「南北朝時代」をめぐっては、明治時代に「南北朝正閏論争」というのがありましたが、終戦後の昭和20年代に「南朝の皇統を継ぐ」と自称する熊沢寛道という人物が現れ、新聞各紙が大々的に報道したため、GHQは最初「天皇家の本家争い」と勘違いしたという話があります。
今回は「熊沢天皇」とも呼ばれた熊沢寛道についてご紹介したいと思います。
1.熊沢寛道とは
熊沢寛道(くまざわひろみち)(1889年~1966年)は、名古屋市の雑貨商です。大正時代から自らを「南朝の後亀山天皇の末裔」と称していましたが、第二次大戦後にその主張がGHQや米誌の目に留まり、注目を集めた「皇位僭称者」で、「熊沢天皇」や「大延天皇」の名前で知られています。
彼は農家の三男でしたが、熊沢大然の養子となりました。徴兵によって兵役に就いた後、中学に通いつつ浄土宗西山派の布教僧となり、1931年に還俗して名古屋市で洋品雑貨商を開業しました。
養父の熊沢大然は、明治時代に「南朝皇裔承認の請願」を行っていた人物で、「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育ったそうです。
養父は自身が「後亀山天皇の直系子孫」だとして、明治政府に上奏しましたが、ことごとく無視されました。
1920年養父の死後、彼は「南朝第118代天皇として密かに即位した」とのことです。また養父の後を引き継いで、自分が天皇であるとして上申書を要人(近衛文麿・東條英機・荒木貞夫・徳富蘇峰など)や明治神宮に送り続けていました。
2.自称天皇
「学歴詐称」や「官名詐称」などの詐欺的行為がありますが、終戦後間もない頃は「自称天皇」が流行したようです。
戦前は「皇位や皇族を僭称すること」は、「不敬罪」として厳重な処罰対象でしたが、GHQの占領体制下で取締りが弱くなった終戦直後の一時期、「皇位継承者」を自称する者たちが各地に現れ、世間の耳目を集めたそうです。
熊沢はこれらの「自称天皇」の代表的存在です。
3.GHQに昭和天皇の追放を求めて訴え出た「熊沢天皇」
戦災で店を失い、廃業を余儀なくされた熊沢は、1945年11月にGHQ翻訳部を訪れ、GHQのマッカーサー総司令官あての請願書を手渡しました。
彼は系図等を提示しながら、南北朝時代以来の歴史を語り、自分こそ天皇家の正統者であると主張し、現天皇を追放して自分を即位させるように要請しました。その請願書がGHQ翻訳部の担当中尉と親しい雑誌「ライフ」記者の目に留まりました。
応対した係官グランド・グッドマンらは、これらを総司令部に報告しましたが、総司令部は1946年1月、この事実(名古屋市千種区で雑貨商を営む熊沢寛道が後亀山天皇第19代正統者と名乗り出たこと)を、判断抜きで公表しました。
1946年1月にアメリカの記者5名とGHQ将校が5時間取材し、その記事は「ライフ」・AP通信・ロイターなどで報道され、日本の新聞各社が彼を「熊沢天皇」と呼んで取り上げたので、彼は一躍有名人となりました。
日本政府は、彼のことを調査し、「不敬罪」が適用できないか検討しましたが、結局彼を「不敬罪」で起訴することはできませんでした。余談ですが、その後の1946年5月19日の「プラカード事件」では共産党員の松島松太郎が不敬罪で起訴されました。
彼はその後も南朝直系の皇位継承者であると主張し続け、「昭和天皇の退位を求める(現天皇不適格確認)裁判」を起こしましたが、「天皇は裁判権に服さない」として1951年1月に棄却され、それを境に世間から完全に忘れ去られました。