「端倪すべからず」「端倪すべからざる」の語源にまつわる面白い話

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端倪すべからず

1.「端倪(たんげい)すべからず」とは

この言葉は、「初めから終わりまでを安易に推し量るべきではない」「推測が及ばない」「計り知れない」という意味です。

「彼は一見すると地味な男であるが、端倪すべからざる人物である」などと使います。これは、「表向きは取り立てて目立つところのない男だが、だからと言って簡単に侮ってはならない人物である」という意味です。

「端倪すべからざる人物」とは、「侮れない人物、計り知れない人物、只者ではない人物、底知れない人物」といった意味です。

2.「端倪」の語源

「端倪」は、「物事の初めと終わり」を意味し、「全体を把握・推測すること」をも意味する表現です。

「端倪」の「端」は「山のいただき」や「いとぐち」のことで、「倪」は「水のほとり」や「端っこ」のことです。したがって、「端倪」とは「物事の本末終始」のことです。

この言葉は「荘子」にある「反覆終始、端倪を知らず」に初めて出て来ます。

3.十八史略に見える「その端倪を知る者なし」の話

唐の第9代徳宗の太子「誦(しょう)」(後の第10代順宗)のもとに、「翰林学士(かんりんがくし)」候補の「王(おうひ)」と「王叔父(おうしゅくふ)」の二人が出入りを許されていました。

は書に優れ、叔父は囲碁が上手なことから、太子の相手役を勤めていましたが、相手が次代の皇帝となる太子だけに、話が政治向きのことになると、「誰某は宰相の器だ」とか「何某は大将に適任だ」とかさまざまに取り沙汰しました。

これはあらかじめ太子に印象づけておいて、即位の暁には一人でも多く自らの派閥の人物を登用させ、勢力を得ようとしたものです。

二人は同時に、ひそかに翰林学士の「韋執誼(いしつぎ)」や、功を急ぐ連中とも結んで天下経営の下準備を始めました。

その中には「柳宗元(りゅうそうげん)」のように後世に名を残した者もいましたが、当時はいずれも年少気鋭、功名にはやる者ばかりでした。万一の場合は、お互いのためには死をも辞さないという固い盟約のもとに行動を共にしました。

しかし、一般の人々に対しては全てを秘密にしていたため、世間の人々は彼らが何を企み、どう動いているのかさっぱりわからない有様でした。(その端倪を知る者なし

やがて徳宗が亡くなり順宗が帝位に就きました。彼らが朝廷にあって羽振りをきかせるようになったことは言うまでもありません。

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