「確信犯」の本来の意味は正しいと確信して行う犯罪で、「日本語の変遷」の好例

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確信犯・意味

前に「昔、コオロギはキリギリスと呼ばれれていた」という記事を書きましたが、今回は同じ言葉が全く逆の意味に使われるようになった例について考えて見たいと思います。

1.確信犯の本来の意味

先日、次男と話をしていて、「確信犯」という言葉の意味の変化についての話題になりました。彼は言葉について鋭い感性を持っていて、私もしばしば驚かされます。今回ご紹介する話には、彼との話の内容も含まれています。

「確信犯」と聞いて私が一番に思い出すのは、1960年(昭和35年)10月12日に日比谷公会堂で演説中の日本社会党委員長の浅沼稲次郎氏が17歳の右翼の少年山口二矢(おとや)に暗殺された事件です。

当時、犯人の少年は実名報道され、「暗殺を正しいと信じて犯行に及んだ確信犯」だったと聞いた記憶があります。彼の父親は東北帝大出身の厳格な陸上自衛隊員で、母親は大衆作家村上浪六(なみろく)の娘だそうです。事件後、彼は少年鑑別所で自ら命を絶ちました。

近年、イスラム国で「ジハード(聖戦)」と称して「自爆テロ」を敢行する少年たちも、宗教上の「確信犯」と言えるでしょう。

このように、「確信犯」とは本来は、「政治上、宗教上あるいは道徳上の理由などから、正しいと確信して行う犯罪」を指す言葉でしたが、最近では、「悪いことと分かっていながら行う犯罪や行為」を指して使うことが多くなりました。つまり、「やってはいけないと知らなかった」のではなく、「悪いと知っていながらやった」ということですから、「故意犯」です。

文化庁の世論調査では、「確信犯」の意味を本来の意味と思っている人が平成14年で16.4%、平成27年で17.0%であったのに対し、最近の使い方が正しいと思っている人が平成14年で57.6%、平成27年で69.4%もいたそうです。

言葉は生きていて、時代と共に意味も変遷して行くという好事例でしょう。

2.「日本語の乱れ」と「日本語の変遷」

最近はあまり言われなくなりましたが、ひところ盛んに「日本語の乱れ」が指摘されましたね。たとえば「『ら』抜き言葉」です。「来られる」「食べられる」を、「可能」の意味で使う時は「来れる」「食べれる」という使い方です。これなどは、「『ら』抜き言葉」の方が「尊敬」や「受身」との区別がはっきりして、表現の明快さ・論理性を高めるもので、次男も私も良いと思うのですが、皆さんはどう思われますか?「日本語の変遷」を広い心で受容することも必要ではないでしょうか?

最後に、余談ですが「かかあ天下」という言葉があります。これは現在は、「妻の権威・権力・威厳が夫を上回っている家庭」を指しますが、元々は「上州(群馬県)の妻は、夫が出かけている間の家をからっ風などから守る強い妻」であるとか、「うちのかかあは働き者で天下一」という「ほめ言葉」だったのです。

それが今は、滅多に見かけなくなった「亭主関白」に対する言葉として、「夫が妻の尻に敷かれている家庭」の夫や妻を揶揄するような言葉となった訳です。「戦後女性と靴下は強くなった」とよく言われましたが、時代の流れで、言葉が現実を反映した意味に変わって来たもので、全く異議はございません。