『ギリシャ神話』はもともと口承文学でしたが、紀元前8世紀に詩人のヘーシオドスが文字にして記録しました。古代ギリシャの哲学、思想、宗教、世界観など多方面に影響を与え、ギリシャでは小学校で教えられる基礎教養として親しまれています。
絵画ではしばしばモチーフとして扱われ、多くの画家が名作を残しています。文学作品や映画などにも引用され、ゲーム作品でも題材になっていることがあります。たとえば、ディズニー映画の『ヘラクレス』はギリシャ神話をモデルにしたお話です。
『ギリシャ神話』(およびその影響を受けた『ローマ神話』)は、現在まで欧米人にとって「自分たちの文化の土台となったかけがえのない財産」と考えられて、大切にされ愛好され続けてきました。
欧米の文化や欧米人の物の考え方を理解するためには、欧米の文化の血肉となって今も生き続けている『ギリシャ神話』の知識が不可欠です。
「日本神話」は、天皇の権力や天皇制を正当化するための「王権神授説」のような神話なので、比較的単純ですが、『ギリシャ神話』は、多くの神々やそれらの神の子である英雄たちが登場し、しかもそれらの神々の系譜や相互関係も複雑でわかりにくいものです。
前に「ギリシャ神話・ローマ神話が西洋文明に及ぼした大きな影響」という記事や、「オリュンポス12神」およびその他の「ギリシャ神話の女神」「ギリシャ神話の男神」を紹介する記事を書きましたので、今回はシリーズで『ギリシャ神話』の内容について、絵画や彫刻作品とともに具体的にご紹介したいと思います。
第6回は「エロースとプシュケ 神と人の至上の愛」です。
1.エロースとは
エロース(エロス)は、恋心・性愛の神です。原初の神、あるいはアプロディーテーの息子とされています
エロースは、ギリシャ語で性的な愛や情熱を意味する動詞「「ἔραμαι」が普通名詞形に変化、神格化された概念です。
ローマ神話では、エロースにはラテン語で受苦の愛に近い意味を持つアモール(Amor)またはクピードー(Cupido)を対応させています。
クピードーは後に幼児化して、英語読みでキューピッドと呼ばれる小天使のようなものに変化しましたが、もともとは髭の生えた男性の姿でイメージされていました。
古代ギリシャのエロースも同様で、古代には力強い有翼の男性あるいは若々しい青年でしたが、やがて少年の姿でイメージされるようになりました。
エロースの象徴である「アトリビュート」(ゆかりのアイテム)は、弓矢および松明(たいまつ)です。
ヘーシオドスの『神統記』では、カオスやガイア、タルタロスと同じく、世界の始まりから存在した原初神 (Greek primordial deities)です。崇高で偉大で、どの神よりも卓越した力を持つ神でした。またこの姿が、エロースの本来のありようです。
後に、軍神アレースと愛の女神アプロディーテーの子であるとされるようになりました。またエロースはアプロディーテーの傍に仕える忠実な従者ともされます。
古代においては、若い男性の姿で描かれていましたが、西欧文化では、近世以降、背中に翼のある愛らしい少年の姿で描かれることが多く、手には弓と矢を持つ(この姿の絵は、本来のエロースではなく、アモールあるいはクピードーと混同された絵です)。
2.エロースにまつわる神話
(1)アポロンとダプネー
黄金で出来た矢に射られた者は激しい愛情にとりつかれ、鉛で出来た矢に射られた者は恋を嫌悪するようになります。
エロースはこの矢で人や神々を撃って遊んでいました。ある時、アポローンにそれを嘲(あざけ)られ、復讐としてアポローンを金の矢で、たまたまアポローンの前にいたダプネーを鉛の矢で撃ちましたた。
アポローンはダプネーへの恋慕のため、彼女を追い回すようになりましたが、ダプネーはこれを嫌って逃れました。しかし、いよいよアポローンに追いつめられて逃げ場がなくなったとき、彼女は父に頼んでその身を月桂樹に変えました(ダプネー daphne とはギリシア語で、月桂樹という意味の普通名詞)。このエピソードが示す寓意は、「強い理性に凝り固まった者は恋愛と言うものを蔑(さげす)みがちだが、自らの激しい恋慕の前にはその理性も瓦解する」ということです。
(2)エロースとプシュケ
<エロスとプシュケ フランソワ・ジェラール画>
ヘレニズム時代になると、甘美な物語が語られるようになります。それが『愛と心の物語』です。地上の人間界で、王の末娘プシュケ(プシューケー)が絶世の美女として噂になっていました。母アプロディーテーは美の女神としての誇りからこれを嫉妬し憎み、この娘が子孫を残さぬよう鉛の矢で撃つようにエロースに命じました。
しかしエロースはプシュケの寝顔の美しさに惑って撃ち損ない、ついには誤って金の矢で自身の足を傷つけてしまいました。その時眼前にいたプシュケに恋をしてしまいます。
エロースは恥じて身を隠しますが、恋心は抑えられず、魔神に化けてプシュケの両親の前に現れ、彼女を生贄として捧げるよう命じました。
晴れてプシュケと同居したエロースですが、神であることを知られては禁忌に触れるため、暗闇でしかプシュケに会おうとしませんでした。姉たちに唆(そそのか)されたプシュケが灯りをエロースに当てると、エロースは逃げ去ってしまいました。
エロースの端正な顔と美しい姿を見てプシュケも恋に陥り、人間でありながら姑アプロディーテーの出す難題を解くため冥界に行ったりなどして、ついにエロースと再会します。この話は、アプレイウスが『黄金の驢馬』のなかに記した挿入譚で、「愛と心」の関係を象徴的に神話にしたものです。プシュケとはギリシャ語で、「心・魂」の意味です。
プシュケとの間にはウォルプタース(ラテン語で「喜び」、「悦楽」の意。古典ギリシア語ではヘードネー)という名の女神が生まれました。
<エロスとプシュケ バーン・ジョーンズ画>
<エロスとプシュケ ヴァン・ダイク画>
<エロスとプシュケ ブーグロー画>
<アモルとプシュケ・愛と心 フランソワ=エドゥアール・ピコ画>
<エロースとプシュケ アントニオ・カノーヴァ作>
3.プシュケとは
<黄金の箱を開けるプシューケー ジョン・W・ウォーターハウス画>
<愛の神殿の中のプシュケー エドワード・ジョン・ポインター画>
プシュケ(プシューケー)は、ギリシア神話に登場する人間の娘です。 アプレイウスのラテン小説『黄金の驢馬』の中の挿話として登場します。ラテン文学であるため、ウェヌス、クピードーといったローマ神話の神名が用いられていますが、ギリシア神話の一編として紹介される場合、アプロディーテー、エロースとギリシア神話の神名に直されています。
<『黄金の驢馬』の概要>
ある国の3人の王女はいずれも美しく、中でも末のプシュケの美しさは美の女神、ウェヌスへ捧げられるべき人々の敬意をも集めてしまうほどでした。人間の女に負けることなど思いもよらなかったウェヌスは、息子クピードーにその愛の弓矢を使ってプシュケに卑しい男と恋をさせるよう命じます。悪戯好きのこの愛の神は喜んで母の命令に従いますが、誤って自分をも傷つけプシュケへの愛の虜となってしまいます。 プシュケに求婚者が現れないことを憂いた父母はアポロンの神託を受けますが、その神託とは、「山の頂上に娘を置き、『全世界を飛び回り神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人』(ラテン文学ではおなじみの恋の寓喩です)と結婚させよ」という恐ろしいものでした。悲しむ人々の中、プシュケは一人神託に従うことを決意し、山に運ばれます。
ゼピュロスがこの世のものとは思えない素晴らしい宮殿にプシュケを運び、宮殿の中では見えない声が、この中のものはすべてプシュケのものだといい、食事も音楽も何もかもが心地よく用意されていました。夫は夜になると寝所に現れるのみで姿を見ることはできませんでした。宮殿での生活を楽しんでいたプシュケですが、やがて家族が恋しくなり、渋る夫を泣き落として二人の姉を宮殿に招きます。プシュケの豪華な暮らしに嫉妬した姉達は、姿を見せない夫は実は大蛇でありプシュケを太らせてから食うつもりであると説き、夫が寝ている隙に剃刀で殺すべきであるとけしかけました。
この言葉を信じたプシュケが、寝ている夫を殺すべく蝋燭を持って近づくと、そこには凛々しい神の姿が照らし出されました。驚いたプシュケは蝋燭の蝋を落としてクピードーに火傷を負わせてしまいます。妻の背信に怒ったクピードーはその場を飛び去ります。
姉達の姦計にようやく気づいたプシュケは姉達の元へ行くと、今度はクピードーは姉達と結婚するつもりだと嘘を教えました。喜んだ姉達はゼピュロスが宮殿へ運んでくれると思い、断崖から身を躍らせましたが、風は運ばず、姉達は墜落してばらばらに砕けました。
4.アプロディーテー(ウェヌス)による「プシュケの3試練」
<プシューケーと玉座の上のウェヌス エドワード・マシュー・ヘイル画>
一方アプロディーテーは息子の醜聞に激怒し、アプロディーテー自らの接吻を与えるという懸賞までかけてプシュケを捕らえようとしました。恐れたプシュケはケレースに庇護を求めますが、ケレースは「アプロディーテーとの付き合いがある」との理由で拒否しました。そこで今度はユーノーに庇護を求めますが、ユーノーは「逃亡した奴婢をかくまってはならないことになっている」と法律を理由に拒否しました。
かくて、愛を追いながらも世間のしがらみに行き場所をなくしたプシュケは、「どんな、おとがめも覚悟しよう」と観念してアプロディーテーのもとに出頭しました。
「何でもいたします、どうかお許しを」プシュケは、必死にお願いしました。
「この恥知らずな娘よ、エロースはまだ傷が直らず、寝室にこもりっきりだ。誰がご主人様か、やっと分かったようだな。よし、おまえが本当に息子にふさわしいか、おまえの仕事ぶりを見て判断しようじゃないか!」と女神アプロディーテーは、言い放ちました。
【プシュケの3試練】の始まりです。果たして、プシュケはこの3試練(無理難題)を乗り越えることができるでしょうか?
エロスの母、女神アプロディーテーのプシュケに与えた3試練が始まりました。
(1)第1の試練(神殿の穀物倉にて)
「それぞれを選り分けて、夕方までにそれぞれの山にしておくように」
そこには、小麦、大麦、えんどう豆などが、混じったまま大量にありました。プシュケはどうして良いか分からず、ただ呆然としました。そんなプシュケを見て、エロースはこっそりアリの王とその家来にその仕事をさせました。
帰ってきた女神アプロディーテーは言いました。「これは、あの子(エロース)がやったことだな。あの子にまでお前の仕事をさせるのか!」
(2)第2の試練(羊毛刈り)
「あの森の水辺にいるヒツジの毛を取ってきて、私に羊毛の見本として持ってくること」
プシュケは川岸に向かいました。すると、河の神が言いました。「陽の昇っている午前中は、ヒツジたちはとても残忍なので、群れに近づいてはいけない。昼時になると、ヒツジたちも木かげに入り、また河の精がヒツジたちの心をなだめてくれるので、その時この川を渡りなさい。そして、ヤブや木立についた羊毛を集めるがよい」
プシュケーが羊毛を持っていくと、女神アプロディーテーは言いました。「これもお前一人でやったことではないな。まだ、お前を認めるわけにはいかぬ」
(3)第3の試練(冥界)
「冥界の女王ペルセポネーから、肌のツヤが出る化粧品をもらってくること」
ここにきて、プシュケはついに自分の死を覚悟しました。生きたまま冥界にはいけないからです。プシュケは高い塔から身を投げ、死んで冥界へ行こうと決心しました。そして塔を登っていくと、声が聞こえてきます。
「哀れな不幸な娘よ、なにゆえ、そのような生涯の閉じ方をするのか?今までだって、奇跡的に助けてもらったではないか!」
それから、その声は冥界へ行く道、冥界の番犬ケルベロスの脇を通り抜ける方法、冥界の河の渡し守カローンの説きふせ方も教えてくれました。「だが、女神の美の化粧品の箱は決して開けてならぬぞ!」
こうして、プシュケは無事冥界ヘ行き、女王から化粧品をもらって帰ってくることができました。危険な試練が終わったと思うと、彼女はホッとしました。心にスキが生まれた瞬間です。
「どうして、試練を終えた私が、ほんの少しだけ化粧品をもらってはいけないのだろう?
愛する夫に化粧をした私を見てもらいたい!」
あの〈パンドラ〉のように、プシュケは化粧品の箱を開けてしまったのでした。
すると、〈地獄の眠り〉がプシュケをつつみ、彼女は死んだように倒れてしまいました。これこそ、女神アプロディーテーが仕組んだワナだったのです。
それを察知したエロースは、プシュケの元に飛んで行き、〈地獄の眠り〉を集めて箱に戻しました。
「またしても、お前は好奇心から身を滅ぼすところだった!だか、母の試練を全うするがよい。あとは私に任せなさい」
エロースは、大神ゼウスに二人の結婚をお願いに行きました。ゼウスはエロスが良い女を見つけたら紹介することを条件にとりなしを了承します。そしてゼウスは、女神アプロディーテーを説得します。
結婚式の当日、ヘルメースがエロースとプシュケをゼウスの前に導いていくと、ゼウスはプシュケに神の酒ネクタールを飲ませ、彼女を不死にし、神々の仲間入りをさせました。
プシュケはもう人間でないのだから身分違いの結婚ではないと説明され、女神アプロディーテーもやっと納得しました。ここにめでたく、二人は永遠の夫婦になったのです。
かくて魂は愛を手に入れ、二人の間にはウォルプタース(「喜び」、「悦楽」の意)という名の子が生まれました。女神となったプシュケが絵画に描かれるときには、蝶の翅を背中に生やした姿をとる例が多々見られます。