日本語の起源は?中国の漢字を利用して片仮名・平仮名・訓点を発明した歴史も紹介

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平仮名の起源

前に「日本語のいくつかの言葉の語源」を紹介する記事を書きましたが、一つの言葉の語源を説明できても、さらにその先の疑問が残ります。たとえば、「さくら」は「咲く(さく)」に接尾語の「ら」が付いたものだとわかっても、それでは「咲く」の語源は何かという疑問に突き当たることになります。

正しい答えかどうかわかりませんが、「蕾(つぼみ)を割(さ)くというのが語源だ」と説明しても、それではなぜ「割(さ)く」というのかという疑問が湧いてきます。

1.日本語の起源

中国からの漢字の伝来や、その漢字を利用したわが国での片仮名・平仮名の発明以前の日本語(和語、大和言葉)とはどのようなものだったのでしょうか?

これは「言語学」「国語学」の専門分野ですので、ド素人の私には詳しいことはわかりませんが、結論としては「よくわかっていない」というのが実情のようです。

日本は日本列島という島国なので、日本語について大陸諸国の言語のような「比較言語学」はあまり意味がなさそうです。

日本列島がユーラシア大陸と地続きであった1万年以上前のことは知る由もありません。もちろん、日本列島が大陸から分離した後も、朝鮮半島から船で渡って来ることも可能だったでしょうし、北方ではロシア・樺太方面から凍結した海を渡って来た人もいるでしょう。南方から黒潮に乗って船で漂着した人たちもいるでしょう。

そういう意味では朝鮮半島や南アジアやアイヌ語の影響ということも考えられます。ただ私の素人考えでは、それはあくまでも一部の言葉への影響にとどまり、大半は日本人が長年にわたって独自に形成した言語(孤立言語)だと思います。

日本語の起源は「弥生時代」(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)というのが主流の学説ですが、「縄文時代」(紀元前14,000年頃~紀元前10世紀頃)からあったとする学説もあり、定説はありません。

ところで和語(大和言葉)が出来た最初の契機は、敵や自然災害・野生動物の危険から仲間を守るための日本人同士の「意思疎通」の必要性から、共通の「合言葉」「符牒」「隠語」を考え出したのが始まりではないかと思います。

今となっては、長い年月の間に定着した膨大な日本語の一つ一つの言葉について、語源・由来・起原を極限まで追究することは不可能だと思いますし、無駄なことだと思います。

2.日本語の発展

(1)「漢字」の伝来

日本に仏教が伝来したのは538年で、朝鮮半島の百済の聖明王から大和朝廷の欽明天皇に対して仏像や仏具、経典が献上されました。この経典が公式には「最初の大量の漢字資料」ということになります。

しかし、それ以前にも漢字は知られていたようで、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「稲荷山古墳鉄剣銘」は471年のものとされ、「現存する最古の漢字資料」です。

朝鮮半島経由で中国の漢字が伝来する以前は、日本には固有の文字がありませんでした。そのため人々は、神話・民話・昔話や伝承などを暗記・暗誦して代々語り継いでいたわけです。現代では戦争の悲惨さや自然災害の恐ろしさを語り継ぐ「語り部」さんがいますが、このようなことが広く行われていたのでしょう。

稗田阿礼も、天智天皇に仕えて警護などを行う「舎人(とねり)」でしたが、抜群の記憶力を見込まれて、「帝紀」「旧辞」などを暗誦する専門的な「語り部」となり、太安万侶の「古事記」編纂に協力したのでしょう。

(2)「万葉仮名」の考案

7世紀頃には、日本語を表すために漢字の音だけを借用した文字が考案されました。それが「万葉仮名」です。

「万葉集」を一種の頂点とするので、このように呼ばれています。

(3)「片仮名」の発明

「片仮名」は「万葉仮名」の漢字の一部または全部を使って「略字体化」したものです。

吉備真備(695年~775年)が片仮名を作ったという説もありますが、一般には9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で、漢文を和読するために、訓点として万葉仮名の一部の字画を省略して付記したものに始まると考えられています。

(4)「平仮名」の発明

「平仮名」は「万葉仮名」の漢字を「草書体化」したものです。

平安時代初期の名僧で能書家でもあった空海(774年~835年)が平仮名を作ったという説もありますが、一般には奈良時代を中心に使われていた「万葉仮名」が、平安京への遷都以降、「漢字の草書体化」がさらに進み、漢字から独立した平仮名になったと考えられています。

(5)読みやすさと速記性の飛躍的向上

万葉仮名の文章に比べて、片仮名あるいは平仮名まじりの文章は大変読みやすく、文章を書くスピードも飛躍的に向上したものと思われます。

(6)「訓点」の発明

以前、NHK教育テレビの「中国語講座」を見ていると、漢詩を中国語で朗読していました。その時の講師は、「漢詩も中国語で読まないと十分には味わえない」という趣旨の話をしていました。

しかし、私は朗読を聞いていて、中国語独特の「上がり下がりの激しい調子はずれのような抑揚のイントネーション」に拒絶反応を起こしてしまい、詩を味わうどころではありませんでした。

漢文や漢詩を日本語で読み下す(訓読する)際に使用する「訓点」は9世紀頃に発明されたようですが、この発明がなかったら、漢詩がこれほど日本人に普及しなかったのではないかと私は思います。

「訓点」とは、漢文や漢詩を訓読するために、漢字の上や脇などに書き加える文字や符号のことです。具体的には、「ヲコト点(乎古止点)」「返り点(レ点、雁点)」「振り仮名」などの総称です。

「訓読」は中国語の元の文章や詩をそのまま生かしながら、日本流に読み下すもので、翻訳でもない非常に優れた読み方だと思います。漢文や漢詩の訓読には独特の凛とした調子・風情があり、私は好きです。漢詩はまた詩吟で、独特の節(旋律)で悲憤慷慨の調子を持ってよく吟詠されていますね。

なお、この「訓読」は、元々中国語の書記言語である漢文を、語順を変えたり助詞を加えるなど日本語の文法に合わせて解釈したもので、単なる翻訳のレベルを通り越して別々の言語である中国語と日本語を混合し、文法的に完成させたという意味で「クレオール言語」(*)の一種とみなすこともできると言われています。

(*)「クレオール言語」とは、「意思疎通ができない異なる言語の商人などの間で自然に作られた言語」(ピジン言語)が、その話し手たちの子供世代で母語として話されるようになった言語のことです。

日本語は、漢字をベースにして「片仮名・平仮名・訓点」という三点セットによって、ガラパゴス諸島の生物のような独自の進化を遂げた言語・文字と言えるのではないでしょうか?

アルファベットのような「表音文字」と異なり、漢字は「表意文字」なので、もともとの日本語と組み合わせる(訓読み)ことによって大変優れた言語・文字文化を構築したと思います。

かつて、「漢字廃止論」というのがあったようですが、これは漢字の良さを否定する全く馬鹿げた考え方だと思います。

(6)日本語の変遷

古代中国においては「焚書坑儒」のような「大規模な過去の文化の否定」がありました。日本では幸いなことにこのような暴挙はありませんでしたが、戦後の「国語改革」は愚挙だったと私は思っています。

中国が1950年代に作った「簡体字」は、現在も中国で使われています。これは日本の国語改革よりもっとひどいものですが・・・

これについては、前に「旧字体を新字体に変えた国語改革の愚」という記事に詳しく書いています。

日本語は、過去にも現在も将来も「変遷」があります。100年前の夏目漱石の小説の文章は、今読んでも「古さを全く感じさせない」もので、現代の我々でも十分に読めますが、江戸時代以前のものとなると、難しくなります。

現在の日本語も、100年後ぐらいなら十分読めると思いますが、数百年後になるとどうなっているかわかりません。最近「市川海老蔵さんなどの『ブログ』が国立国会図書館に保存されるようになりました」が、数百年後には「古文書」並みに「判読不能」になっているかもしれません。

3.日本最古の文献

(1)日本最古の書物

聖徳太子の「法華義疏」(615年)

(2)日本最古の歴史書

稗田阿礼が暗誦したものを太安万侶が筆録し編纂した「古事記」(712年)

4.社内の正式文書を片仮名書きにしていた会社(蛇足)

余談ですが、私が就職活動をしていた1971年のこと、同級生が伊藤忠商事(株)の会社説明を聞きに行くというので、付いて行ったことがあります。

そこで驚いたことに、配布文書は「片仮名書き」で、漢字や平仮名は一切使っていませんでした。当時、総合商社は「インスタントラーメンから大砲(またはミサイル)まで」と言われて、何でも取り扱う得体の知れないモンスターのようなイメージがあり、私は恐れをなしてその後は行きませんでした。

「片仮名書き」の件は、その時は「電報みたいだな」と違和感がありましたが、「商社はみんなこうなのかな?」という程度に思って今日まで来ました。

今回、気になって調べてみると、当時の相談役・二代目伊藤忠兵衛氏(1886年~1973年)がカタカナの使用を推進する「カナモジ運動の草分け」で1920年に「カナモジカイ」の創立委員となり、1938年には「財団法人カナ文字会」の理事となられたそうです。

二代目伊藤忠兵衛氏が「片仮名書き」を推進しようとした理由は、これなら「カナタイプライター」を使って「英文タイプ」と同じように早く文章を入力できることだったようです。

その影響もあって、「伊藤忠・丸紅両社では戦前から戦後にかけて社内の正式な文書にはカタカナが使われていた」ということがわかりました。

私が目にしたのは、最後の「カナモジ文書」だったのかもしれません。

ただ、山崎豊子の「不毛地帯」の主人公のモデルとされる瀬島龍三氏(1971年当時は同社専務)は、この「カナモジ文書」に賛同しておらず、手紙などは和紙に毛筆で書いたものを部下にタイプさせていたそうです。

1973年に二代目伊藤忠兵衛氏が亡くなった後は「カナモジ文書」は廃止されたようです。