2024年NHK大河ドラマは「源氏物語」の作者である紫式部が主人公でそのパトロンでもあった藤原道長とのラブストーリーも含む「光る君へ」(主演・吉高由里子 作・大石 静)です。
2020年の「麒麟がくる」、2021年の「青天を衝け」、2022年の「鎌倉殿の13人」、2023年の「どうする家康」と力作・話題作が続くNHK大河ドラマですが、2024年の「光る君へ」も楽しみですね。
なお「源氏物語」と紫式部については「紫式部はなぜ源氏物語を書いたのか?藤原道長との不倫の真相は?」「紫式部とは?NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公の生涯と人物像に迫る。」という記事に、また光源氏のモデルとされる8人については、「光源氏のモデル・源 融とは?イケメンで光源氏のモデルの最有力候補。」など8回に分けて記事に書いていますので、ぜひご覧ください。
前に次のような記事を書きました。
・藤原頼忠とは?天皇と外戚関係がないのが弱味。娘の遵子は素腹の后と揶揄された!
・藤原穆子とは?藤原道長の才能を見抜き、夫の反対を押し切って娘の倫子と道長の結婚を認めた!
・源雅信とは?娘の倫子が道長の正室となるが、最初は出世が望み薄と猛反対した!
・源俊賢とは?藤原道長に接近し摂関政治を支えた能吏で、一条朝の四納言の一人。
・藤原行成とは?一条天皇と道長に頼られた実務能力抜群の公卿で、「三蹟の一人」の能書家!
・藤原斉信とは?道長が出世し始めると変わり身の早さを見せ、腹心としての地位を築いた!
・藤原文範とは?まひろ(紫式部)の母方の曽祖父で、大雲寺を創建した公卿。
・藤原実資とは?小野宮流の祖で、道長の「この世をば」の歌を後世に広めた秀才官僚!
・藤原顕光とは?無能者扱いされたが、死後は怨霊「悪霊左府」として藤原道長一族から恐れられた!
・平惟仲とは?地方出身ながら勉学で磨いた才覚を武器に中央政界を渡り歩き、従二位・中納言にまで昇り詰めた!
・源明子とは?藤原道長の妾妻で、嫡妻の源倫子に対して鬱屈した気持ちがあった!
・藤原義懐とは?花山天皇の叔父として出世するも、一夜で権力を失い出家した!
・藤原為光とは?花山天皇の女御となった忯子の父で、娘の早すぎる死を悼んで法住寺を建立!
・源重信とは?恋愛は不得手だが、愛敬があり人懐っこい性格。平等院は元は彼の別荘だった!
・藤原忯子とは?花山天皇の女御で、寵愛を受けて懐妊するも17歳で急逝し、天皇出家の引き金となった!
・藤原遵子とは?円融天皇の皇后だが、子がないため「素腹の后」と呼ばれた!
・藤原道兼とは?容貌醜く、剛腹で片意地・偏執的な性格で、花山天皇を欺き出家・退位させた!
・藤原公任とは?「三舟の才」の誉れを得た多才博識を誇るが、道長全盛期には道長に迎合。
・円融天皇とは?藤原氏の内紛に翻弄され、26歳で退位した中継ぎの天皇だが「院政」を意識していた!?
ところで、藤原公任は紫式部とどのような関わりがあり、どんな人物だったのかも気になりますよね。
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、町田啓太(まちだ けいた)さんが演じます。
そこで今回は、藤原公任の生涯と人物像に迫ってみたいと思います。
1.藤原公任とは
藤原 公任(ふじわら の きんとう)(966年~1041年)は、平安時代中期の公卿・歌人で、藤原北家小野宮流、関白太政大臣・藤原頼忠の長男です。
官位は正二位・権大納言。小倉百人一首では大納言公任。『和漢朗詠集』の撰者としても知られます。
「三舟の才」(漢詩・和歌・管弦に優れた才能)の逸話に示されるように多才博識で知られ、道長全盛時の歌壇を代表する指導者の位置を占めており、清少納言や紫式部もその才に畏怖しました。
有職故実にも通じ平安時代の三大故実書のひとつ『北山抄』を著しました。
しかし政治の実権が小野宮流から九条流に移り、道長の全盛期を迎えると、同い年の道長に迎合しました。
2.藤原公任の生涯
祖父・実頼、父・頼忠ともに関白・太政大臣を務め、母(醍醐天皇の孫)・妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王です。また、従兄弟に具平親王、右大臣藤原実資、書家藤原佐理がおり、政治的にも芸術的にも名門の出です。
関白の子として、天元3年(980年)に清涼殿にて円融天皇出御の元で元服して、異例の正五位下に叙せられるなど、将来が期待されていました。
理髪は藤原遠度、加冠は左大臣・源雅信が務めましたが、天皇自ら加冠したともされます。同年7月に侍従に任ぜられています。
天元4年(981年)従四位下、天元5年(982年)従四位上と順調に昇進し、同年には姉の遵子が円融天皇の皇后に立てられています。
遵子の立后後初めての参内に従った公任は、藤原兼家の邸宅(東三条殿)の前を通り過ぎる際に、女御のままであった兼家の娘の詮子のことについて「この女御は、いつか后にはたちにたまふらむ」との失言を放っています。
その後も、永観元年(983年)左近衛権中将、寛和元年(985年)正四位下に叙任されるなど、円融朝から花山朝にかけて昇進を続けました。
しかし、寛和2年(986年)一条天皇の即位に伴って、父の頼忠は関白を辞任して藤原兼家が摂政となり、政治の実権が小野宮流から九条流に移りました。
同年7月には一条天皇の生母として皇太后となった藤原詮子の参内に公任が供奉していたところ、進内侍に「御妹の素腹の后は、いづくにかおはする」と揶揄され、以前の失言の仕返しをされています。
また、兼家の息子で同い年の藤原道長はこの時点で従五位下の位階にありましたが、翌永延元年(987年)には一挙に従三位まで昇進し、公任は瞬く間に位階を追い越されました。
なお、寛和2年(986年)10月に行われた円融上皇の大井河遊覧では、大堰川に漢詩・和歌・管弦の3艘の舟に名人を乗せて芸を競わせましたが、公任は源相方と共に3舟に併せ乗る名誉を得ました。
永延3年(989年)蔵人頭(頭中将)に任ぜられますが、この頃には公任の昇進は相当に停滞しており、同時期に蔵人頭を務めた藤原懐忠(1年4ヶ月)・藤原道頼(1年3ヶ月)・藤原伊周(5ヶ月)らが早々に参議として公卿に昇っていく中で、公任は3年半の間蔵人頭に留め置かれます。
正暦2年(991年)9月には参議の欠員が発生したにもかかわらず公任の任官は見送られ、翌正暦3年(992年)8月になってようやく参議として公卿に列しましたが、一方で近衛中将を免ぜられています。
このような昇進状況に対して公任は相当の不満が溜まっていたらしく、正暦4年(993年)関白・藤原道隆を始め藤原氏の公卿ほぼ全員が供奉した一条天皇の大原野神社への行幸に不参する事件を起して、一時勅勘を蒙り参内を止められています。
このように公任は執政の道隆に対して不満を持つ一方、同じく道隆に反発していた道隆の弟の道兼とは親密であり、正暦5年(994年)には道兼の養女(実は昭平親王の娘)と結婚しています。
なお、長徳年間(996年~999年)頃には私撰和歌集『拾遺抄』を撰していますが、『拾遺抄』は花山上皇が将来勅撰和歌集(『拾遺和歌集』)を編纂する際の目安として、公任に編纂を命じられたと想定されています。
当時、和歌の大家であった清原元輔・平兼盛・大中臣能宣・藤原仲文らは既に没し、生存中の藤原長能・源重之は地方に下っているなど、歌壇は極度の人材不足に陥っていたため、まだ30歳前半であった公任が撰者を命じられたと見られますが、結果的にこれが公任を歌壇の第一人者にのし上げることになりました。
長徳元年(995年)の赤斑瘡の大流行や長徳2年(996年)の長徳の変を経て執政の座は藤原道長に移りました。
長徳5年(999年)公任は14年ぶりに昇叙されて従三位になりますが、この頃から公任は道長に接近するようになります。具体的には以下のような記録が残っています。
・5月6日:道長邸の改築に伴う祝宴に参加。当日公任が詠んだ漢詩は『本朝麗藻』に、和歌は『拾遺和歌集』に残っています
・9月12日:道長に随行して西山に紅葉を尋ねています。この際に詠んだ和歌が『小倉百人一首』に採録(*)されています
(*)滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
現代語訳:滝の音は聞こえなくなってから長い年月がたってしまったけれども、その名声だけは流れ伝わって、今でもやはり聞こえてくることだ
・10月27日:藤原彰子入内に際して、屏風歌(*)を詠進しています
(*)むらさきの くもとぞみゆる ふぢの花 いかなるやどの しるしなるらむ
現代語訳:紫の雲のように見えるほど美しい藤の花は、この家のどんな吉兆となるのだろうか(藤の花は藤原氏を意味します)
これらの活動が奏功してか、長保3年(1001年)8月に上席の参議3名(藤原懐平・菅原輔正・藤原誠信)を越えて中納言に任ぜられ、10月には正三位に叙せられています。
長保6年(1004年)10月に一条朝の四納言の一人で公任の1歳年下であった藤原斉信が官職は権中納言ながら従二位に叙せられ、公任は位階の上で越えられてしまいます。
公私共に密接な交流のある親しい友人であった斉信に先を越されたことは公任を刺激したらしく、ただちに出仕をやめてしまい、12月になって中納言左衛門督の辞表を道長に提出しています。
この辞表に関しては、まず当時の有名な文人であった紀斉名や大江以言に書かせましたが、公任は満足できず、大江匡衡が妻の赤染衛門の知恵を借りてようやく作成したとの逸話があります。
結局、7ヶ月の不参を経て、翌寛弘2年(1005年)7月に従二位に叙せられ、公任は再び参内を再開しました。
同年末頃から、公任は道長邸を訪問することが多くなるなど、公任は道長へさらに接近し、迎合の度合いを深めました。
寛弘年間前半には、勅撰和歌集『拾遺和歌集』が編纂されていますが、公任の和歌は現存歌人中最多の15首が採録されています。
この和歌集には公任が以前編纂した『拾遺抄』の和歌が全て採録され、さらにはこの和歌集は『拾遺抄』の盛名に押されて当時の歌壇にそれほど迎えられなかったなど、歌壇における公任の影響力が極めて大きかったことが窺われます。
その後、寛弘6年(1009年)に藤原斉信と共に権大納言に昇進しますが、この間の寛弘5年(1008年)に藤原斉信が、寛弘7年(1010年)には同じく四納言の一人である源俊賢が先に正二位に昇進して位階面で先を越されています。
一条天皇の子女を次々産んでいた中宮・藤原彰子に中宮(権)大夫として仕えていた両名と異なって、皇太后宮大夫のみを兼ねて姉の皇太后・藤原遵子に仕えていた公任は、官位を進めるような要務に任ぜられることもありませんでしたが、かつてのように人事に反発することもなく、小野宮家の時代が既に遠くへ去ってしまったことを悟っていたようです。
寛弘9年(1012年)4月に長女を藤原教通に嫁がせます。執政道長の子息を婿に望む公卿は多かったですが、公任はこの結婚がよほど自慢であったようで、道長に反発を持つ同じ小野宮流の大納言・藤原実資に対してこの婚儀のことを長々と喋って、実資を閉口させました。
一方で、公任は経済的に不如意だったためか、実資から婚儀のための衣裳を借り、新婦のための女装束を贈られています。
なお、この結婚の引き出物として贈られたのが『和漢朗詠集』です。同年11月に三条天皇の大嘗会が行われ、悠紀国司賞として近江守を兼ねていた教通に叙位の沙汰がありましたが、教通はこれを舅に譲り公任が正二位に昇叙されました。
寛仁5年(1021年)左大臣・藤原顕光の薨去により大臣の席が2つ空き、下座の権大納言であった婿の藤原教通が内大臣に昇進し、大納言であった藤原実資が右大臣に昇ったため、正官の大納言が藤原斉信のみとなりました。
しかし、筆頭の権大納言であった公任は欠官のある大納言への昇進が叶わず、大臣の座はおろか昇進の限界へ来ていることが明らかになっていました。
さらに、治安3年(1023年)次女(遵子の養女)を、翌治安4年(1024年)長女(藤原教通室)を次々と亡くしますが、公任は精神的に大きな痛手を受けたらしく、この頃から出仕をしなくなり、同年12月には権大納言の官職を辞任しました。
万寿2年(1025年)正月に邸宅の四条宮が焼亡したため一時延期するものの、翌万寿3年(1026年)正月4日に弟・最円がいる洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たしました。戒師は三井寺の別当文慶僧都です。
出家した公任は解脱寺から北に1町ほど離れた平地に山荘を営んで居住しました。山荘の跡は現在も「朗詠谷」と称されています。
公任の出家はまもなく都に知れ渡りますが、その反響は大きく、早速既に出家していた道長から和歌に添えて法衣一領が贈られると、婿の教通や子・定頼を始め大勢の人々が次々と訪れました。
少し落ち着くと今度は同じ四納言の藤原斉信の訪問を受けます。公任と同じく道長の子息(長家)に嫁がせた娘を若くして失っている斉信は、死んだ娘のことを縷々と云い続け、一方で出家の決心も付かない真情を吐露し、これに対して公任は自らの経験を語って斉信を慰めました。斉信は時間になっても辞去する気になれず、二人して泣き続けたということです。
万寿4年(1027年)になると6月に源俊賢が、12月には藤原道長と藤原行成が同日に没し、藤原道長とその政権を支えた四納言は公任出家後僅か2年ほどの間に、公任と斉信の二人を残すのみとなりました。
公任は俗世間と離れますが、源経頼の依頼を受けて有職故実を教授したり、定頼が月見で人々が詠んだ和歌を詠草にして公任に送ったところ、公任が当時まだ無名であった藤原範永の詠んだ和歌を見つけて絶賛し、これを伝え聞いた範永がその詠草をもらい受け、錦袋に入れて家宝にした、などの話が伝わっています。
長元8年(1035年)最後まで官界に残っていた藤原斉信も大臣任官を果たせぬまま没し、結果的に四納言は公任が最後まで生き残りました。
長久元年(1040年)の年末より瘡湿にかかって10日ほど患ったのち、翌長久2年(1041年)1月1日死去しました。享年76。
3.藤原公任の人物像
和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を見せ、道長に対して自らの才能を誇示した「三舟の才」の逸話は、小野宮流の嫡男として芸術面での意地を見せたともいえます。
また、道長には迎合していたものの、自らの門地に対する誇りは高く、四納言の一人斉信に位階を越された際は半年間出仕を止めた上に、当時文人として有名であった大江匡衡に作らせた辞表を提出したこともありました。
家集『大納言公任集』、私撰集『金玉和歌集』、歌論書『新撰髄脳』『和歌九品』などがあり、『和漢朗詠集』や三十六歌仙の元となった『三十六人撰』は公任の撰によります。
勅撰歌人として『拾遺和歌集』(15首)以下の勅撰和歌集に88首が入首しています。また引退後著したと見られる有職故実書『北山抄』は摂関政治期における朝廷の儀式・年中行事の詳細が分かる貴重な史料です。
道長が公任に対して対抗意識を燃やしたという逸話もありますが、実際には寛和2年(986年)の内裏歌合で若手貴族の代表として道長・斉信ともに選ばれるなど、青年時代から共に行動することが多くありました。
なお、実際に四納言の中で唯一、道長が政権の座に就く以前に参議に昇進しています(正暦3年(992年)8月)。
4.藤原公任にまつわるエピソード
(1)三舟の才
『大鏡』に見える話で、三船の才とも言います。道長が大堰川に漢詩の舟、管絃の舟、和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗せた際、乗る舟を尋ねられた公任は和歌の舟を選び、次のように詠んで賞賛されました。
小倉山 嵐の風の 寒ければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき
現代語訳:小倉山から吹きおろす風が冷たいので、紅葉が散りかかって皆が錦の衣を着ているようだ
ところが公任は、漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったはずだと悔やみ、道長に舟を選べと言われたときに、すべての分野で認められているとうぬぼれてしまったと述懐しました。
なお、記録上大堰川において三舟の遊興が開かれたのは寛和2年10月10日(986年11月14日)に円融上皇臨席のもと開催されたもので、道長や公任もこれに参加したと思われます。
なお、この時に舞と笛の演奏が称賛された源時中は直後に褒賞として参議に昇進しています。
(2)着鈦勘文
この時代、強盗・窃盗・私鋳銭の3つの罪については検非違使が裁判を行うことになっていましたが、長徳2年(996年)11月に検非違使の最高責任者であった検非違使庁別当である公任の別当宣によって、初めて着鈦勘文(判決文)に徒(懲役)年数が書かれることになりました。
それまでは、被害額の総額に応じて徒の年数は定められていたものの、その年数が罪人に示されることは無く、罪人は釈放されて初めて自分がどんな刑罰を受けたのかを知ったということです。
公任はその矛盾を指摘してこれを改めさせました。この時、左衛門志であった明法家(法律家)の惟宗允亮は、公任の意向に沿って素晴らしい着鈦勘文を書き上げ、法律家としての名声を高めたということです。
(3)紫式部との仲(『源氏物語』の話題)
寛弘5年(1008年)11月1日、藤原道長の邸宅・土御門殿(つちみかどどの)で、一条天皇と中宮・彰子の皇子である敦成親王(あつひらしんのう)(のちの後一条天皇)の誕生祝いの宴が行われた時のことです。
宴で多くの参加者が酔い乱れる中、酔っ払った公任が紫式部に声をかけます。
あなかしこ、このわたりにわかむらさきやさぶらふ
(すみません。このあたりに若紫の姫君はいらっしゃいますか)
わかむらさき(若紫)とは、紫式部の書いた『源氏物語』のヒロイン・紫の上、光源氏の理想の女性です。
宮中で話題になっている『源氏物語』にひっかけた公任の冗談だったのです。
それに対して紫式部は、
光源氏に似ていそうな人さえ見えないというのに、あの紫の上がここにいるわけないでしょ
と相手にしなかったのだそうです。(『紫式部日記』より)
実は、公任の言葉「わかむらさき」は「我が紫」の意味で、公任と紫式部は恋仲だったとの説もあります。
恋人だからこそ彼女が身分の高い公任に対してつれない態度を取ることができたというわけです。
なお、この逸話の条が、本文以外で『源氏物語』に触れられた記録の初見とされます。
(4)『宇治拾遺物語』に見える逸話
『宇治拾遺物語』 巻第十二 二一(一五六)「ある上達部中将の時召人に逢ふ事」の末尾には、悪法師の恨みを買って攫われ、助け出された思い出を語る貴人を指して「四条大納言(公任)の事と申すは誠やらん」とあります。
(5)うるまの島
『権記』、『本朝麗藻』などに、寛弘元年(1004年)新羅(高麗)迂陵島人の因幡漂着と送還が記述され、言葉の通じぬ異邦人の来訪が当時の話題となっていました。この島は現在の鬱陵島(ウルルンド)です。この時期に公任の詠んだ歌が千載和歌集に収録されています。
[詞書]うるまのしまの人のここにはなたれきて、ここの人のものいふをききしらてなんあるといふころ、返ことせぬ女につかはしける(うるまの島の人が日本に漂流してきて、日本人の言葉を聞いてもわからないでいるという評判の頃に、返歌をしない女に送った歌)
おほつかなうるまの島の人なれやわかことのはをしらぬかほなる
(心もとないことだ。うるまの島の人だからだろうか、わたしの贈った和歌に知らぬ顔をしているのは)
—千載和歌集 巻第十一 六五七
島の名は『狭衣物語』の文中にも取り入れられました。詞書は初出の『大納言公任集』に「しらぎのうるまの島の人」とあるものが、千載集では国名が省略されてしまったため、何処とも知れぬ異邦の島の呼び名として広まりました。
後の室町時代、当時の琉球国が室町幕府に遣使、交易を行ったあたりから、異邦の辺境の島としての「うるま」が沖縄を指すようになります。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「光る君へ」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。