を集めたことがわかえいます。
『今昔物語集』(巻第24第30話)には、次のように書かれています。
<原文>
今は昔、藤原為時といふ人ありき。一条院の御時に、式部丞(しきぶのじょう)の労によりて受領(ずりょう)にならむと申しけるに、除目(じもく)の時、闕国(けつこく)なきによりてなされざりけり。
その後、このことを嘆きて、年を隔てて直物(なおしもの)行はれける日、為時、博士にはあらねども極めて文花(ぶんか)ある者にて、申文(もうしぶみ)を内侍(ないし)に付けて奉り上げてけり。その申文にこの句あり。
苦学寒夜。紅涙霑襟。除目後朝。蒼天在眼。(苦学の寒夜。紅涙(こうるい)襟(えり)を霑す(うるおす)。除目の後朝(こうちょう)。蒼天(そうてん)眼(まなこ)に在り。)
と。内侍これを奉り上げむとするに、天皇のその時に御寝(ぎょしん)なりて、御覧ぜずなりにけり。然る間、御堂(みどう)、関白にておはしければ、直物行はせ給はむとて内裏(だいり)に参らせ給ひたりけるに、この為時がことを奏せさせ給ひけるに、天皇、申文を御覧ぜざるによりて、その御返答なかりけり。
然れば関白殿、女房に問はしめ給ひけるに、女房申すやう、「為時が申文を御覧ぜしめむとせし時に、御前御寝(おおんまえぎょしん)なりて御覧ぜずなりにき」
然ればその申文を尋ね出だして、関白殿、天皇に御覧ぜしめ給ひけるに、この句あり。然れば関白殿、この句微妙に感ぜさせ給ひて、殿の御乳母子(おおんめのとご)にてありける藤原国盛といふ人のなるべかりける越前守(えちぜんのかみ)をやめて、にはかにこの為時をなむなされにける。
これひとへに申文の句を感ぜらるる故なりとなむ、世に為時を讃めける(ほめける)となむ語り伝へたるとや。
<現代語訳>
今は昔、藤原為時(ふじわらのためとき)という人がいた。一条天皇の時代に、式部丞を務めており、その功績によって受領(国司の代理)の地位を望んだが、除目(朝廷の官位の昇進・降格を決める人事考課)では地方の国司・受領に欠員がないという理由で却下された。
為時はがっかりしたが、翌年に、朝廷の官僚人事の修正が行われた日に、内侍(女性の役人)を通じて、受領の任官を申請する文章を天皇に差し上げたのだった。為時は文章博士(漢文・和歌の分野の専門家)ではなかったが、文化・教養・詩才に優れており、申請文章に以下のような漢詩を書き添えていた。
苦学の寒夜。紅涙襟を霑す。除目の後朝。蒼天眼に在り。
(現代語訳:寒い夜に耐えて勉学に励んでいたが、人事異動では希望する官職(受領)に就くことができず、失意と絶望で血の赤い涙が袖を濡らしている。しかし、この人事の修正が朝廷で行われれば、青く晴れ渡った空(天皇の比喩表現)の恩恵に感じ入って、その蒼天に更なる忠勤を誓うだろう。)
内侍はこの漢詩を一条天皇にお見せしようとしたが、既にお休みになっていて見せられなかった。御堂(藤原道長)は当時、関白(史実では摂政)だったから、人事の修正のために朝廷に参上して、天皇に為時の申請についてお伝えした。しかし、天皇は為時の申請文書も漢詩も御覧になっていなかったので、何の返答も頂けなかった。
そこで、藤原道長が内侍に聞くと、「為時の文書を天皇に御覧頂こうと思いましたが、既にお休みだったので、まだ御覧になっていません」と答えた。
すぐに文書を取り寄せて、天皇にお見せしたところ、その秀逸な漢詩に天皇は深く感動されたようである。
そして、この漢詩の詩句に感動した道長公は、自分の乳母子である藤原国盛に与えるはずだった越前の国の国司(受領)のポストを為時に与えたのである。これは、漢詩の詩句の感動によって人事が変更されたということであり、世間では為時の文才を賞讃していたと伝えられている。
なお、この越前守変更の理由について、『権記』や『小右記』によると、前年の長徳元年(995年)9月24日に隣国の若狭に宋の商人朱仁聡が来着する事件が起こり、その後若狭や越前に逗留していることから、その交渉相手として漢文の才を持つ為時が選ばれたと言われています。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「光る君へ」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。