「正露丸」と言えば「ラッパのマークの大幸薬品の正露丸」が有名ですが、私が子供の頃は別の会社の「正露丸」を飲んでいました。富士薬品かキョクトウというメーカーの正露丸だったのかもしれません。しかも当時は「糖衣錠」はなく、「丸薬」だけでしたので、あの独特の嫌な臭いには閉口しました。
ところで、私は中学生の時、理科の先生から「正露丸はコールタールと同じ原料で出来ている。君たちはそれを飲んでいるんだよ」と聞かされて、最初はびっくりしました。
しかし「下痢止めの薬だから便が固まるようにする原料を使うのか」と妙に納得した記憶があります。
1.「正露丸」名前の由来
<1930年代の征露丸の広告、大日本帝国陸軍の演習風景写真を用いている>
ラッパのマークでおなじみの「正露丸」ですが、実は100年以上もの歴史があることをご存知でしょうか?
大阪の薬商であった中島佐一氏が、大阪府より「忠勇征露丸」の売薬免許を取得したのが1902年のことです。当時は「正露丸」ではなく、「征露丸」という名称でした。「勇んでロシアを征伐する」という意味が込められていたのでしょう。「ラッパのマーク」は進軍ラッパだったのですね。
日本の歴史の中で「正露丸」が最初に活躍したのは、日露戦争(1904年~1905年)の時です。戦地ではまともな飲み水を確保することは難しいため、日清戦争(1894年~1895年)の時は不衛生な水を水を飲むことによって多くの兵隊が下痢をしました。
そこで日露戦争時には、征露丸を全軍人に配布したそうです。つまり元々は「家庭用」の胃腸薬ではなく、「軍用」の胃腸薬として開発された薬品だったのです。
太平洋戦争終結後の1949年、ロシアを征するという意味の名称は国際関係上、好ましくないことから「正露丸」の名称に改められました。
当時は、一般家庭でも食生活や食環境が悪く、下痢や食あたりが多かったようです。そこでこれらの症状に効く伝統薬として、「正露丸」は「家庭用の常備薬」として多くの方々に愛用されるようになりました。
現在では、食生活・食環境は良好になりましたが、腸内の水分バランスが乱れて下痢をする人や、精神的ストレスにより下痢をする人が増えています。
2.「正露丸」の歴史
「正露丸」の成り立ちは、1830年にドイツ人化学者カール・ライヘンバッハ(1788年~1869年)が、ヨーロッパブナの木から木クレオソートを蒸留したことが起源となります。
当初は化膿傷の治療に用いられ、後に防腐剤として食肉の保存などに使用され、更に殺菌効果を期待して胃腸疾患に内服されるようになりました。
日本には1839年長崎のオランダ商館長ニーマンにより持ち込まれ、1856年刊の薬物書には木クレオソートを「結麗阿曹多(ケレヲソート)」と記した記載が見られます。また、1866年刊の『新薬百品考』には、結麗阿曹多の製法、効能、用法が簡潔に記載されています。
1902年、大阪の薬商中島佐一薬房は「忠勇征露丸」の売薬免許を取得し、木クレオソート丸剤に「忠勇征露丸」という商品名を付けました。
一方、日清戦争において不衛生な水源による伝染病に悩まされた大日本帝国陸軍は、感染症の対策に取り組んでいました。
陸軍軍医学校の教官であった戸塚機知三等軍医正は、1903年にクレオソート剤がチフス菌に対する著しい抑制効果を持つことを発見しました。
征露丸は1903年に陸軍軍医学校の戸塚機知と白岩六郎の研究によって生み出された「クレオソート丸」という薬が元になっています。
また『水沢市史』によると、水沢藩家老の養子で姫路第十師団軍医部長として従軍していた中目成一が、奉天会戦中に下痢に悩まされていた兵士達にクレオソート丸の服用を命じ、その効果を満州軍総司令部に意見具申したそうです。
これが作戦会議で認められ、大山の命令によって全軍でクレオソート丸の服用が行われました。ちなみに、1901年の陸軍医学雑誌ではクレオソート丸と記載されていましたが、『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』によると「戦役ノ初メヨリ諸種ノ便宜上結列阿曹篤ヲ丸トシテ之ヲ征露丸ト名ケ出世者全部ニ支給シテ(以下略)」服用を命じた記録が残っており、従来の「クレオソート丸」を「征露丸」と名づけ、使用していたことが窺えます。
日露戦争後にクレオソート丸に名称が戻るまで4年間のみ「征露丸」として広く軍医の間で使用されたわけです。「征露」という言葉はロシアを征伐するという意味で、その当時の流行語でもありました。
しかし、まだ予防的投薬という概念も一般には浸透していない時代のことであり、特異な臭気を放つ得体の知れない丸薬は敬遠されて、なかなか指示通りには飲んでもらうことができませんでした。
そこで軍首脳部は一計を案じ、その服薬を「陛下ノゴ希望ニヨリ」と明治天皇の名を借りて奨励することとしました。この機転によって、コンプライアンスは著しく向上し、下痢や腹痛により戦線を離脱する兵士は激減したといわれます。
しかし、当然のことながら軍医の期待した、脚気に対する効果は一向に表れませんでした。戦意高揚を重視してビタミンに欠ける白米中心の美食(当時としては)にこだわった陸軍は、日露戦争においても全将兵のおよそ3人に1人に相当する25万人が脚気に倒れ、27,800人が死亡しました。
余談ですが、陸軍での脚気の多発の原因は、陸軍軍医だった森鴎外の誤った判断によるものです。これについては「森鴎外の黒歴史。『脚気の原因は細菌』と主張し、陸軍に脚気惨害もたらした!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
一方で海軍は、早くから脚気が栄養障害に起因する疾患であると見抜き糧食にパンや麦飯を採用し、脚気による戦病死者を1人も出していません(当時はビタミンBが未発見であり、世界に先駆けて脚気の栄養不足説を裏付ける結果となりました)。
このように、脚気に対してはまったく無力であったものの、征露丸の止瀉作用や歯髄鎮静効果は、帰還した軍人たちの体験談として多少の誇張も交えて伝えられました。また、戦勝ムードの中で命名の妙も手伝い、「ロシアを倒した万能薬」は多くのメーカーから競い合うように製造販売され、日本独自の国民薬として普及していきました。
また、その優れた薬効は戦前の日本勢力圏においては広く知れ渡っています。現在もなお台湾や中国などアジア諸国からの観光客の土産物として珍重されているそうです。
軍の装備品としての配給は、日露戦争終結後の1906年に廃止されましたが、その後も継続して常備薬として利用されてきました。
2007年には、自衛隊の国際連合ネパール支援団派遣時の装備品として大幸薬品のセイロガン糖衣Aが採用されています。装備品として復活するのは101年ぶりのことです。
第二次世界大戦終結後の1946年、忠勇征露丸の製造・販売が大幸薬品に引き継がれ、1949年、国際信義上「征」の字を使うことには好ましくないとの行政指導があり、「正露丸」と改められました。この際、「忠勇征露丸」も「中島正露丸」に名称変更しています。
3.「正露丸」という商品名で複数のメーカーが製造・販売している理由
「正露丸」を購入しようとしたら種類が多くて困ったことはありませんか?
同じメーカーがシリーズで出しているならわかりますが、メーカーすらも違うのですから不思議ですよね。
その理由は、「正露丸」(もしくは「セイロガン糖衣A」)は大幸薬品の「登録商標」(*)ですが、裁判で「普通名称化」したことが認められたからで、他社からも同様の製品(類似品)が多く販売されています。
(*)「正露丸」の商標権について
日露戦争前から存在する「正露丸」の名称について、1954年に大幸薬品が商標登録を申請し、一度は登録されましたが、その後、すでに普通名称化しているとして「商標権無効」の判決が1974年と2008年の二度にわたって最高裁であり、確定しました。
4.「正露丸」の原料
「正露丸」は、日局木クレオソート(別名日局クレオソート)を主成分とした胃腸薬(止瀉薬)で、「第2類医薬品」です。旧称は「忠勇征露丸」または「征露丸」。
「正露丸」は、腸内の水分調整と異常発酵を抑える効果のある「木クレオソート」を主成分として、胃腸の働きに有効な生薬のゲンノショウコ末、オウバク末、カンゾウ末、チンピ末などを配合しています。なお配合は、メーカーによって多少の差異があります。
さらに鎮痛鎮痙作用のあるロートエキスも配合されており、一般的な下痢をはじめ、腹痛を伴う下痢に有効な丸剤です。
また、むし歯痛のときに、「正露丸」を1粒むし歯に詰めると、痛みを和らげる効果もあります。
ちなみに「コールタール」と「クレオソート」との違いは次の通りです。
石炭酸を乾留して得られる黒色高粘度の液体がコールタールで、コールタールの230~270℃の留出分をクレオソート(油)といいます。成分的には似ていますが、下の表のような違いがあります。