私が子供の頃、「ものしり博士」というNHKテレビの子供向け教養番組(?)がありました。
司会進行役のケぺル先生(ケぺル博士)の「やあ、こんにちは。元気かね?なんでも考えかんでも知って、なんでもかんでもやってみよう!」という冒頭の言葉も印象的でした。
ある意味で、私のこの「団塊世代の我楽多帳」というブログの原点のような番組です。
私自身の子供時代を思い起こしても、今に比べるとはるかに好奇心に富んでいたように思います。「なぜ?なぜ?なぜ?」を繰り返し、突き詰めていくと際限がなくなります。
大人になるにつれて、勉強や仕事が忙しくなり、そんな疑問を突き詰めていく暇がなくなり、好奇心をどんどん失っていきます。
そんな普通の人間と異なり、自分の興味のある分野に好奇心を持ち続けて探求し、物理学や化学などの研究を極めた人がノーベル賞受賞者となったのでしょう。
「世の中には嘘がいっぱい」なので、「常識を疑うこと」も大切で、それが科学の原点です。「我思う、故に我在り」と述べたデカルトもこのことを言っているのです。
1.子供は好奇心の塊
「子供の根問い(ねどい)」という言葉があります。子どもが何にでも疑問を持って、根掘り葉掘り問いただすことです。「根問い」とは、「根本まで問いただすこと。どこまでも問いただすこと」です。「根問い葉問い(ねどいはどい)」とも言います。
子どもはまさに「好奇心の塊」です。好奇心が活発になっている姿をよく見ると、驚くほどにキラキラとまぶしい目で楽しんでいるのが分かります。見るもの触るものが全て珍しく、「これはなんだろう」と頭の中をフル回転させて考えている様子をほほえましく感じるお母さんも多いことでしょう。
「これは何?」と疑問を抱き、「触りたい、確かめたい」と思うことが「やる気」の元になります。そして実際に確かめ、吟味する作業が集中力を育てるのです。
この「好奇心→やる気→集中力」の繰り返しが、子どもの学ぶ力をどんどん高めます。0歳~2歳では、このサイクルを十分に繰り返しておくことが大切だそうです。
2.兼好法師も子供の頃は好奇心の塊で、父親を質問攻めにした
「徒然草」を書いた兼好法師も子供の頃は、父親を質問攻めにするほど好奇心の塊だったようです。
最終段の243段「八つになりし年」に、8歳になった兼好が仏について父親に次々としつこく「根問い(ねどい)」をする様子が描かれています。
八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ、「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。
現代語訳は次のようになります。
八つになった年に、父に質問した。『仏とは、どういうものでございますか?』と言った。父が言うことには『仏とは、人が悟りを開き成ったものだ』と。また問いかけた。『人はどうして仏に成れたのですか?』と。父はまた『仏の教によって仏に成るのである』と答えた。また問うた。『その道を教えてくれる仏自身は、何から教わったのですか?』と。また父は答える。『その仏もまた、前の仏の教えによって仏に成られたのだ』と。また問う。『その教えを始められた第一の仏は、どのような仏にございますか?』と聞くと、父は『空より降ってきたか。土から湧いてきたか』と答えて笑った。『息子から問い詰められて、仏の原点について答えられなくなりました』と、父はみんなに語って面白がっていた。
3.落語の「浮世根問」
落語にも「根問い」を扱った「浮世根問(うきよねどい)」という演目があります。
<あらすじ>
岩田の隠居がお茶を飲んでいると、例のごとく八五郎がやって来る。
「えへへへ…お昼のお膳はまだですかね?」
どうもこの男、隠居の家で御馳走になるつもりらしい。隠居がポカンとしていると、八五郎が今度ははばかりの場所を聞いてきた。
「はばかりへ行くほど食べる気か…」と隠居はあきれ顔。
しばらく話をしていると、八五郎が部屋の隅に本が山積みになっているのを見つけて「本を読むことに意味があるのか?」と訊いてきた。
「本を読むと世間に明るくなる。おまえが知らなくても私が知っていると思うとうれしくなるんだ」
「へぇー。あっしが知らなくとも…ねぇ」
ここでふと、いたずら心がわいた八五郎。矢継ぎ早に質問をし、どこで詰まるか試してみようと思いつき…。
<嫁入り根問>
「がんもどきの裏表は? 炭団の上下は?」
「そんな下らない事じゃない、もっと真面目な事を訊きなさい」
「へぇ。じゃあ…表の伊勢屋さんで婚礼があるのですが、あの婚礼って言う物をよく『嫁入り』と言うじゃないですか? あれはどうしてです?」
「うむ。それは簡単だ。男に目が二つ、女に目が二つ。それが一緒になるから『四目入り』だ」
「それじゃ目の子勘定だ」と八五郎はあきれ顔。気を取り直して『奥さん』という呼び方の由来を質問すると、今度は「奥でお産をするから『奥産』だ」と言う返事が返ってきた。
「じゃあビルの五階でお産をしたら【五階産】で、はばかりでお産をしたら【厠産】。【五階産】(ご開山)で【厠産】(高野山)で弘法大師…」
八公のところでは『かかぁ』なんて呼ぶが、あれは家から出て家へ入るから「家々」とかいて《かか》だ。
「婚礼にはいろいろなものが飾ってありますよね。松竹梅とか」
梅はどう料理しようと味が変わらない。竹はまっすぐな男の気性を象徴している。
「ひねくれた男はカン竹に由来していますかね?」
「色々な事を言う奴だな」
松は【松の二葉は あやかり物よ 枯れて落ちても 夫婦連れ】と都々逸にもある通り、家族の仲の良さを現している―らしい。
「鶴や亀なんかもありますよね?」
鶴は仲の良い家族の象徴、鶴は子供をかわいがる。亀は長寿の象徴。
「鶴は千年、亀は万年…ですか。近所の子が縁日で亀を買ってきましたが、その晩に死んでしまいしたけど?」
「それがちょうど万年目だったんだろう」
ちょっと無理があるようで…。
<死後の根問>
「亀はとても辛抱強い。ご婦人は頭に亀の甲で作った鼈甲の櫛を抱き、亀にあやかって辛抱強く生きますと誓うんだ」
「その鶴亀だって千年・万年経ったら死にますよね?」
「そうだが、ああいうのは『死ぬ』とは言わない。魚類が『上がる』、鳥類が『落ちる』だ」
人間でも身分によって差があり、例えばお釈迦様の場合は『涅槃』、高貴な方が『御他界』で、その下が『ご逝去』だ。
「あっしが死んだら『クタバッタ』? じゃあ、煙草やが死んだら『お煙になった』で、安来節の師匠が『アラ、逝ったっちゃーい』。…じゃあ、鶴亀が落ちたり上がったりしたらどうなります?」
「極楽へ行くだろうな」
「極楽ってどこにありますかね?」
「十万億度、西方弥陀だ」
「西の果てのはるか遠く…ってどこです?」
「だからな…。おまえのように、人を困らせる奴は地獄に落ちるぞ?」
「へぇ。その地獄っていうものはどこにあります?」
「極楽の隣だ」
「じゃあ極楽の隣は?」
「地獄だ」
「地獄の隣は?」
「…極楽だ」
<宇宙の果て>
隠居がうんざりして、「もうお帰り」。しかし、あくまでも徹底抗戦の構えを取っている八五郎は動こうとしない。
「そう言えばな、八五郎。このまえ大家の所に問答しに行ったんだって?」
「ええ。実はですね…」
大家も岩田の隠居みたいに、日ごろから『この世に知らないものはない』と言っていたので挑戦してみたのだ。
「宇宙をぶーんと飛行機で飛んだらどこへ行くでしょう」
「行けども行けども宇宙だ」
「じゃ、その『行けども行けども宇宙』をブーンと飛んだらどこへ行くでしょう?」
「その先は朦々(もうもう)だ」
「そんな牛の鳴き声みてえな所は驚かねえ。そこんところをブーンと飛んだら?」
向こうは喘息持ちだから、ここらでだんだん顔が青ざめてくる。
「いっそう朦々だ」
「そこんところをブーン」
「そこから先は飛行機がくっついて飛べない」
「そんな蠅取り紙のような所は驚かねえ。そこんところをブーン」
とやったらついに降参、五十銭くれた。
「おまえさんも、地獄と極楽が答えられなかったら五十銭出すかい?」
「そんなもの出してたまるか」
<極楽はここに>
見せてやると言うのでついて行ってみると、何故か仏壇の前に座らされる。
「ここが極楽だ。作り物とはいえ蓮の花があり、木魚や鐘の音楽が鳴る」
「紫の雲は?」
「線香の煙が紫の雲だ」
「仏様は?」
「ご位牌が仏様だ」
「へー。じゃあ、鶴や亀なんかも死ねば仏様になるんですか?」
「いや、ああいうものは仏にはなれない」
「じゃ何になるんですか?」
「ご覧なさい、この通り蝋燭立になっている」
オチとなる『鶴亀の蝋燭立』(上の画像)は、寺などで使用した亀の背に鶴が立ち、その頭の上にろうそくを立てる形の燭台に由来しています。