「百年戦争」をジャンヌ・ダルクの果たした役割も含めてわかりやすく解説!

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百年戦争

日本の「戦国時代」(1467年~1590年)は、「応仁の乱」に始まり「小田原征伐」に終わる「内乱」ですが、広い意味では「100年戦争(内乱)」と言えなくもありません。

この内戦の巻き添えを食ったその時代に生きた農民たちの苦難は想像に難くありません。

ところで、ヨーロッパでは14世紀から15世紀にかけて起きた有名な「百年戦争」(1337年~1453年)がありますが、これはどんな戦争だったのでしょうか?

今回はこれについてわかりやすく解説してみたいと思います。

1.百年戦争の原因

百年戦争は「フランス王国の王位継承権」などを巡って。ヴァロワ朝フランス王国とプランタジネット朝イングランド王国(1399年以降は「ランカスター朝」)との間で始まりました。

当時のイングランド王国を治めていたプランタジネット朝の国王は元フランスの貴族で、フランスに広大な領土を持っていました。

1399年以降にイングランド王国を治めることになったランカスター朝もプランタジネット朝の「男系の傍系」であるため、百年戦争は「フランスの領主たちが二派にわかれて戦った内戦」とも言えます。

(1)フランス王国の王位継承権問題

987年からフランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年にシャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロア伯フィリップに継承され、フィリップ6世(1293年~1350年)となりました。

これに対して、イングランド国王エドワード3世(1312年~1377年)は、自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張してフィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えたのです。

(2)ギュイエンヌ問題

プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕するほどの広大な領地をフランスに持っていましたが、ジョン(欠地王、ヘンリー2世の末子)の失策と敵対者の策略によって、13世紀初めまでにその大部分を奪われていました。

大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領だけとなっていましたが、フランス王は宗主権を行使してギュイエンヌの内政にしばしば干渉したり、一時占拠したりしたため、イングランドはこれらの措置に反発し続けていました。

(3)フランドル問題

フランドルは11世紀頃から、イングランドから輸入した羊毛で生産する毛織物により、ヨーロッパ経済の中心として栄え、イングランドと親密な関係でした。フランス王フィリップ4世は豊かなフランドル地方の支配を狙い、1300年にフランドルを併合しました。しかし、フランドルの都市同盟が反乱を起こし、フランスが敗北したので、フランドルの独立が認められました。

(4)スコットランド問題

13世紀末からイングランド王国はスコットランド王国の征服を試みていましたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年の「バノックバーンの戦い」でスコットランド王ロバート・ブルースに敗れます。しかしロバートの死後、イングランドエドワード3世スコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ペイリャルをスコットランド王に即位させることに成功しました。

このため、スコットランド王のデイヴィッド2世は亡命を余儀なくされフランスフィリップ6世の庇護を求めました。エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めましたが、フランスはこれを拒否しました。

2.百年戦争の経過

百年戦争と言っても、ずっと戦闘が続けられていたわけではなく、間欠的に56回もの戦いが行われ、「宣戦」から「最後の戦い」までが100年に及んだということです。

(1)宣戦

フィリップ6世

(フィリップ6世)

1337年フランスフィリップ6世は、イングランドのエドワード3世に対して「ギュイエンヌ公領およびポンチュー伯領の没収を宣言しました。

エドワード3世

(エドワード3世)

これに対してイングランドエドワード3世は、フィリップ6世のフランス王位を「僭称」とし、ウェストミンスター寺院において「フランスに対する臣下の礼の撤回」と「フランス王位の継承を宣誓しました。

(2)フランドルの反乱

反乱軍によってフランドル伯は追放され、フランドル都市連合エドワード3世への忠誠を宣誓しました。

(3)ブルターニュ継承戦争

一連の戦闘によって、イングランドエドワード3世ブルターニュに対しても前線を確保することができました。

(4)イングランド王軍快進撃フランス王軍大敗

①クレシーの戦い

1346年のクレシーの戦いで、イングランドのエドワード3世は目覚ましい勝利を上げます。

②ポワティエの戦い

1356年のポワティエの戦いでも、イングランド軍が大勝します。

この戦いで、ジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンの連行されました。

ジャン2世は結局ロンドンで死去しますが、後を継いだ息子のシャルル5世は、税制改革によって国家財政を立て直し、継承戦争から一旦手を引きました。

③アジャンクールの戦い

1415年のアジャンクールの戦いでも、イングランド王軍がフランス王軍に勝利します。

(5)フランス王軍がイングランド王軍に大逆転勝利

オルレアン包囲戦

ところが、1428年及び429年のオルレアン包囲戦では、フランス王軍決定的な勝利を収めます。

ジャンヌ・ダルク

この勝利は、フランス軍部隊を率いてイングランド軍と戦ったジャンヌ・ダルク(1412年~1431年)の後援によるものでした。良い意味でのマインドコントロールがあったのでしょう。

彼女には軍事的な才能はないと思われますが、「神がかった信念」と「カリスマ性」を併せ持っていて、兵士たちの士気を鼓舞したので、奇跡的に戦いに勝利したようです。

彼女は戦闘に加わった時、わずか16歳の少女でした。

②カスティヨンの戦い

1453年のカスティヨンの戦いでは、フランス軍は「大砲」を使った戦法騎兵部隊による側面攻撃でイングランド軍に圧勝しました。

3.百年戦争の結末

1475年のピキニー条約締結により、百年戦争の正式な終結と、イングランド側からフランス側への王位継承権の返還が決まりました。

この百年戦争の結果、戦闘行為のほかに疫病の流行などもあって、フランスは人口の半分を失い、イングランドは20%~33%の人口を失ったそうです。

一方、フランス国民には外国の攻撃から自国を防衛する重要性を認識させ、愛国心を高める効果があったようです。

4.戦争や内戦の原因

(1)王位継承や天皇家、将軍家などの後継者争い

「百年戦争」や「南北朝の動乱」(1336年~1392年)「応仁の乱」(1467年~1477年)などが、これに該当します。

(2)仮想敵を作って人々の不満をそらすため

現在の北朝鮮や中国、韓国の取っているやり方です。経済がうまく行かなくなったり、人々の生活が苦しくなると、時の権力者は人々の不満が「反権力」に向かわないように、架空の敵を作って国民の敵愾心を煽り立て、一時の求心力を得ようとするものです。

(3)民族間の対立や宗教各派の争い・憎しみ合いの歴史から

中東のレバノンやイエメン、シリア、アフリカのソマリア、南スーダンなどでは今も内戦状態が続いていますが、その原因がこれです。

(4)時の権力者の覇権主義や領土拡張欲のため

中国の習近平主席やロシアのプーチン大統領の政治姿勢は、これに該当すると思います。

(5)内戦状態の政府軍・反政府軍それぞれを、対立する他国が支援するため

ロシアがシリアのアサド政権を支援し、アメリカが反政府軍を支援しているのが好例です。

5.戦争や内戦の結末

しかし、どの戦争や内乱にも言えることですが、原因はいろいろあったとしても、戦争や内乱が始まってしまうと、「何のために戦っているのか分からない状態」に陥り、「相手が倒れるか、自分が倒れるまで終わらない、終われない」という「不毛の泥沼の戦い」になるのが普通です。どこかの国(仲裁国)が調停に乗り出しても、なかなかまとまらないことが多いものです。

多くの無辜の民が死傷したりして犠牲になるだけでなく、大量の難民を生み出すなど新たな問題も引き起こします。

私は、中東やアフリカの内戦地区に生まれなかったことに感謝しないではおられません。それとともに、内戦が続く紛争地域の政治家や軍人がなぜ強力なリーダーシップを発揮して国をまとめられないのか不思議でなりません。そういう意味では、「強力なリーダーシップを持った独裁者」(良い意味での)も必要な気がします。