前に与謝野晶子の記事を書きましたが、彼女の活躍に比べて夫の与謝野鉄幹は影が薄いように思います。
しかし与謝野晶子をあれほど夢中にさせた与謝野鉄幹とはどのような人物だったのでしょうか?
そこで今回は、与謝野鉄幹の生涯を辿ってみたいと思います。
1.与謝野鉄幹とは
与謝野鉄幹(1873年~1935年)は、京都生まれの歌人・詩人で、本名は「寛(ひろし)」です。与謝野晶子の夫で、後に慶応義塾大学教授、文化学院学監を務めました。
(1)生い立ちと幼少時代
彼は西本願寺支院・願成寺の僧侶である与謝野礼厳の四男として生まれました。幼くして仏典・漢籍・国書を学び、早くから天才児と謳われたそうです。
1883年に大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となりました。1889年に西本願寺で得度した後、山口県徳山町の兄・赤松照幢の寺に赴き、その経営になる徳山女学校の教員となっています。
寺の布教機関誌「山口県積善会雑誌」の編集も行い、1890年に初めて「鉄幹」の号を用いています。
(2)教え子の女生徒と問題を起こして女学校を辞職
徳山女学校では国語の教師を勤めました。しかし、二人の女生徒(浅田信子と林滝野)との間に子供が生まれるなどの問題を起こしたため、1892年に辞職して京都に帰っています。
(3)落合直文の門下に入り「ますらおぶり」の和歌を発表
1892年11月に上京して、歌人・国文学者で短歌結社「浅香社」を主宰した落合直文(1861年~1903年)に師事しています。
1894年には短歌論「亡国の音ー現代の非丈夫的和歌を罵る」を発表し、1896年には出版社「明治書院」の編集長になりました。
また跡見女学校で教鞭を執るかたわら、歌集「東西南北」「天地玄黄」を出しています。彼の悲憤慷慨型の質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれました。
(4)「明星」の創刊
1899年に「東京新詩社」を創立しましたが、同年秋に最初の妻である浅田信子(徳山女学校時代の女生徒)と別れ、林滝野(徳山女学校時代のもう一人の女生徒)と同棲しています。
1900年には「明星」を創刊して、北原白秋・吉井勇・石川啄木などを見い出し、浪漫主義文学運動の中心的役割を果たしました。
(5)与謝野晶子と不倫と結婚
しかし、当時無名歌人だった鳳晶子(後の与謝野晶子)との不倫が問題視されるようになります。
「文壇照魔鏡」という怪文書でさまざまな誹謗中傷が仕立て上げられましたが、晶子の類まれな才能を見抜いた彼は、晶子の歌集「みだれ髪」をプロデュースし、二番目の妻・林滝野と別れることにします。
1901年には晶子と再婚し、六男六女の子宝に恵まれました。
(6)妻の晶子の名声の高まりと「明星」の廃刊
1901年に刊行した「みだれ髪」の評判は高く、妻の晶子は「明星」の象徴的存在となり、この歌集は「明星」隆盛のきっかけとなりました。
後進にも恵まれ好調に見えた「明星」でしたが、木下杢太郎・北原白秋・吉井勇らが脱退し、1908年に「明星」は100号をもって廃刊に追い込まれました。
(7)極度の不振に陥り欧州旅行に出るも、再起に失敗
その後の彼は極度の不振に陥り、歌集の売れ行きも減る一方でした。1911年、夫の心機一転を促すための晶子の計らいでパリに行くことになります。後に晶子も渡仏し、夫妻でパリからロンドン・ウィーン・ベルリンを歴訪しています。
しかし、創作活動が盛んになったのは晶子の方で、彼は依然として不振を極め、再起を賭けた訳詞集「リラの花」も失敗に終わるなど、栄光に包まれた妻の陰で苦悩に喘ぎました。
(8)総選挙に出馬するも落選
政治の世界で再起を期そうとしたのか、1915年の総選挙に、生まれ故郷の京都選挙区から無所属で出馬しました。しかしあえなく落選しています。
(9)慶應義塾大学文学部教授となる
1918年に慶應義塾大学文学部教授に就任し、1932まで勤めました。水上滝太郎・佐藤春夫・堀口大学・三木露風・小島政二郎らを育てました。
1921年には、建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、妻の晶子とともに、お茶の水駿河台に文化学院を創設しました。
(10)第二次「明星」の創刊と廃刊
1921年に第二次「明星」を創刊して「日本語原考」などを発表しましたが、1922年に有力な庇護者であった森鴎外が亡くなったことで大きな打撃を受けました。
そして1927年には再び「廃刊」を余儀なくされました。
(11)毎日新聞が公募した「爆弾三勇士の歌」に一等入選
1932年、第一次上海事変に取材した「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募に応じ、一等入選を果たしています。
なお、この歌は「センバツ」こと選抜高等学校野球大会の入場曲にも使われたそうです。
余談ですが、類似の歌として朝日新聞が公募した「肉弾三勇士の歌」があります。現在左派系の主張が目立つ朝日新聞ですが、戦時中の姿勢がよく現れています。
2.人を恋ふる歌
この歌の書生風の熱情は青春の憂愁や悲哀に通じ、旧制高校生にも寮歌に準じる歌として愛好されたようです。
私は中学の時、大正生まれの国語の先生が、「若い頃は鉄幹の『妻をめとらば』を放歌高吟していた」と話し、実際に歌を披露したのがとても印象に残っています。
1901年に詩歌集「鉄幹子」に発表した「人を恋ふる歌」とは次のようなものです。
(1)妻をめとらば 才たけて 顔美(みめうる)わしく なさけある 友をえらばば 書を読みて 六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分(しぶ)の熱
(2)恋のいのちを たづぬれば 名を惜しむかな をとこゆゑ 友のなさけを たづぬれば 義のあるところ 火をも踏む
(3)花の乙女に 恋すとも 色に迷うと 言う勿れ 若き男児の 胸に咲く 唐紅(からくれない)の 色に満つ
(4)くめやうま酒 うたひめに をとめの知らぬ意気地あり 簿記の筆とる わかものに まことのをのこ 君を見る
(5)あゝわれコレッヂの 奇才なく バイロン、ハイネの熱なきも 石をいだきて 野にうたふ 芭蕉のさびを よろこばず
(6)人やわらはん 業平(なりひら)が 小野の山ざと 雪をわけ 夢かと泣きて 歯がみせし 昔を慕ふ むらごころ
(7)見よ西北(にしきた)に バルカンの それにも似たる 国のさま あやふからずや 雲裂けて 天火一度(てんかひとたび) 降らん時
(8)妻子(つまこ)を忘れ 家をすて 義のため恥を しのぶとや 遠くのがれて 腕を摩 す ガリバルヂィや 今いかん
(9)玉をかざれる 大官は みな北道の 訛音(なまり)あり 慷慨よく飲む 三南の 健児は散じて 影もなし
(10)四たび玄界の 浪をこえ 韓(から)にみやこに 来てみれば 秋の日かなし 王城や むかしにかはる 雲の色
(11)あゝわれ如何に ふところの 劍(つるぎ)は鳴(なり)を しのぶとも むせぶ涙を 手にうけて かなしき歌の無からんや
(12)わが歌ごゑの 高ければ 酒に狂ふと 人は云へ われに過ぎたる 希望(のぞみ)をば 君ならではた 誰か知る
(13)あやまらずやは 眞ごころを 君が詩いたく あらはなる むねんなるかな 燃ゆる血の 價(あたひ)すくなき すゑの世や
(14)おのづからなる 天地(あめつち)を 恋ふるなさけは 洩らすとも 人を罵り 世をいかる はげしき歌を 秘めよかし
(15)口を開けば 嫉(そね)みあり 筆をにぎれば 譏(そし)りあり 友を諫めに 泣かせても 猶ゆくべきや 絞首台
(16)おなじ憂ひの 世にすめば 千里の空も 一つ家 おのが袂と 云ふなかれ やがて二人の なみだぞや
(17)はるばる寄せし ますらをの うれしき文(ふみ)を 袖にして けふ北漢の 山のうへ 駒たてて見る 日の出づる方(かた)
3.爆弾三勇士の歌
一、
廟行鎮(びょうこうちん)の敵の陣
我の友隊(ゆうたい)すでに攻む
折から凍る如月(きさらぎ)の
二十二日の午前五時二、
命令下る正面に
開け歩兵の突撃路
待ちかねたりと工兵の
誰か後(おくれ)をとるべきや三、
中にも進む一組の
江下 北川 作江たち
凛たる心かねてより
思うことこそ一つなれ四、
我等が上に戴(いただ)くは
天皇陛下の大御稜威(おおみいつ)
後に負うは国民の
意志に代われる重き任(にん)五、
いざ此の時ぞ堂々と
父祖の歴史に鍛えたる
鉄より剛(かた)き「忠勇」の
日本男子を顕(あらわ)すは六、
大地を蹴りて走り行く
顔に決死の微笑あり
他の戦友に遺(のこ)せるも
軽(かろ)く「さらば」と唯一語七、
時なきままに点火して
抱(いだ)き合いたる破壊筒(はかいとう)
鉄条網に到り着き
我が身もろとも前に投ぐ八、
轟然おこる爆音に
やがて開ける突撃路
今わが隊は荒海の
潮(うしお)の如く躍り入る九、
ああ江南の梅ならで
裂けて散る身を花と成し
仁義の軍に捧げたる
国の精華の三勇士十、
忠魂清き香を伝え
長く天下を励ましむ
壮烈無比の三勇士
光る名誉の三勇士