「史上最大の海戦」と呼ばれた「レイテ沖海戦」とは?

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レイテ沖海戦・戦艦武蔵

太平洋戦争の激戦については、「ミッドウェー海戦」「ガダルカナル島の戦い」「インパール作戦」「アッツ島の戦い」などの名前だけは知っていても詳しい内容を知らない人が多いため、前に記事を書いています。また「太平洋戦争の仕掛人はアメリカのルーズベルト大統領」「太平洋戦争の原因と真珠湾攻撃」や「神風特別攻撃隊(特攻隊)」「玉砕」を紹介する記事も書きました。

そこで今回は、上記の戦いと同様の激戦だった「レイテ沖海戦」についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「レイテ沖海戦」とは

レイテ沖海戦地図

第二次世界大戦時、アメリカやイギリスと並んで「世界三大海軍」に数えられていたのが、大日本帝国の海軍です。冒頭の絵は戦艦武蔵ですが、「レイテ沖海戦(Battle of Leyte Gulf)」で米軍機の集中砲火を浴びて撃沈されました。

戦艦大和(下の写真)も「レイテ沖海戦」に参戦し、米軍機の砲撃で一部損傷しましたが、「神風特別攻撃隊」のお陰で大きな被害は免れました。

レイテ沖海戦で米軍の砲撃を受ける戦艦大和

その最強海軍の一つである大日本帝国海軍が事実上壊滅した「史上最大の海戦」と言われているのが「レイテ沖海戦」です。

第二次世界大戦中の1944年10月23日から25日にかけて、フィリピンの周辺海域で起こった、アメリカ・オーストラリア連合国軍と、日本との戦闘を「レイテ沖海戦」と言います。

「シブヤン海海戦」、「スリガオ海峡海戦」、「エンガノ岬沖海戦」、「サマール沖海戦」など一連の海戦を合わせた総称で、当時は「フィリピン沖海戦」と呼ばれていました。その規模の大きさや戦域の広さから「人類史上最大の艦隊戦」と言われています。

連合国側の主な目的は、日本の勢力下にあったレイテ島の奪還です。一方で日本側の目的は、連合国軍の上陸を阻止して本土への侵攻を食い止めることです。

連合国軍の戦力は、航空母艦17隻、護衛空母18隻、戦艦12隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦15隻、駆逐艦141隻、航空機約1000機、補助艦艇1500隻という圧倒的なものです。

これに対し日本軍は、稼働できるほぼすべての艦艇を投入しましたが、航空母艦4隻、戦艦9隻、重巡洋艦13隻、軽巡洋艦6隻、駆逐艦34隻、航空機約600機と、その差は歴然としていました。

一連の海戦の結果、日本軍は連合国軍に、航空母艦1隻、護衛空母2隻、駆逐艦2隻の損失を与えることができましたが、日本軍は4隻の航空母艦が全滅し、不沈艦といわれていた「武蔵」をはじめとする戦艦3隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻が沈没しています。戦死者は約7500人と、事実上壊滅してしまいます。

「レイテ沖海戦」に敗れて以降、日本軍は大規模な戦闘をおこなうことが不可能な状態となったのです。

連合国軍のフィリピン侵攻への対抗策として日本が計画したのが、「捷一号作戦」です。これは、航空兵力によって連合国軍の機動部隊を牽制し、その隙を突いて戦艦を主力とする水上部隊が突撃して敵の艦隊を殲滅、上陸を阻止しようとする作戦でした。

1944年10月17日、連合国軍がレイテ湾に侵入したのを受け、日本軍は「捷一号作戦」を発令します。栗田健男中将、西村祥治中将、志摩清英中将、小沢治三郎中将らに率いられた各艦隊が、レイテ湾へ向けて進軍を始めます。

10月24日、栗田健男中将率いる主力艦隊は、シブヤン海にさしかかったところで連合国軍に発見され、たび重なる空襲を受けた結果、戦艦「武蔵」を撃沈されてしまいました。

またスリガオ海峡では、西村祥治中将と志摩清英中将が率いる艦隊が連合国軍に発見されてしまいます。攻撃が栗田の艦隊に集中しているうちに、西村の艦隊は単独でレイテ湾へ突入。戦艦6隻を含む計79隻もの大艦隊と戦い、壊滅しました。

これを受けて志摩はレイテ湾への突入を断念し、戦場からの離脱を図りますが、連合国軍の追撃を受けてこちらも壊滅的被害を受けることとなります。

10月25日、エンガノ岬沖では、航空兵力によって敵の機動部隊を牽制するという役目を担った小沢治三郎中将率いる機動部隊を、連合国が襲撃。かつて世界最強を誇った日本海軍機動部隊は壊滅してしまいます。

しかし小沢らが囮となって時間を稼いでいる間に、栗田の艦隊がレイテ湾への突入に成功。サマール沖の海戦で、戦艦「大和」をはじめとする主力艦隊を用いて攻撃し、連合国軍の護衛空母群を蹴散らすことに成功しました。

栗田の艦隊は前日の戦闘で撃退したと考えられていたため、連合国軍は突然の事態にパニックとなり、多数の損害を被ることになりました。

神風特別攻撃隊の突撃

この戦いにおいて、日本軍は初めて「神風特別攻撃隊」、通称「特攻隊」を投入しています。栗田の艦隊を攻撃しようとしていた連合国軍の護衛空母群に向かっていき、文字どおり身を挺して栗田艦隊を守りました。

しかしサマール沖の海戦後、栗田は「捷一号作戦」の目的である連合国軍の上陸部隊への攻撃をおこなわず、「北方の敵機動部隊を攻撃する」と反転してしまうのです。結局目標としていた機動部隊を発見することはできず、そのまま撤退。こうして日本海軍の最後の組織的戦闘となった「レイテ沖海戦」は終焉を迎えました。

レイテ沖海戦地図

栗田の判断は「謎の反転」「栗田ターン」と呼ばれ、その理由や結果が議論を巻き起こしています。

2.「レイテ沖海戦」の背景

「レイテ沖海戦」では、「マリアナ沖海戦の大敗」や「台湾沖航空戦の誤報」などの背景が挙げられます。

また、フィリピンの防衛戦によって、日本軍は多くの将兵の戦死者を出すなど苦戦を強いられる結果となり、日本軍上層部による「艦隊決戦主義」が「レイテ沖海戦」の勝敗に少なからずも関わっていたと言えます。

1944年(昭和19年)6月19日に、グアム、サイパンをはじめとするマリアナ諸島沖合で日本とアメリカの機動部隊が激突したのが「マリアナ沖海戦」です。

マリアナ諸島がアメリカ軍に奪われることは、日本本土も戦火をさらされることになるため「本土防衛の最終ライン」となっていました。しかし、このわずか2日の戦いで将来を担う若者たち3,000人以上が戦死したとされ、日本軍は惨敗する結果となりました。

連敗が続く日本軍でしたが、同年の10月、台湾沖航空戦において、日本航空部隊によりアメリカの航空母艦やその他戦艦など多数に打撃を与えたとの大戦果が報じられました。ところがこの戦果は、攻撃時が夜間であったことや搭乗員の経験の不足などから誤認された戦果であり、結果的に「幻の大戦果」でした。

そして、「大本営海軍部」はこの事実を事前に知りながら、陸軍には伝えず当初の作戦を変更しフィリピン・レイテ島に兵力を送り込むに至ったのです。

大戦果を信じた大本営は、フィリピン防衛を担当していた第14方面軍司令官である山下奉文大将の反対を押し切り、急遽これまでの作戦を変更して レイテ島にフィリピン防衛のため陸軍も参加させたました。

このことにより、ルソン島侵略作戦に配置されるはずだった多くの陸軍はレイテ島に送られ、日本連合軍は苦戦を強いられることとになります。ルソン島侵略作戦にも遅れをとり、約2ヶ月の激闘となったレイテ島内での戦闘では日本軍が敗北。多くの将兵が戦死、または餓死したとされれいます。

「艦隊決戦主義」とは、艦隊同士の消耗戦となることを想定内において、戦艦などの大型艦とそれによって可能となる大型艦載砲の破壊力を重要とみなす戦略思想です。その戦略は、可能な限り多くの戦力(艦艇)を集結させて艦隊を構成し、敵の海軍を壊滅へと追い込むものです。

栗田中将も必然的に、上層部によるこの「艦隊決戦主義」と「大艦巨砲主義(大口径の主砲と厚い装甲をもつ大型戦艦が必要とする考え)」による思想を結びつけ、北方におけるハルゼー主力艦隊を叩こうとしたと考えられます。

3.「レイテ沖海戦」の敗因

日本の「レイテ沖海戦」の敗因として、小沢の率いる艦隊の誘引が1日遅れたため、突入部隊が10月24日に発見され、襲撃を受けて甚大な損害を受けたことや、栗田と西村、志摩の連携がとれておらず、突入がバラバラになってしまったことなどが挙げられます。

そして最大の敗因とされているのが、先述した栗田健男の「謎の反転」です。

味方の機動部隊を囮にし、多くの損害を出しながらも連合国軍の護衛空母群を突破。あとはほぼ丸裸状態の上陸部隊を攻撃すれば作戦成功という段階で、なぜ栗田は艦隊を反転させてしまったのでしょうか。

彼の判断をめぐっては、現在までさまざまな議論がされ、なかには「栗田中将が臆病風に吹かれた」など批判の声もありました。

彼が反転を決断した理由のひとつが、とある電文です。栗田艦隊の北方100kmの地点に敵の機動部隊がいると伝えられ、栗田は反転してこの機動部隊を叩くことにしたのです。

ちなみに栗田は終戦後、取材に対して自分自身の判断で決定したと述べていますが、実際には参謀たちによる会議がおこなわれ、全員一致で決められたことがわかっています。

4.「レイテ沖海戦」に対する海外の反応

栗田の判断について、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルは著書のなかで、「この戦場と同様の経験をした者だけが、栗田を審判することができる」と擁護しています。

また、艦隊から海上に投げ出された連合国側の乗組員に日本軍が食糧や水を差し入れした、沈みゆく連合国軍の駆逐艦を日本の艦長が敬礼をしながら見送ったなど、武士道をもった戦い方がアメリカからも評価されました。

なかでも各国に強烈な印象を与えたのが「特攻隊」です。レイテ島への上陸作戦を実行したレイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なもの」と表現し、「敵が100機の航空機を保有している場合、自殺的急降下攻撃に用いて艦船100隻を炎上させるかもしれない」と考えたそうです。

連合国軍第3艦隊の司令官を務めていたウィリアム・ハルゼー・ジュニアは、「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と証言しています。



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