忠臣蔵の四十七士銘々伝(その23)千馬三郎兵衛光忠は脱藩を翻意して大義に殉じた

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千馬三郎

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.千馬三郎兵衛光忠とは

千馬三郎兵衛光忠

千馬光忠(せんば みつただ)(1653年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は三郎兵衛(さぶろべえ)です。変名は原三助。

実直で融通が利かない性格だったため、主君の浅野長矩にさえしばしば直言したため不興を買い、ついに元禄10年(1697年)8月18日には閉門を命じられ、禄高も100石から30石に減知されました。

しかし、私憤より公憤が勝ると一命を賭して討ち入りに加わった人物です。

家紋・七星に月

2.千馬三郎兵衛光忠の生涯

承応2年(1653年)、摂津高槻藩永井家家臣の千馬求之助光久の次男として誕生しました。母は播磨赤穂藩浅野家家臣の筑間三右衛門の娘です。兄に荊木貞右衛門がいます。

同族で赤穂藩浅野家家臣の千馬三郎兵衛光利の養子に入りました。寛文11年(1671年)8月17日に養父・光利が死去したため、家督を継ぎました。

赤穂藩では馬廻り役・宗門改役をつとめ、100石を食みました。しかし、実直で融通が利かない性格だったため、主君の浅野長矩にさえしばしば直言したため不興を買い、ついに元禄10年(1697年)8月18日には閉門を命じられ、禄高も30石に減知されました。

それでも光忠の直言癖は直らず、長矩との関係は悪くなる一方でしたので、元禄14年(1701年)3月初めには光忠の方から浅野家に暇願いを出しました。しかしその許しが出る前の3月14日に浅野長矩は吉良義央に刃傷に及び切腹となりました。

どんなに嫌われていても主君には違いないため、吉良を討つことを決意し、筆頭家老の大石良雄の盟約に加わりました。

赤穂城開城後は大坂の兄のもとに身を寄せ、元禄15年(1702年)1月に大石に正式に神文血判書を提出しました。9月7日に江戸へ下向し、新麹町四丁目の借家に住みました。

吉良屋敷討ち入りの際には裏門隊に属し、吉良方の剣豪・清水一学を倒したともいわれます。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、伊予松山藩主・松平定直の三田中屋敷にお預けとなり、同家家臣・波賀清大夫の介錯で切腹しました。享年51

戒名刃道互剣信士で、主君・浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られました。

3.千馬三郎兵衛光忠にまつわるエピソード

(1)改姓にまつわる逸話

姓は千馬でなく、本当は千葉(ちば)でしたが本家が秀吉による北条攻めで没落したため、千葉本家をはばかり千馬(せんば)に改姓したともいわれます。

(2)浅野内匠頭への仕官にまつわる逸話

創作では、家宝の槍を知らない侍たちに泥棒されかけ、泥棒侍たちを血だるまにして槍を取り戻します。それを偶然、目撃した内匠頭(見ていたのは堀部弥兵衛とする話もあります)に仕官が決まったということです。

(3)遺児にまつわる逸話

遺児の千馬宣忠は、備前岡山藩池田家に召抱えられました。しかし、大石良雄が備前の赤穂藩札換金に応じなかったことなどの逆恨みで藩士から苛めにあい、父の形見を取上げられてしまいました。

このため、千馬光忠の遺品『虎徹 千馬三郎兵衛光忠所持佩刀 二尺三寸一分』は赤穂の義士宝物殿に現在はなく、民間に流出してしまっています。

(4)『赤穂義士銘々伝~千馬の槍(千葉の槍)』あらすじ

武州の平間(ひらま)村というから現在の川崎市、ここに郷士(ごうし)で千葉友右衛門という者がいる。郷士というのは侍の待遇を受ける農民のことである。友右衛門には友之丞という倅がいて、文武ともに優れており、特に槍の腕は秀でている。

友之丞が25歳のときのある日、父親に伊勢参拝に旅立ちたい、供には若い林蔵を連れて行きたいという。友右衛門としても異存はなく、先祖伝来の矢の根の槍を持参していくよう勧める。さらに、友之丞が子どものころから世話をしてきた70歳になる爺や、市助も一緒に付いていきたいという。共に旅をするのにはあまりに高齢であるし、友之丞は若い者同士で旅をしたいとおもっている。しかし頑固者である市助はどうしても一緒にいくと言ってきかない。しかたなしに市助は槍持ちとして、3人で旅をすることになる。市助は帰りに孫のためのおもちゃを買ってこようと大喜びである。

川崎を発って箱根山を越えるが、年取った市助は遅れがちである。友之丞は「これで安い馬にでも乗ってくれ」と小遣いを渡す。

日数を重ねて次の宿泊地は岡崎で、定宿は「桔梗屋」と決まっている。友之丞もこの宿の名を市助に伝えておく。後からまいりますと、市助は往来で一休みしプカリプカリとタバコをふかす。こうしているうちに市助は今日泊まる宿の名前を忘れてしまった。なに、友之丞様の泊まる宿には、月星の紋の幕を張ってあるから大丈夫だと思っている。

市助はその月星の紋の幕の張ってある脇本陣、和田屋へと入る。もう夕方なのに番頭は「お早いお付き様で」という。主人は随分前に宿に着いて、今は部屋で一杯やっているという。市助は矢の根の槍を番頭に預け、唐紙をあけ「遅くなりました」と部屋に入ると、見知らぬ5~6人の侍がおり酒の盃を傾けている。聞くと彼らは尾州様の家来で岡田軍右衛門という者とその門弟である。千葉家と岡田家、同じ月星の紋を使っていたのだった。

「これは間違えました」といって、市助は下がる。宿の者の話だと、同じ紋を使う千葉様なら、この先の桔梗屋が定宿であると話す。市助は先ほど預けた槍を返してもらおうとするが、岡田文左衛門の部屋の者が「その槍を少し見てみたい」といって持ち帰ってしまったという。市助は「あの槍は先祖から伝わる大事なもので返して貰いたい」というが、岡田文左衛門は「お前の主人が直々に、部屋を間違えた詫びに来るまでこちらで預かっておく」と言葉を返す。市助は桔梗屋に向かい、泣きながらいきさつを友之丞に話す。友之丞の顔色が変わった。すぐに詫びに参ろう。

大小は宿に預け、和田屋へと赴く。さっそく、岡田軍右衛門に挨拶すると、相手は「イモ侍か」という。軍右衛門は考え方が変わったという。槍を返して欲しければ、無礼をした下郎の首をここに持ってこいというのだ。悄然として友之丞は桔梗屋に戻る。友之丞は事情を話す。粗相をしたのは自分の責任であると、市助は首を斬られる覚悟を決めた。庭に敷かれた粗莚にどっかと座る。銭が20あるので、孫へ渡すおもちゃを帰りに買ってきてくれと言い残す。友之丞が刀を振り下ろし、市助の首が落ちる。

和田屋へ向かった友之丞は、白髪交じりの男の首を軍右衛門に見せる。こうして先祖伝来の矢の根の槍は友之丞の手に戻った。友之丞は感謝の言葉を市助に言う。「オヤジの仇」、友之丞は槍を軍右衛門に向かって突きたてる。「なにをする」、岡田軍右衛門も刀を抜くが、友之丞の槍が見事、相手の脇腹に深く突き刺さった。「人道にもとりし尾州の家来、岡田軍右衛門を千葉友之丞討ち取ったり」、岡田軍右衛門の門弟で師匠の仇を討とうという肝のある者はいなかった。

宿場では鐘が鳴り、辺りは大騒ぎである。役人に捕まっては恥辱と友之丞は逃げる。すると赤い大きな門を構えた寺がある。この寺の中で切腹しようと友之丞は入り込んだ。右手には槍を、左手にはオヤジの首を掴んでいる。この寺には、播州赤穂の主、浅野内匠頭が所用があって泊まっていた。原惣右衛門が異様ないでたちをした友之丞に気付き、子細を聞く。話は内匠頭に伝わり、千葉友之丞の切腹は押し留められた。

浅野内匠頭が尾州公へと掛け合い、当家には岡田軍右衛門というような者はいないとの返答を貰う。そのような卑劣な家来がいてはお家の恥辱だと考えたのであろう。けっきょく、友之丞へのお咎めはなく、そのまま伊勢参拝を済ませ、無事平間村へと帰ることが出来た。「今の自分の命があるのは、浅野内匠頭様のおかげ」と父親に申し出て、これから浅野家に仕えることになる。名は三郎兵衛、また尾州家に憚って姓を「千葉」から同じ読みの「千馬」に変えた。元禄15年12月14日、吉良邸討ち入りの際にはこの千馬三郎兵衛もまた目覚ましい活躍をするのであった。

4.千馬三郎兵衛光忠の辞世・遺言

辞世・遺言ともに無し。