忠臣蔵の四十七士銘々伝(その39)矢田五郎右衛門助武は鎖帷子の着込みで命拾いした

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矢田五郎右衛門

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.矢田五郎右衛門助武とは

矢田五郎右衛門助武

矢田助武 (やだ すけたけ)(1675年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は五郎右衛門(ごろうえもん)です。変名は塙 武助。

家紋:茗荷内矢

2.矢田五郎右衛門助武の生涯

延宝3年(1675年)、赤穂藩浅野氏家臣・矢田利兵衛の子として誕生しました。母は田中安兵衛の娘です。

貞享3年(1686年)に父の死去により家督相続、江戸詰めの藩士となり馬廻役をつとめました(150石)。

元禄8年(1695年)には伊丹宇右衛門の娘を娶り、その間に矢田作十郎を儲けました。元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んだ際にも江戸にいました。

藩邸を召し上げられたため、ここを出て芝浜松町三丁目の借家に移りました。江戸急進派の一人として活躍し、討ち入り直前の元禄15年(1702年)11月に本所林町の堀部武庸の借家に移りました。

吉良邸討ち入りでは表門隊に属して戦い、表門から突入して戦闘中に背後から斬りつけられましたが、鎖帷子のおかげで負傷せずにすんだとのちに語っています。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、熊本藩主細川綱利の屋敷へ預けられました。

元禄16年(1703年)2月4日に細川家家臣竹田平大夫の介錯で切腹しました。享年29戒名は、刃法参劔信士で、浅野長矩と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られました。

3.矢田五郎右衛門助武にまつわるエピソード

(1)人物

武辺一点張りの豪傑で短気な性格でした。

創作では冨森助右衛門の知人宅に居候の浪人だったとされます。泥酔して橋のたもとで寝ていたら、猿回しのサルが矢田を引っ掻いたので斬って捨てました。文句を言ってきた猿回しの八兵衛にも腹を立て斬り殺します。五郎右衛門は殺した猿回しの長屋に住み着き、お忍びの内匠頭が浪人者と揉め斬り合いになるのを仲裁して、馬廻役に取り立てられます。

(2)討ち入りでは鎖帷子のお陰で負傷しなかったが、刀が折れる

奥田孫太夫、勝田新左衛門と共に書院目指して突き進んでいると隠れていた敵が卑怯にも後から斬りかかってきました。

鎖帷子のお陰で負傷せずに済みましたが、一の太刀で相手を切り伏せ、二の太刀を振り下ろしたところ、下に火鉢があって刀の切っ先から五、六寸のところで折れてしまったので相手の刀を奪って奮戦しました。

のちに、折れた刀は新刀であったが疵があったのかも知れないと洩らしています。

(3)子孫

息子の作十郎は妻の伯父にあたる旗本・岡部駿河守勝重に預けられていましたが、赤穂事件の連座吟味のため町奉行保田越前守より呼び出されました。

法通り帯刀を外すように命じた所、作十郎は当時9歳ながら毅然とした態度で「付き添いの家来に渡してよいか」と尋ね、少年とは思えぬ態度に居並ぶ役人はさすが義士の子であると感嘆したということです。

その後、作十郎は親戚の吉川家の養子に入って吉川藤之丞と改めています。岡部家が長く面倒を見ていたようですが、主家および養家に反抗して出奔し、その後の詳細は不明です。

なお、娘は事件当時、既に亡くなっています

4.矢田五郎右衛門助武の辞世・遺言

辞世は無し。

遺言:細川家世話役の堀内伝右衛門に次のように頼んでいます。

「討入りの時、佩刀を折り、相手から奪った刀を持っているから遺族が不思議に思うかも知れない。御下げ渡しの節は、そのわけを説明してやってほしい」