日本語の語源には面白いものがたくさんあります。
前に「国語辞典を読む楽しみ」という記事を書きましたが、語源を知ることは日本語を深く知る手掛かりにもなりますので、ぜひ気楽に楽しんでお読みください。
以前にも散発的に「日本語の面白い語源・由来」の記事をいくつか書きましたが、検索の便宜も考えて前回に引き続き、「50音順」にシリーズで、面白い言葉の意味と語源が何かをご紹介したいと思います。季語のある言葉については、例句もご紹介します。
1.未草/ヒツジグサ(ひつじぐさ)
「ヒツジグサ」とは、「スイレン属の中で唯一日本に自生するスイレン科の水生植物」です。
ヒツジグサは、未の刻(現在の午後2時、もしくは午後1時から3時)の頃に花が咲くことに由来する説と、未の刻に花が閉じることに由来する説があります。
ヒツジグサの花は午前10時頃から咲き、夕方に閉じるため、時間的に近いのは閉じる方です。
漢名の「睡蓮」も花が夕方に閉じることに注目した名であるため、「未」は咲く時間ではなく、閉じる時間を表していると思われます。
ヒツジグサの葉は、基部に深い切れ込みがあり、和バサミのような形をしています。
その形をヒツジの蹄に見立てて「羊草」とするところを、花が早い時間に閉じることと関連付けて「未草」とした可能性も考えられます。
余談ですが、上皇ご夫妻の長女清子さま(現在は結婚して皇室を離れ、黒田清子さん)の「お印(おしるし)」(シンボルマーク)が「未草」でした。
「未草」は夏の季語で、次のような俳句があります。
・旅づかれ 水涼しくて 未草(田中藤穂)
・しづかなる 池こそよけれ 未草(盛良孝)
・祖父の手に 成りし泉水 ひつじ草(駒井でる太)
・鯉寄りて 少し揺れたる 未草(野村信幸)
2.人見知り(ひとみしり)
「人見知り」とは、「子供などが、見知らぬ人に対して、恥ずかしがったり嫌ったりすること」です。
人見知りの語構成は、「人見+知り(知る)」と「人+見知り(見知る)」の二通り考えられます。
人見には「よその人を見る目」の意味があり、知るには「気づく」「感じ取る」の意味があるため、人見知りが「人見+知り(知る)」とすれば、見知らぬ人だと感じ取ることを意味します。
見知りは「顔見知り」のように「見覚えがあること」「面識があること」を意味しますが、「見て知ること」の意味もあり、人を見て知ることは、人を見て判断することでもあります。
人見知りは、恥ずかしがったり嫌ったりする点に注目されがちですが、乳児が見知らぬ人に対して恐怖を示し、泣き出す現象は、母親と見知らぬ人を区別する能力の現れです。
「人見+知り」の見知らぬ人だと感じ取ることも、「人+見知る」の人を見て判断することも、この区別の能力を表しています。
そのため一方に絞ることは難しいですが、「人臆面」は「人+臆面」、「人怖じ」は「人+怖じ」です。
普通の語構成からすれば、「人+見知り」とするのが妥当です。
3.貧乏揺すり/貧乏ゆすり(びんぼうゆすり)
「貧乏ゆすり」とは、「座っている時などに、膝の辺りを細かく揺らし続ける動作」です。
貧乏ゆすりは、貧乏人は着るものがなく、寒さで震える様子に似ていることに由来すると考えられます。
その他、足を揺らすと貧乏神に取り憑かれるといわれていたことから。
貧乏人が高利貸しに取り立てられる際、足を揺らすことが多かったことからという説もあります。
貧乏ゆすりは、江戸時代中頃から見られる語で、江戸前期には「貧乏ゆるき(貧乏揺るぎ)」と言われていました。
いずれの語も、寒さで震えることや、暖をとることなどに関連づけた使用例が見られます。
一方、話として面白くなるはずの「貧乏神」や「高利貸し」に絡めた例は見られないため、貧乏人が寒さで震えるさまにたとえ、「貧乏ゆすり」と言うようになった説が有力です。
4.ビンタ
「ビンタ」と言えば、2022年に亡くなったアントニオ猪木さんの「闘魂注入ビンタ」が有名ですね。
「ビンタ」とは、「平手で他人の頬を打つこと」です。
ビンタの「ビン」は、こめかみ周辺の毛の「鬢(びん)」のことです。
「タ」は「手」で、ここでは「辺り」を意味し、元々、ビンタは鬢の辺り、首や頭などを表す語でした。
体の一部分を表した「ビンタ」が、鬢の辺りを打つことを意味するようになったのは、大正から昭和初期にかけてのことです。
軍隊用語として使われていた言葉が、一般に広まったと考えられています。
太平洋戦争に従軍した父から直接聞いた話では、上官が初年兵や部下に対して天皇陛下の名のもとに「往復ビンタ」や「鉄拳制裁」を加えるのは日常茶飯事で、これは上官の「鬱憤晴らし」「初年兵いじめ」の理不尽な暴力というのが実態だったそうです。
余談ですが、2022年3月27日に行われたアカデミー賞授賞式に勢揃いしたスターたちと、世界中の視聴者の前でプレゼンターとして登場したコメディアンのクリス・ロックがウィル・スミスにビンタされて話題になりましたね。
5.人を呪わば穴二つ(ひとをのろわばなふたつ)
「人を呪わば穴二つ」とは、「人を陥れようとしたり害を与えたりすれば、自分もまた同じ目に遭うというたとえ」です。
「人を呪わば穴二つ掘れ」の略で、穴は「墓穴」の意味です。
人を呪い殺そうとすると、その報いで自分も殺されて、墓穴が二つ必要になることにたとえ、人に害を与えれば自分に返って来るという、戒めとして使われます。
インターネット上では、陰陽師が人を呪い殺すことに成功しても、相手の呪い返しによって死ぬこともあるため、自分も死ぬ覚悟で呪殺していたことから、「人を呪わば穴二つ」ということわざが生まれたとする記事が多く見られます。
しかし、これは「呪い」と「自分も死ぬ覚悟」から作られた出鱈目な説です。
「人を呪わば穴二つ」の最も古い例は1691年の俳諧『若みどり』で、平安時代の陰陽師とは時代的に大きな隔たりがあり、陰陽師に由来すると書かれた文献も存在しません。
6.一人相撲/独り相撲(ひとりずもう)
「独り相撲」とは、「相手がいない、もしくは全く問題にされていないのに、一人で夢中になって取り組むこと。また、何も得られないことに必死で取り組むこと」です。
独り相撲は、あたかも二人で相撲を取っているかのような所作をすることで、実際に一人で取る相撲を言いました。
この意味での独り相撲は、愛媛県今治市大三島町の大山祇神社などで神事として行なわれるほか、かつては、猿楽や大道芸としても行なわれていました。
藤原明衡の『新猿楽記』(11世紀半ば)では、京都市中で行われた滑稽な見せ物のひとつとして、「独り相撲」が挙げられています。
相手がいないのに自分だけ気負い込むことや、空回りのたとえとして「独り相撲」が使われるのは明治以降のことです。
内田魯庵『嚼氷冷語』(1899年)の「或る意味でいふと、文学は独り相撲を取ってゐたのである」や、夏目漱石『吾輩は猫である』(1905〜06年)の「独りで碁石を並べて一人相撲をとってゐる」が古い例です。
7.一肌脱ぐ(ひとはだぬぐ)
「一肌脱ぐ」とは、「本気になって援助する。力を入れて助ける」ことです。「人肌脱ぐ」と書くのは誤りです。
一肌脱ぐの「肌」は、皮膚のことではなく、物を覆い包んでいるもののことで着物を表します。
和服の袖から腕を抜いて、上半身をあらわにすることを「肌脱ぎ」といいます。「遠山の金さん」でもおなじみですね。
力仕事をする時は「肌脱ぎ」の姿になることから、他人のためにために本気で力を貸すことを「一肌脱ぐ」と言うようになりました。
上半身全部を脱いで事にあたるところから、全力で事にあたることを意味する「諸肌を脱ぐ」という言葉もあります。
そのため、一肌脱ぐの「一」を「片袖」の意味と解釈するものもありますが、これは間違いです。
「諸肌を脱ぐ」の対となる語は、「一肌脱ぐ」ではなく「片肌脱ぐ」です。
上半身裸になることも、片袖の場合は「片肌脱ぎ」、両袖の場合は「諸肌脱ぎ」といいます。
一肌脱ぐの「一」は、「ここは一つ」「ここは一丁」など、これから行動を起こそうとする時に用いる語の「一」です。
8.ピアノ/piano
団塊世代の私が子供の頃は、ピアノを習っている同級生はほとんどいませんでしたが、私の子供や孫世代になると、ピアノ教室に通う子供が増えて来ました。アップライトピアノがある家庭も多くなりました。だからこそ「ピアノ売ってちょうだい」というテレビCMも出てきたのでしょう。
また最近では、独学でピアノを習得する人も増えていて、「駅ピアノ・空港ピアノ・街角ピアノ」というテレビ番組を見ていると、インターネットで独学でピアノを学んだ外国人もよく登場します。
「ピアノ」とは、「鍵盤を指先で叩くと、鍵に連動したハンマーが金属弦を打って音が出る鍵盤楽器の一つ」です。また、音楽の強弱標語で「弱く」の意。
現在のグランドピアノの原型は、イタリアの楽器製作家バルトロメオ・クリストフォリが、チェンバロのボディを活用して製作したものに始まります。
この楽器は「ピアノとフォルテが出せるチェンバロ(弱い音と強い音を出せるチェンバロ)」という意味で、「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(Clavicembalo col piano e forte)」と名付けられました。
それが次第に略されて「ピアノフォルテ」や「フォルテピアノ」と呼ばれるようになり、さらに略されて「ピアノ」と呼ばれるようになりました。
楽器のピアノの略称が「pf」なのは、本来「ピアノフォルテ」というためです。
強弱標語で「弱く」の意味の「ピアノ」は、英語の「plan(プラン)」と同源で、「平らな」「明瞭な」を意味するラテン語「planus」に由来します。