後醍醐天皇と言えば、鎌倉幕府を倒して「建武の新政」を始めたことや、その後「南朝を創設」したことで有名ですが、その生涯はどのようなものだったのでしょうか?
今回は後醍醐天皇についてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.後醍醐天皇とは
後醍醐天皇(1288年~1339年、在位:第96代天皇1318年~1339年、ただし南朝初代天皇1321年~1339年)は、第91代後宇多天皇(1267年~1324年、在位:1274年~1287年)の第二皇子で、母は藤原忠継の娘忠子です。
彼は父の後宇多天皇から愛されず、1298年に異母兄の邦治が第93代後伏見天皇(持明院統)の皇太子となり、1301年に第94代後二条天皇(1285年~1308年、在位:1301年~1308年)(大覚寺統)として即位しています。
長らく「親王宣下」を受けられなかった彼を見かねて、母の忠子は後宇多の父の亀山上皇に親王宣下の後押しを依頼します。
これに対して亀山上皇は美しい忠子を自分の妻にし、後宇多に圧力をかけ、1302年にようやく親王宣下が認められます。
2.両統迭立(りょうとうてつりつ)への不満と倒幕計画
そして1308年に第95代花園天皇(1297年~1348年、在位:1308年~1318年)(持明院統)の即位に伴い、皇太子となっています。
彼は1318年に、花園天皇の譲位に伴って30歳で即位しますが、即位後の3年間は後宇多法皇が院政を行っています。
しかも、後宇多法皇の遺言によって、彼は異母兄の後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王に次ぐ系統(准直系)という位置づけで、「中継ぎ」の「一代の主」という脆弱な立場でした。
このような待遇と両統迭立を認める鎌倉幕府に対して、彼は強い不満を抱き、1324年に倒幕計画を立てます(正中の変)。六波羅探題は天皇の側近日野資朝を処分しますが、彼は無罪として釈放されています。
1326年に邦良親王が亡くなった後は、彼の第一皇子の尊良親王ら4人が皇太子候補になりましたが、最終的に持明院統の嫡子量仁親王(後の光厳天皇)に決まり、譲位の圧力が高まりました。
1331年に彼は再び倒幕計画を立てます(元弘の乱)。しかし側近の密告により事前に発覚して幕府に捕らえられ、隠岐島へ流されます。
この時期、彼の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村ら反幕勢力が各地で活動していました。
そのため彼は諦めず、1333年に名和一族の助けを借りて隠岐島からの脱出に成功し、足利尊氏や新田義貞の助力も得て、再び倒幕に向けて挙兵し、鎌倉幕府を滅ぼしました。
3.建武の新政
1333年、彼は自ら新政(建武の新政)を開始します。彼は「延喜・天暦の治」のような天皇親政を目指しました。彼には、「貴族にも上皇にも、そして幕府にも指図されずに自ら政治を行いたい」という大きな野望がありました。
しかし当時の人々の関心事は、元弘の乱で敵味方に分かれて戦った人々への恩賞や人事でした。彼は、「協力者には恩賞を、敵対した者の領地は没収する」ことを決めましたが、事はそう簡単ではありませんでした。
源平合戦や承久の乱では、「敵」は平氏一族や乱の首謀者など多くの人が納得できる最低限の人々に絞られました。しかし彼は「敵」を広く解釈して「味方」に多くの恩賞を与えようとしました。また、武士への恩賞が少なかったり、幕府が決定した裁判結果を頻繁に覆すなどの問題もありました。
この新政は天皇親政による独裁政治で、武士や貴族を軽視したものであったため、公家も武士も離反し、足利尊氏も離反してしまいます。
このため、後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に足利尊氏討伐を命じ、湊川の戦などが起こります。しかし1336年、足利尊氏方に敗れた彼は和睦し、京都を脱出して吉野に逃れます。
4.南北朝時代の始まり
こうして彼が去ると、尊氏は1336年に北朝の光明天皇を擁立して建武式目を制定し、室町幕府を開きます。
余談ですが、現在の天皇家は「北朝系統」ですが、南朝方として後醍醐天皇に忠義を尽くして湊川の戦で討死した楠木正成の銅像が皇居前広場にあるのも奇妙な話です。これは、明治天皇が何を勘違いしたのか「自分は南朝方である」と発言したことからのようです。
5.後醍醐天皇のエピソード
(1)英雄色を好む
彼は武士の力を借りたとはいえ「幕府を倒した唯一の天皇」で、歴代天皇の中でも抜群の行動力がありましたが、女性関係にも積極的だったようです。30人以上の女性と関係し、少なくとも36人以上の子を産ませています。
歪んだ幼少期を送ったためか、他人の気持ちを思いやる能力に欠けていたようで、臣下の妻を奪うことも平気でやったようです。
(2)学問・芸術への造詣が深い
儒・礼・密・禅・律・神・書・歌・文・楽・茶の全分野で、記念碑的業績を残したと言われています。
(3)禅庭の完成者である夢窓疎石を発掘
夢窓疎石(むそうそせき)は、鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人で、「夢窓派の祖」です。宇多天皇9世孫と称しています。
後醍醐天皇にその才覚を見出されて尊崇を受け、「夢窓国師」の国師号を下賜されています。
夢窓疎石は、後醍醐の後も室町幕府初代将軍の足利尊氏からも崇敬され、禅僧としての業績のほか、禅庭・枯山水を完成し、「世界史上最高の作庭家の一人」とされています。