皆さんは斎藤秀三郎という人物をご存知でしょうか?
実は私もつい最近まで知りませんでしたが、英米文学翻訳家の柳瀬尚紀(やなせなおき)氏(1943年~ )の著書『ことばと遊ぶ、言葉を学ぶ 日本語・英語・中学校特別授業』に「高校時代に斎藤秀三郎の『熟語本位 英和中辭典』を読みふけった」と書かれているを読んで興味を持ちました。
1.引くだけでなく読むための辞書
柳瀬尚紀氏は『辞書はジョイスフル』(1994年TBSブリタニカ、1996年新潮文庫)という本で、斎藤秀三郎の『熟語本位 英和中辭典』を読む楽しみを語っています。
私は前に「国語辞典を読む楽しみ」や「英英辞典を読む楽しみは国語辞典を読む楽しみに通じる」という記事を書きましたが、柳瀬氏の考えに通じるものがあるように感じます。
少し長い文章ですが、一部引用させていただきます。
斎藤秀三郎著、熟語本位 英和中辞典(岩波書店)。筆者にとって、これは英語の恩師だ。英語はもっぱらこの辞書から学んだ。
おそらく今日の高校生や大学受験生のほとんどは、受験指導のプロに受験英語を仕込まれているだろうから、筆者のごとき門外漢が口出しをする必要はないかもしれない。しかしたんに受験技術としてでなく、本気で英語を理解するつもりがあるのなら、この辞書を勧める。とくに地方に住んでいて、受験プロの指導を受ける機会に恵まれない受験生には、筆者自身の体験から責任をもって勧めたい。
そしてまた、幸い受験勉強をかいくぐった大学生で、もし本気で英語を読めるようになりたいという読者がいれば、やはりこの辞書の熟読を勧める。
あるいはまた、幸い入社試験をかいくぐった若い社会人で、もし本気で英語を読めるようになりたいという読者がいれば、やはりこの辞書の熟読を勧めたい。
これは、それほどすごい英和辞典なのだ。
「辞書は引くものでもあり、読むものでもある」と語る人は、案外多いようです。『そして、僕はOEDを読んだ』のアモン・シェイ氏、『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』などの独特な翻訳を手掛けた柳瀬尚紀氏、三省堂で長きにわたって辞書作りをした鵜澤伸雄氏など、皆さん自分の著作の冒頭で「辞書を読む」楽しみを書き記しています。
柳瀬氏は『辞書はジョイスフル』『辞書を読む愉楽』と、タイトルがそのものが「辞書を読み楽しむ」本もあります。
ただし、『辞書はジョイスフル』の「ジョイスフル」は「ジョイフル(joyful)」(楽しい)と「ジョイス」を掛けたタイトルのようです。
ジョイスとは、『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』の著者であるアイルランド出身の小説家・詩人のジェイムズ・ジョイス(James Joyce)(1882年~1941年)のことです。
2.斎藤秀三郎とは
斎藤秀三郎(さいとう ひでさぶろう)(1866年~ 1929年)は、明治・大正時代の英語教育者です。仙台藩士で運上方の斎藤永頼の長男で、父の手ほどきで英語を学びました。
1871年(5歳)、辛未館(仙台藩の英学校)に入学し、横尾東作に英語を学びました。
1874年(8歳)、宮城英語学校に入学し、米国人教師C.L.グールドに英語を学んでいます。
1879年(13歳)、宮城英語学校を卒業し、上京して東京大学予備門に入学しました。
1880年(14歳)、工部大学校に入学し、純粋化学、造船を専攻しました。後に夏目漱石の師となるスコットランド人教師ディクソン (James Main Dixon) (1856年~1933年)に英語を学び、強い感化を受けました。
後々までイディオム(熟語、慣用句)の研究(English Idiomology:英語慣用語学)を続けたのはディクソンの影響だったと後年述べています。また、「図書館の英書は全て読み、大英百科事典は2度読んだ」という逸話が残っています。
1883年(17歳)、工部大学校を退学しています。
1884年(18歳)、『スウヰントン氏英語学新式例題解引』(十字屋・日進堂)を全ページ英文で執筆して出版。その後、仙台に戻り、英語塾を開設しています。
1885年(19歳)、来日したアメリカ人宣教師W・E・ホーイの通訳を務めています。
1887年(21歳)、旧制二高助教授となっています。
1889年(23歳)に岐阜中学、1892年に長崎鎮西学院・名古屋一中で教え、1893年に旧制一高教授となりました。
1896年(30歳)、神田錦町に「正則英語学校」(現在の正則学園高等学校)を創立して校長となり、以後、亡くなるまでここを本拠として、英語の文法書、読本の註解書、和英・英和辞書の編纂など精力的に英語の教育・研究に従事しました。
その作文練習問題や和英辞典の用例には自伝的要素が濃厚です。
1897年(31歳)、旧制一高教授を辞任しています。
1904年(38歳)、東京帝国大学文科大学講師となっています。
夏目漱石も1903年に英国留学から帰国し、旧制一高と東京帝国大学講師となっていますので、同時期に東大で教鞭を執っていたことになります。
1906年(40歳)、東京都麹区五番町2番地(現:千代田区一番町2)の英国大使館脇の千坪ほどの敷地をもつ宏壮な邸宅に移り住みます。
1896年に神田錦町に創立した正則英語学校は、当時その生徒が神田の町に群れをなしたというほど隆盛を極め、さらに彼が著した英語書は『実用英文典』をはじめ200册にもおよび、多大な印税をもたらしました。
『実用英文典』は現行の学校英文法の基盤となり、『熟語本位 英和中辞典』が英語学界に与えた利益は計り知れません。
彼の生徒の中には、吉野作造(仙台の英語塾に参加したが、あまりの短気に恐れをなして一日で辞めてしまった)や、市河三喜、高柳賢三(「英語青年」に当時の回想があります)、松田福松、田中菊雄、紀太藤一などがいます。
また、そのユニークな解説と血の通った訳語を求める姿勢は日本の英語教育に大きな影響を与えており、詩人土井晩翠がバイロンを翻訳したのは彼の影響です。
彼が異色なのは、上の年譜を見てもわかるように、「日本語による教育を一切受けておらず、全て英語による教育であった」ことです。また、それを受け入れ、熱心に英語の研究に励んだ「語学の天才でもあった」ことです。
彼と同年代の夏目漱石(1867年~1916年)が、1881年に漢学私塾「二松学舎」に入学して漢学を学び、1883年には英学塾「成立学舎」に入学して英語を学んだのと対照的です。
また彼は夏目漱石と違って「留学経験は皆無」ですが、ネイティブの英米人教師から生きた英語を学んでいました。
ただし漱石も「お雇い外国人教師」のスコットランド人教師ディクソンから英語を学んでいます。1892年、帝国大学英文科の特待生に選ばれ、ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などをしています。
彼の次男・斎藤秀雄(1902年~1974年)は、チェロ奏者・指揮者・音楽教育家で、戦後は東京家政学院の教室を借りて「子どものための音楽教室」を開講し、その延長が現在の桐朋音楽大学となりました。小澤征爾氏など多数の世界的な演奏家を育てたことはあまりにも有名です。
彼の長女・斎藤ふみはお茶水高等女学校卒業後、幣原喜重郎外務大臣秘書官の岸倉松と結婚、五女の敦子は聖心女子学院卒業後、渋沢栄一の孫・渋沢信雄と結婚しています。三女のミドリ(のち平野姓)はボストンで公衆衛生看護を学び、1927年に聖路加病院に公衆衛生看護部を発足させています。次女・そのは無教会伝道者の塚本虎二と結婚しています。
また彼の妹・斎藤冬子は、アメリカ人宣教師で校長の一方的な教育方針に反発し、日本初の女子校内ストライキ「宮城女学校ストライキ事件」の首謀者として学校側から退学を命じられ、事件後に明治女学校へ転校しました。
冬子は、明治女学校の生徒の時、教師だった北村透谷と白熱の講議が繰り広げられたということです。透谷が自死した年に、胸を病んでいた冬子も後を追うように亡くなりましたが、懐には透谷からの手紙が忍ばせてあったということです。
3.斎藤秀三郎のエピソード
彼にはその人間的魅力伝えるエピソードが幾つもあります。
有名なものとしては、頑固一徹、自ら恃むところ篤い性格で、大正年間のある時酔って帝劇に行き、日本公演中の「シェークスピア劇団」の俳優の発音が間違っているのを見て「お前らの英語はなっちゃいねぇ!」とロンドン訛りの英語で野次を飛ばし、係員から退去を要請されたという逸話があります。
また、岐阜中学時代、英語教員の資格試験が実施された際、当時の校長から受験を求められたことに対し、「誰が私を試験するのですか」と言って辞職したというエピソードや、自らの学校に外国人教員を採用する際、自らが試験官となって採否を決めた、というエピソードは、斎藤の自らの英語能力に対する自信が窺えます。
他にも、学生の訳を見ては「ばか!なんだその訳は!」と始終怒鳴りつけていたり、「俺の研究は戦争だ」と語り壁と天井一面にラテン語文法を墨書した新聞紙を貼り付けて寝ても覚めても暗記に努めたというものがあります。
なお、彼は努力の人であり、勉強の人であったようで、上記のエピソードは、全て彼の勉強に裏付けられた自信の現れでもあります。
彼の著作には、彼自身のエピソードがふんだんに織り込まれており、彼の著作(辞書や文法書の例文等)を読むことにより、彼の人となりを知ることができます。
例えば、斎藤和英大辞典の「犠牲」の項目には、”I learned my English at the expense of my Japanese”(自国語を犠牲にして英語を学んだ)という用例があります。
これは、略歴の通り、彼は英語で教育を受けており、漢学等通常の日本語教育を受けてこなかったことの告白です。
実際、彼は両親あての手紙を英語で書き、それを受け取った父親は辞書を引きながら息子の手紙を読んだ、という逸話があります。