「きけわだつみのこえ」というのは、太平洋戦争末期に「学徒出陣」し戦没した学徒兵の遺書を集めた遺稿集です。1947年に出版された東京大学戦没学徒兵の手記集「はるかなる山河に」に続いて1949年に出版されています。
私は大学生の時に、光文社から出ていた「第2集 きけわだつみのこえ」を読みました。全体のトーンとしては、戦争を真っ向から批判するものはなく、学業半ばにしてやむなく戦場に赴く無念・諦観や、平和のための捨て石になるといった悲壮な決意、あるいは自己の内面を省察する哲学的な内容が綴られていたように記憶しています。
1.「きけわだつみのこえ」の名前の由来
学徒兵の遺稿集を出版するにあたって、全国から公募した結果、京都府在住の藤谷多喜雄氏のものが採用されました。元の応募作は「はてしなきわだつみ」でしたが、添えられた短歌「なげけるか いかれるかはた もだせるか きけはてしなき わだつみのこえ」から「きけわだつみのこえ」となったそうです。
ちなみに「わだつみ(わたつみ)」は古事記や日本書紀に出てくる海の神を表す古語です。古事記では「綿津見神(わたつみのかみ)」「大綿津見神(おおわたつみのかみ)」と出ており、日本書紀では「少童命(わたつみのみこと)」「海神(わたつみ、わたのかみ)」「海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)」などと出てきます。
2.「きけわだつみのこえ」の編集方針批判
この手記集・遺稿集は、本来ならば平和に生きていたであろう若者が軍国主義の犠牲になり、死に直面した時に感じたことを率直に書き残したものとして、驚きをもって迎えられるとともに高い評価を受けました。
しかしもともとの「はるかなる山河に」の「編集方針」が「平和への訴え」を掲げていました。編集者の一人である渡辺一夫東大教授が「かなり過激な日本精神主義的な、戦争謳歌に近いようなものまでも全部採録するのが公正である」との意見を出しましたが、その後撤回しています。
現在の日本の三大新聞にもよくあることですが、全体を捉えずに自社の編集方針に合致する一部分だけを切り取って記事にするようなものです。
このような方針に対して、立花隆氏(1940年~2021年)は「天皇と東大」という本の中で「左側からの歴史の改ざん」であると批判しています。
「これは当時ごく少数であった高等教育を受けたインテリの文章を集めたものであり、人間本来の死ではなく、インテリの死だけを美化したもの」「インテリと教育を受けていない一般民衆との間には価値観の違いがあり、編集側に一般民衆の戦争観の視点が欠けているのではないか」との批判があります。三島由紀夫もこのような意見を述べています。
ただ「第2集 きけわだつみのこえ」では、右翼的表現や日本主義的言辞が含まれた手記も掲載されています。
3.「きけわだつみのこえ」の改ざん疑惑
元の遺稿で「暴米暴英撃滅とか、十億の民の解放とか言う事」とあるのを、「軍指導者たちの言う事」に変更していた例があります。ただ、これは当時GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の「検閲」で、連合国を誹謗したものあるいは軍国主義的表現として改変された可能性があります。
しかし、この他にも「遺族所有の原本を確認していない」「遺稿が歪められている」「遺稿に無い文が付け加えられている」として裁判になったこともあるようです。
4.雲の墓標
私の印象に残っている小説に、阿川弘之の「雲の墓標」があります。これは「きけわだつみのこえ」と同様の、戦没学生の手記をもとに書かれたものです。
戦時中に特攻隊員になるための訓練を積み、出撃して行く海軍予備学生の苦悩を描いた作品です。京都大学で万葉集を学んでいた同級生4人の中の吉野という学生が、最後に生き残った鹿島に宛てた遺書の中の「雲こそわが墓標 落喗(らっき)よ碑銘をかざれ」からタイトルを取っています。
蛇足ながら、「落喗(らっき)」とは、沈む太陽、落日のことです。
5.天皇陛下万歳と叫んで死んで行った兵士はいたのか?
本題とは無関係ですが、太平洋戦争中に海軍陸戦隊で海南島守備に従事した父から私が聞いた話では、命を落とした兵士の最後の言葉は、愛する母親や妻子の名前で、「天皇陛下万歳」と言った者はいないそうです。
陸軍で中国東北部(満州)において戦った別の年配者に聞いた話でも、突撃する時なども恋人か奥さんの名前を叫んでいたそうです。やはり愛する人に守ってほしいという気持ちの表れではないかと思います。
そういうわけで、「天皇陛下万歳」というのは「建前上の言葉」に過ぎなかったのではないかと私は思います。ただそういう大義名分のもとに、あたら若い命を落とした日本人が多くいたことは厳然たる事実です。