下賤の身から天下人にまで出世した、日本史上最強の成り上がり――豊臣秀吉。
大の女好きでもある秀吉、最大の不幸は子供に恵まれなかったことでしょう。
片っ端から色んな女性に手を出しながら、「秀吉を父とする子」を産んだのは、晩年に側室になった淀殿ただ一人です。
現代の医療なら、男性側の生殖能力に問題があると判断して、海外では精子をもらって体外受精したりすることもあるケースです。日本でも、戦後慶応大学医学部の学生などが、匿名を条件に精子提供して生まれた子供がいると聞いたことがあります。
歴史学者で九大名誉教授の服部英雄(1949年~ )は、その著書『河原ノ者・非人・秀吉』(2012年刊、山川出版社。第66回毎日出版文化賞受賞)でこう断言しています。
長男の鶴松はもちろんのこと、次男・豊臣秀頼の父親も秀吉ではない――。
最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。
正確な数はともかくとして、秀吉が常人に比すれば、はるかに多くの女性と愛し合うことができたことは間違いない。
けれど、こうした環境にもかかわらず、秀吉は一人の子も授からなかった。
この二人の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。秘密があるとみるべきだろう。
当時から、このような噂はあったようで、今までにさまざまな説が唱えられています。
そこで今回は、「秀頼の本当の父親は誰か?」についてわかりやすくご紹介したいと思います。
余談ですが、江戸時代の将軍で、正室・継室や側室の数でトップはやはり初代将軍・徳川家康(1543年~1616年)で、合計22人以上いたと言われています。
二番目に多いのが「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍・徳川家斉(いえなり)で、正室・継室や側室が合計17人以上いたということです。ただし40人以上いたという説もあります。
現代の価値観では、戦国武将達が多くの側室を持っていたことに、ひどく嫌悪感を抱く人も多くいることでしょう。しかし、明日をも知れぬ戦乱の世で、御家を存続させるため、多くの子を儲ける必要があり、ひとりの女性だけでは限界があるので、仕方のないことでもありました。
1.「秀頼の本当の父親は誰か」と疑問を持たれる理由
(1)秀吉が高齢で小男あった上、受胎日に秀吉は淀殿と一緒にいなかった可能性が高いこと
・秀頼(1593年~1615年)が生まれた時期は、秀吉(1537年~1598年)が57歳の時であり高齢であったこと
・秀吉が小男(約140㎝)であったのに対し、秀頼は身長が六尺五寸(約197㎝)で、体重が四十三貫(約161㎏)の並外れた巨漢であったと言われ、体格が違い過ぎたこと
・史料から受胎日とされる日には、秀吉は朝鮮出兵のための拠点である肥前国・名護屋城におり、淀殿と一緒にいなかった可能性が高いこと
(2)実際に秀吉の子を生んだのは淀殿だけ
秀吉には、数多くの側室がいました。しかし、実際に子供を産んだのは浅井三姉妹(*)の長女・淀殿だけです。
過去に他の男性との間に子供を産んだ女性も側室となっていますが、彼女らにはその後、秀吉との間に子を宿した形跡はありません。
また、秀吉との離別後、別の男性との間に子供を授かった女性もいます。
淀殿との間にだけ子供が生まれるというのは極めて不自然です。
となると湧いてくるのは、「豊臣家の跡取りであり、淀殿の息子でもある秀頼は、一体誰の子なのか?」という疑問です。
(*)浅井三姉妹=浅井長政とお市の方の間に生まれた三人の娘(次女の初は京極高次に、三女の江は徳川秀忠に嫁いでいます)
(3)「家」の維持を重んじて行われた公認の浮気
かつての日本では、こうしたケースは決して稀ではなく、その際にはイベントで各家の子宝を分けあっていました。
舞台は夜祭です。「家」の維持が大事だった昔は、祭りなどで体外受精の場を求めたのです。
いってみればダンナ公認で、浮気してしまうというわけです。神社や寺のお祭りなので、神様仏様、つまり社会の公認でもありました。
その際に、重要なのは、驚くべきことに複数と交わることでした。
再び歴史学者の服部英雄九大名誉教授の『河原ノ者・非人・秀吉』から引用します。
秀吉自身がかかわり、秀吉が命令して、生物学的には秀吉の子ではない子を、茶々に産ませた。それならば不義でも密通でもない。断罪もされない。
子ができない夫婦に、どのようにして子ができるのか。
民俗事例でいえば参籠(さんろう)がある。
参籠の場がしばしば男女交情の場になったと指摘している。
どうしても子に恵まれない夫婦にも、いよいよのときは子が授かる仕組み・可能性が民間につくられていた。
通夜参籠と同じ装置が設定された。聚楽城または大坂城の城内持仏堂が参籠堂となったか。宗教者が関与したと想定する。
宗教的陶酔をつくり出すプロは僧侶ないし陰陽師だった。(服部前掲書)
なぜ複数と交わるのかというと、それは後のトラブルを回避するためでした。
父親が特定の誰かと分かってしまうと、後に「◯◯は私の子供だ」あるいは「◯◯はアイツの子供だから私に養育義務はない」などと問題になってしまいます。
そのため「複数の無名の男性」が対象になったのです。
淀殿は、こうしたイベントにより、二度、(表向きは)秀吉の子を産むことになります。
(4)「朝鮮出兵」の時、淀殿が秀吉に内緒で2回目の「祈祷」を行う
「鶴松」が生まれた時の1回目の「祈祷」は、秀吉公認でした。
城内のお堂で、たくさんの男たちと淀殿がナゾの祈祷をしており、そこが受胎の場だと考えられています。
この時、生まれた男の子「鶴松」は夭折してしまいます。秀吉は、これでもう実子は諦めて、養子を育てようと決めました。そのため、弟の秀次を養子にしたのです。
ところが、朝鮮出兵のため九州へ行っているうちに、淀殿は勝手に2回目の「祈祷」をしてしまい、またもや懐妊してしまったのです。
これにはさすがの秀吉もキレて、彼女に辛辣な手紙を送りつけました。
「おめでとう(棒読み)。お前の乳で育てなさい」
これのどこがキレているのでしょうか?
昔、地位の高い女性は、自身の母乳で育てることは一切せず、他人(乳母)に任せていました。母乳で育てるのは、身分の低い人間のすることでした。
実際、彼女が1人目の「鶴松」をを産んだときは、母乳で育てるどころか、手元から子供を取られ、直接、育てる願いも叶いませんでした。
そのため、自身の母乳をあげるということは、淀殿にとっては、つらいお仕置きとなる――ハズだったのですが……。
(5)2回目の「祈祷」の関係者30人は処刑され、陰陽師は追放された
これが思わぬ方向に転がっていきます。
彼女は自分の乳をあげて育てているうちに、異常な愛情が芽生えてしまい「秀頼を完全なマザコンへと育ててしまった」というのです。
そして、母子は子離れ・親離れできず、時勢も読めない最悪の組み合わせになってしまいます。
徳川家康との事前の折衝で、豊臣家が存続するチャンスは何度もありましたが、ついにそうはならず母子ともども滅亡への道を突き進んでしまったのでした。
ちなみに、秀頼の実父はどうなったのでしょうか?
秀吉留守中に起きた不祥事に関して、唱門師(陰陽師)が追放された。
これがこの先、数年に及ぶ唱門師大弾圧の始まりである。
唱門師はシャーマンとして心理を操り、トランス状態を招くことができ、霊的処術が可能だった。いかがわしい魔術もあったかもしれない。
(粛清された)女たちは大坂城内の全員ではない。「若公ノ御袋家中女房衆」すなわち淀殿周辺にいる女房らだと明記している。
唱門師追放の翌日からは淀殿付き女房の処刑が開始された。(服部前掲書)
淀殿の懐妊後、秀吉は、彼女の側近の女房や2回目の「祈祷」にかかわったとみられる僧侶や陰陽師ら合計30人を徹底的に殺戮しました。この時、おそらく秀頼の「生物学的な父親」も殺されたのでしょう。
一晩(あるいは数晩?)の営みのために、この世から消されてしまったのです。
秀吉は秀頼が自分の子でないことはわかっていたと思いますが、織田家の血筋の淀殿の子であることは間違いなく、豊臣家の存続のために秀頼を自分の子として世間に示し、織田家の血筋の秀頼を自分の後継者として天下を治める方が有利だと判断したのでしょう。
そのため、処分は真相を口外する恐れのあるこの件に関わった僧侶・陰陽師ならびに淀殿付きの女房たち30人を処刑するだけにとどめ、淀殿への処罰はしなかったのではないかと私は思います。
淀殿を処罰すれば、身内の恥を晒すだけだからです。
秀吉の身内である甥の秀次を後継者にするよりも、元の主家である織田家の血筋の秀頼を後継者にするほうが好都合だと秀吉が判断した結果、秀次の不行状や謀反の疑いなどを理由に挙げて(あるいは、でっち上げて)切腹させ、妻妾や子供を含めて秀次一族をことごとく処刑して、後顧の憂いをなくしたのでしょう。
淀殿としても、出自が下賤な秀吉の子供など生みたくなかったでしょうし、幸か不幸か秀吉に子種のないことはわかっていました。しかし何としても織田家の血筋を残したいという切実な思いがあったのでしょう。
そこで、秀吉の許可を得ないまま、秀吉が出征している留守中に「祈祷」をして秀頼を身籠ることに成功しました。秀吉が怒って側近の女房や僧侶・陰陽師たち30人を処刑したのは想定外だったとしても、結局秀吉と淀殿は秀頼を介して「ウィンウィンの関係」になったわけです。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスはその著書「日本史」で、次のように記しています。
彼には唯一の息子鶴松がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供を作る体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、と密かに信じていた。
人々の噂によると、関白には、信長の妹の娘、すなわち姪にあたる側室の一人との間に男児(鶴松)が生まれたということである。日本の多くの者がこの出来事を笑うべきこととし、関白にせよ、その兄弟、はたまた政庁にいるその二人の甥にせよ、かつて男女の子宝に恵まれたことがなかったので、こんど誕生した子供が関白の子であると信じるものはいなかった。
だが彼はこの出産について盛大な祝典を催し、母子ともに大坂城に住まわせることにし、その子の育成と世話を寵臣である浅野弾正(長政)に託した。
関白は初めて子供を見に行った時にはわざわざ十三万クルザード(一両小判三千枚弱)を土産にもたらした。それはこうした手本を示すことによって、諸侯がこの例に倣い、多額の贈物をするよう促すためであった。
フロイスは、秀吉の兄弟(秀長)のみならず、二人の甥(秀次・秀勝)にも子供がなかったと書いていますが、これは現代の我々の知識から見ると誤りのようです。
秀長には男の子はいませんが、女の子が二人います。秀次には男の子が四人いますが、後に他の秀次一族とともに三条河原で処刑されました。秀勝には女の子が一人います。
しかし、フロイスが「日本史」を書いたリアルタイム(1589年)には、彼の言う通り、秀長・秀次・秀勝に男子は生まれていませんでした。
フロイスはカソリック布教のための情報収集者でもあって、その使命はローマ法王庁への正確な情報提供を任務とする間諜者(スパイ)でした。
いずれにしても、豊臣家全体に子が出来ないことは、市中で相当な評判になっていました。当時から、秀吉の「子」については胡散臭く思われていたし、世間は間違いなく「秀吉の子ではない」と噂しており、秀吉の実子と信じる者はいませんでした。
しかし秀吉は率先して自分の子であることをアピールしました。「鶴松」誕生の時は、大金もばらまいて、口を封じました。秀頼誕生の時は、関係者30人を処刑して、口封じをしました。
2.秀頼の本当の父親と推測される人物
(1)大野治長
大野治長(おおの はるなが)(1569年頃~1615年)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で豊臣氏の家臣です。通称は修理亮または修理大夫で、大野修理の名でも知られます。
秀吉の側室淀殿(秀頼の生母)の乳母でのちに侍女となった 大蔵卿局 の息子で、淀殿とはお互い信頼関係は強かったようです。色白で大柄な偉丈夫だったそうです。
能書家であり、古田重然(織部)に茶の湯を学んだ茶人でもありました。
秀吉の馬廻として仕え、1594年伏見城の工事を分担。当時1万石を領し、従五位下侍従に叙任されていました。
秀吉の死後、秀頼に近侍して警護二番衆の隊長となりますが、1599年9月、浅野長政・土方雄久らと共に「徳川家康暗殺未遂事件」の容疑で捕らえられ、治長は下野(栃木県)結城に追放されました。
しかし翌年(1600年)、石田三成らの挙兵後まもなく赦免され、関ケ原の戦では東軍に属して奮戦しました。
その後再び豊臣家に仕えて秀頼を補佐し、ことに1614年10月、片桐且元が「方広寺鐘銘事件」の責任を問われて大坂から退去したあとは中心的人物となりました。
同年暮れに起こった「大坂冬の陣」に際しては、織田有楽斎と共に停戦和議に尽力。翌年(1615年)の「大坂夏の陣」では、秀頼の正室となっていた家康の孫・千姫を脱出させ、自らの切腹をもって秀頼・淀殿の助命を画策しましたが容れられず、5月8日山里郭において秀頼・淀殿に殉じて自害しました。
具体的に淀殿の相手を記すのは、毛利輝元の重臣内藤隆春で、慶長4(1599)年10月朔日付の手紙に、
「おひろい様(秀頼)の御局をハ大蔵卿と申す。その子に大野修理(しゅり)と申す御前能人(ごぜんのひと)候。おひろい様の御袋様と密通の事共候か」
と記しています。
伏見に抑留されていた朝鮮王朝の官人姜(カン)ハンも、
「秀頼の母は、すでに大野修理亮治長と通じて妊娠していた」(「看羊録」)
と記しています。
現在では、NHK大河ドラマをはじめ、淀殿の相手は石田三成であるかのように描くことが多いですが、当時は専ら大野治長と噂されたようです。
(2)石田三成
石田三成(いしだ みつなり)(1560年~1600年)は、安土桃山時代の武将で、「豊臣家五奉行」の一人です。治部少輔。初名三也、通称佐吉、本名宗成。父は正継。近江坂田郡石田村の人。
13歳のとき豊臣秀吉に仕え,側近として厚い信任を受けました。1583年「賤ヶ岳の戦い」に軍功があり、1585年秀吉が関白になると、諸大夫 12人のなかに選ばれ従五位下・治部少輔。
これより特に重用され、さらに枢機に参与するようになりました。1587年の九州征伐の際には長束正家とともに兵站を受持ち、島津義久の降伏後は博多の復興のために尽力しました。
1590年の「小田原征伐」の際にも忍城の水攻めなどで活躍し、また「文禄・慶長の役」にも出陣し、軍需品輸送や占領政策にも才能を発揮しました。
太閤検地に際しては長束正家、浅野長政らとともにその中心的な役割を果しました。所領は初め近江国水口4万石でしたが、1595年には同国佐和山 18万石の城主となり、さらに秀吉直轄領7万石の代官となりました。
秀吉の死後、徳川家康の勢力の増大を恐れ、1600年関ヶ原に家康と戦って敗れ (関ヶ原の戦い ) 、捕われて京都六条河原において斬首されました。
淀殿(茶々)と同じく近江国(現在の滋賀県)生まれであることなどから、秀頼の本当の父親の可能性があるとされています。
ただ、秀頼の生誕の前年には朝鮮半島に赴任しており、フィクションである可能性は高いです。
(3)名古屋山三郎
名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)(1572年?~1603年)は、安土桃山時代の武将。蒲生氏・森氏の家臣。名古屋(那古屋)因幡守高久(敦順)の次男。母は織田信長の縁者の養雲院。
美少年の誉れが高く、「世に名高き伊達者」と流行唄 (はやりうた) にも歌われた人物です。出雲阿国(いずものおくに)が妻または愛人ともいわれます。ともに「歌舞伎の祖」とされています。
戦国時代きってのイケメンと言われ、淀殿と密通していたのでは?という噂があったそうです。
(4)真田信繫(真田幸村)
真田信繁(さなだのぶしげ)(1567年?~1615年)(別名:真田幸村)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。
豊臣方の武将として「大坂夏の陣」において、徳川家康の本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されました。
後世、軍記物・講談・草双紙(絵本)などが多数創作され、さらに明治~大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵である家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となりました。
伝説では真田信繁は大坂の陣で大阪城から逃げのび、秀頼とともに鹿児島へ生き延びたという逸話もあります。これもフィクションである可能性は高いと言われています。
淀殿が秀頼を身籠った時期に、真田信繫が淀殿と大坂城で過ごしていたとの史料はあります。しかし、密通し合う仲であったとの文献は存在しません。
(5)僧侶(法師)や陰陽師
江戸千駄ヶ谷聖輪寺の住持である真田増誉(生年不詳~1707年)は「明良洪範(めいりょうこうはん)」に、
「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子ニアラズ。窃(ひそか)ニイヘル者アリシトゾ。其頃占卜(せんぼく)ニ妙ヲ得タル法師有テ、カク云ヒ初シト也。淀殿、大野修理ト密通シ、捨君(鶴松)ト秀頼君ヲ生セ給フト也」
と書きましたが、これをどう読み誤ったのか、「豊臣秀頼ハ秀吉公ノ実子ニアラズ」と言い始めた占いの上手な「法師」(僧侶)が淀殿の相手とされてしまいます。
尾張藩の碩学である天野信景(さだかげ)(1663年~1733年)が著した随筆集「塩尻」には、
「豊臣秀頼は、秀吉実子にあらず。大野修理が子かと疑ひけるとなり。されど其実は、当時卜筮(ぼくぜい)の為に寵せられし法師あり。淀殿これに密通して、棄君と秀頼とを生ぜしとなん。大野は秀吉死後に淀殿に婬(いん)しける。淀殿は容貌美にして、邪智婬乱なりし、名古屋山三が美男なりしにも思ひかけて不義のことありける。凡(およ)そ大坂滅亡の起りひとつに淀殿にあり。」
と記されています。
江戸時代の随筆家・歴史家・俳人である神沢杜口(かんざわとこう)(1710年~1795年)の随筆集「翁草(おきなぐさ)」もこれを踏襲し、
「秀頼公の母堂淀殿の事、世説には大野修理に密会して、秀頼公を産給ふと云へ共、或古書を見れば、修理が子と云は非説也。(中略)其事実は、其頃卜筮に名を得て寵せられし法師有り。淀殿是に密通して、棄君秀頼を生給ふと云り」
と記しています。
当時、懐妊のための「祈祷」が頻繁に行われていました。その祈祷を担当するのが陰陽師です。この陰陽師が秀頼の父親ではないか、という説があります。
その理由の一つとして、秀吉は淀殿周辺にいた陰陽師を、秀頼出産後すぐに追放したからです。
この直後から、秀吉による「数年に及ぶ陰陽師(唱門師)への厳しい弾圧」が始まります。秀吉の怒りが相当なものだったことがわかります。
当時参議で公卿だった西洞院時慶の日記『時慶記』にも、「唱門師払ノ儀アリ」と記されています。「払」とは、「追放」という意味です。
秀頼は、淀殿が「祈祷」と称してこの僧侶(法師)や陰陽師たち(複数)と交わった結果生まれたというのが真相ではないかと私は思います。
その根拠は、最初にご紹介した歴史学者の服部英雄九大名誉教授の『河原ノ者・非人・秀吉』にある「祈祷」の解説が、大変説得力があるためです。
3.豊臣秀頼とは
豊臣秀頼(とよとみ ひでより / とよとみ の ひでより)(1593年~1615年)は、安土(あづち)桃山時代の武将で、豊臣秀吉の次男。幼名拾丸(ひろいまる)。
母は側室淀殿(よどどの)。大坂城で出生。翌1594年12月新築なった伏見(ふしみ)城に移され育てられました。
57歳にして実子を得た秀吉の愛育ぶりはひとかたでなく、また周囲からも秀吉の愛児ということで特別に扱われ、1595年3月にはその伏見移居の祝儀として朝廷から勅使が遣わされ、太刀(たち)・馬を下賜されるほどでした。同年7月関白秀次が自刃してからは、豊臣家の世嗣(よつぎ)と目されました。
秀吉は、拾丸の将来を非常に疑懼(ぎく)し、傅役(もりやく)には前田利家(としいえ)を選び、また徳川家康、毛利輝元(てるもと)らの大名には血判の誓書を出させ、拾丸に対して忠誠を誓わせ、翌1596年正月にも再度この誓書提出を行わせています。
同年5月秀頼は秀吉に伴われて参内して天盃(てんぱい)を賜り、従(じゅ)五位下に叙され、同12月には秀頼と改名しました。
1597年9月禁中において元服し、従四位下・左近衛権(さこのえごん)少将に叙任され、その翌々日には左近衛中将に進み、1598年4月には6歳にして従二位・権中納言(ごんちゅうなごん)となりました。
同年、重態となった秀吉は再三諸大名に血判の誓紙を書かせ、秀頼を助けて忠誠を尽くすことを誓わせましたが、秀吉が死去するとそれも反故(ほご)同然となり、1600年「関ヶ原の戦い」で西軍が大敗すると、豊臣氏は摂河泉約70万石の一大名に転落しました。
1603年4月内大臣となり、同7月には徳川秀忠(ひでただ)の女(むすめ)千姫(せんひめ)を娶(めと)り、1605年4月右大臣に上りますが、政治的大勢のなかで豊臣氏の退潮は覆うべくもありませんでした。
1614年11月「大坂の役(冬の陣)」が起こり、1615年5月再度の「大坂の役(夏の陣)」で大坂城は徳川軍の総攻撃を受けて落城し、秀頼は生母淀殿とともに自刃し、豊臣氏は滅亡しました。
4.淀殿とは
淀殿(よどどの)(1569年?~1615年)は、豊臣秀吉の側室。浅井長政とお市の方の長女。茶々、二の丸殿、西の丸殿とも。
1573年、織田信長に攻められ浅井氏は滅亡、お市の方・茶々ら母娘は信長のもとに送り返されました。
信長の死後、柴田勝家に再嫁したお市の方と共に越前北ノ庄城(福井市)に移りますが、1583年、秀吉に攻められて勝家・お市の方は自害。
3人の娘は秀吉に保護され、のち茶々は秀吉の寵愛を受けるようになります。1589年3月淀城に入り、淀の方と呼ばれました。
同年5月長子鶴松を生みますが、鶴松は夭折。秀吉の小田原攻めに際しては小田原まで出向いています。
1593年、大坂城二の丸で次男秀頼を出産。秀吉が待ち望んでいた豊臣家の嫡子を生んだことで側室中第一の立場となり、1598年の醍醐三宝院での観桜の際には、松丸殿と杯の順番を争うほど権勢を誇りました。
秀吉の死後、秀頼と共に大坂城に入り、西の丸に住みました。その地位は正室北政所を凌ぎ、北政所は京都三本木に隠棲することになります。
しかし「大坂の陣」で豊臣方は敗北し、秀頼と共に自害しました。政略面で徳川家康に敗れたものの、秀吉の死後、秀頼の後見として後家役割を果たしたと評価することができます。
淀殿はまた、父母長政・お市の方の画像を高野山持明院に納め、追善供養を行い、京都に菩提寺養源院を建立。ここには秀吉から300石が寄進されています。