江戸時代の笑い話と怖い話(その15)。湯屋(銭湯)でのひと言とは?

フォローする



江戸時代の銭湯

現代では、持ち家なら「内風呂」が当然で、賃貸住宅でも「ユニットバス」が付いているのが普通で、「銭湯」に通う人は少なくなり、町の「風呂屋」も年々減少しています。

ただし、新しい業態である近場の温泉とも言うべき「健康ランド」「スーパー銭湯」は増えています。

ところで江戸時代は、「湯屋(ゆや)」と呼ばれる銭湯が大いに繁盛していました。これは江戸に人口が集中し、長屋のように建物も密集していていたので、火事が燃え広がるのを防ぐために、それぞれの家庭で風呂を焚くのが規制されていたからです。その代わりに発達したのが「湯屋」で、湯屋は都会ならではの施設でした。

ちなみに、徳川家康が江戸幕府を開いた1600年代前半にはわずか15万人程度だった江戸は、 18世紀の初め江戸の人口は100万人を超えていました。 同時代のパリの人口は54万人、ロンドンが86万人、北京が90万人と言いますから、江戸は名実ともに世界一の大都市でした。

1.湯屋(銭湯)でのひと言とは

屋内で、しかも現在のような照明器具のない江戸時代の湯屋では、体がぶつかったり、それがもとで喧嘩(湯屋喧嘩)になることも多かったようです。

とりわけ、「柘榴口(ざくろぐち)」(*)と呼ばれる湯舟(ゆぶね)のある部屋への入り口は、蒸気を逃がさないように低く作られており、中には窓もなかったため薄暗かったのです。

(*)「柘榴口」は、鏡を磨くのにザクロの実の汁を用いたことから、「鏡要る(かがみいる)」と「屈み入る(かがみいる)」を掛け合わせたシャレ言葉です。

柘榴口

何かとトラブルが起きやすい場所だったため、湯屋の中では周りにいる利用者たちに声を掛けるマナーが発達していました。

たとえば、柘榴口をくぐり抜けたり、湯舟に入る前には、私の冷えた体でお湯をぬるくしてしまって申し訳ありませんという気持ちで、ひと言「冷え物(ひえもの/ひえもん)でござい」などと先客に断るのがルールでした。

2.湯屋を初体験した田舎の人にまつわる笑い話

一人で入る「据え風呂」(「五右衛門風呂」のような風呂釜タイプ)(下の画像)しか知らない田舎者が湯屋を初体験した笑い話があります。

五右衛門風呂

(1)『三都寄合噺(さんとよりあいばなし)』より「江戸」

片田舎から出てきた三太郎が、生まれて初めて江戸に出て銭湯に行った。すると風呂の中から端唄(はうた)や都々逸(どどいつ)、とっちりとん節など、さも楽しそうに歌っているのが聞こえてきました。

それを耳にした三太郎は、自分の地元の据え風呂とは大違いなのにビックリして気後れ(きおくれ)しました。

こりゃあ、どうやって入ったらいいんだろうとしばらく悩んでいましたが、誰かが入るのを真似してみようと思い、ひとまず服を脱いで人の後にくっついて行きました。

すると、手前の人が湯殿につながる低い入り口をくぐり抜ける時に「はいよ、ご免なさい。私、冷え物(ひえもん)でございます」と口にしていました。

それを真似て「はい、ご免なさい。三太郎でございます」

先の人が口にした「冷え物(ヒエモン)でござい」というのを知らない三太郎は、ヒエモンと耳にして、「ヒ衛門さん」という名前だと勘違いしたのです。湯船につかる前には、自分の名前を名乗るのが礼儀だと思い込んでしまったのです。

『新話違なし(しんはなしちがいなし)』の「猿の知恵」には、「冷え物でござります」と名乗った男に続いて「伊右衛門(いえもん)でございます」と言うよく似た話があります。

(2)『聞童子(きくどうじ)』より「湯屋」

「冷え物」以外の言い回しとして、「ゑだ(枝)がさは(触)りまする」というのがあります。

これは、自分の体を木に見立てて、近くの人と触れやすい手足を「枝」と表現したものです。

田舎の人が、子供を連れて銭湯で湯舟に漬かっていました。そこへ外から「ちょっとご免なさいね。枝が触りますから」と声が掛かりました。

すると田舎から来た父親の方が、子供に声を掛けました。「これこれ、こっちに寄りなさい。そこを植木が通るから」

なお、生粋の江戸っ子でも湯舟に漬かる時に「田舎者でござい」などと断ることもあったようです。これは「慣れていないので、もし失礼があったらご免なさい」という気持ちを込めたひと言です。

3.江戸時代の湯屋は、「男女混浴」!?

江戸時代の銭湯・混浴

余談ですが、江戸時代の湯屋は、「男女混浴」でした。現代の我々の感覚では驚きですが、当時としては、海水浴場やプールのような感じだったのでしょうか?

江戸時代初期の銭湯は、町に女性の数が極端に少なかったことや、遊女のような湯女(ゆな)のいる場所だったため、女性客は皆無でした。

しかし「湯女風呂」が禁じられて全ての湯女が吉原へ送られると、銭湯に女性客がやってくるようになりました。銭湯側はいきなり風呂を拡張することもできないので、多くの銭湯は「入り込み湯(いりこみゆ)」と呼ばれる混浴となりました。

女性たちも多くは混浴が普通だった田舎から出て来ていたため、抵抗は少なかったようです。男女だけでなく、武士や町人という身分の差もなく混浴でした。裸になれば本音の交流が楽しめたということでしょう。銭湯が「社交場」や「お見合いの場」だったという話も聞いたことがあります。

「男女混浴」は、江戸末期まで続きました。採光も何もなく、柘榴口の中は暗く、風紀を乱すものも少なくなかったのでしょう、何度か禁止令が出されますが実際はなかなか改まらず、老中水野忠邦による「天保の改革」(1841年~1843年)の際、厳しく取り締まりが行なわれました。その結果、浴槽の中央に仕切りを取り付けたり、男女の入浴日時を分けたり、また男湯だけ、女湯だけという銭湯も現われました。

時代は移って明治の世、明治政府は、幕府以来の旧弊として、「男女入り込み湯」はとくに厳しく禁止しました。守らない業者は営業停止処分にしたり、たびたび通達を出します。しかし、長年の風習はそう簡単には改まりません。実際に混浴がなくなるのは、明治23年(1890年)の、子どもでも7歳以上の混浴は禁止という法令が出されて以降のことです。

4.銭湯にまつわる「字謎」

最後に、銭湯にまつわる「字謎(じなぞ)」(文字の判じ物)をご紹介します。

江戸っ子は遊び心がいっぱいだったようです。

今では少なくなりましたが、昔ながらの「銭湯」の入り口横に、木製の看板に平仮名の「わ」や「ぬ」が書かれているのを見かけたことはありませんか?

銭湯・わ銭湯・ぬ

「わ」は、板に“わ”と書かれているので→“わ”+“いた”=わいた(湯が沸いた)ということで銭湯営業中。「ぬ」は→“ぬ”+“いた”=ぬいた(湯を抜いた)なので、銭湯閉店です。

駄洒落が好きだった江戸っ子はよくとんちが利いた看板を掲げていたそうで、例えば将棋の“歩”の駒の看板は、敵陣に入ると“金”になるので『質屋』さん。

銭湯の場合は 弓矢の形の看板です。矢は“弓射る(弓を射る、ゆいる)”なので→“湯入る”ということです。

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村