チューリングの方程式とは?生物の模様は数式で決まるとは本当か?

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豹シマウマ

シマウマ、キリン、豹などがもつ独特の繰り返し模様は、いったいどうやって描かれるのでしょうか?

他の人たちが忘れていた理論に注目し、自然界を自分の目でもう一度見てみたら、思いがけないところに理論にぴったりの現象があった」というのが、「コロンブスの卵」ならぬ、「チューリングの卵」です。

皆さんは「チューリングの方程式」(「チューリング・パターン」)というのをご存知でしょうか?

余り耳慣れない言葉ですが、実は「生物の模様」はこの「チューリングの方程式」(「チューリング・パターン」)という数式によって決まるようなのです。

QRコード色盲検査表

人工的なものでは「QRコード」や「色盲検査表」のような複雑な模様がありますが、自然界にも、豹やキリン・シマウマのように模様のある動物がたくさんいますね。

そこで今回は、「チューリングの方程式」(「チューリング・パターン」)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.「チューリングの方程式」(「チューリング・パターン」)とは

動物の皮膚に模様を描くためには、何らかの位置情報が必要です。しかし皮膚の内側を探しても、模様に対応する構造はほとんどの場合存在しません。ではどこから皮膚の細胞は位置情報を得ているのでしょうか? それとも自ら位置情報を作り出しているのでしょうか?

皮膚の模様自体は、胎児期においてすでに皮膚の細胞よりはるかに大きいので、個々の細胞にとっては、自分が模様のどの部分にいるのか知ることは困難です。皮膚の細胞に、「何の情報もなしに模様を作れ」というのは、まるで甲子園の観客に、いきなり「PL学園の人文字を作れ」と命令するようなもので、どう考えても不可能な感じがします。ところが、これが意外にも理論的には可能なのです。

1952年に、イギリスの代表的な数学者でコンピュータ科学の生みの親でもあるアラン・チューリングが、「2つの仮想的な化学物質が、ある条件を満たして互いの合成をコントロールしあうとき、その物質の濃度分布は均一にならず、濃い部分と薄い部分が、空間に繰り返しパターン(反応拡散波)を作って安定する」ことを、数学的に証明しました。

「チューリング・パターン(Turing Pattern)」とは、イギリスの数学者アラン・チューリングによって1952年に理論的存在が示された自発的に生じる空間的パターンです。

「チューリングの方程式」は、2変数の連立偏微分方程式です。

生き物の体の色が、細胞の中にある二種類の化学物質U、Vからできているとしましょう。黄色と青色、白と黒でもなんでも良いです。

2成分の反応拡散方程式系は次のように表されます。

簡単に言えば、「時間変化=拡散+反応」というのが反応拡散方程式の前提とするメカニズムです。「化学物質は、濃いところから薄いところへ拡散し、また化学反応により増減します」というだけのことです。

時間項と呼ばれ、化学物質の濃度の時間変化率を示しています。

拡散項と呼ばれ、濃度が均一となるように広がる仕組みを示しています。係数のは拡散係数と呼ばれ、拡散のスピードを表します。

f(u,v)反応項。化学物質が環境によって生成されたり、反応によって減少したりするようすを説明します。

このような形の方程式は一般に「反応拡散方程式」と呼ばれます。チューリングは1952年、2つの拡散係数が大きく異なり反応項が一定の条件を満たすとき、上記の方程式系で空間的パターンが自発的に生じることを証明しました。

このような自発的パターン形成は特定の波数の不安定化が原因ですがこの不安定性を「拡散誘導不安定(もしくはチューリング不安定)」と呼びます。

チューリングの関心はこの方程式系を用いて生物の形態形成を説明することにありましたが、長らく生物学に影響を与えませんでした。

しかし1995年に生命科学者の近藤滋(1959年~ )によって「タテジマキンチャクダイ」(下の写真)の体表面の模様がチューリングパターンであることが実験的に確認されるなど、近年再評価されています。

タテジマキンチャクダイ

<「チューリング・パターン」の例>

チューリング・パターン

チューリング・パターン

今のところ、すべての生物の模様が「チューリングの方程式」(「チューリング・パターン」)で説明できるというわけではないのかもしれませんが、さらに研究が進むことを期待したいものです。

2.アラン・チューリングとは

チューリング

アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathison Turing)( 1912年~1954年)はイギリスの天才数学者、暗号研究者、計算機科学者、哲学者です。

電子計算機の黎明期の研究に従事し、計算機械チューリングマシンとして計算を定式化して、その知性や思考に繋がりうる能力と限界の問題を議論するなど情報処理の基礎的・原理的分野において大きな貢献をしました。

また、偏微分方程式におけるパターン形成の研究などでも先駆的な業績があります。

<来歴>

経歴・業績の基盤となる出発点は数学でしたが、第二次世界大戦中に暗号解読業務に従事しました。また黎明期の電子計算機の開発に携わったことでコンピューター・情報処理の基礎理論である計算可能性等に関する仕事をすることとなりました。

第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校で、ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となりました。

ドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発しました。

チューリングは解読不可能と言われたナチス・ドイツの暗号エニグマを破り連合国を勝利に導きました。しかしその業績は軍事機密ゆえに戦後も長く封印され、その後チューリングが同性愛者として逮捕されたことも相まって評価されることはありませんでした。

チューリングの業績を紹介する時、チャーチ=チューリングのテーゼと計算可能性理論への貢献がまず第一に挙げられます。

特に「アルゴリズム」を実行するマシンを形式的に記述したものの一つである「チューリングマシン」にその名を残しています。

また、任意のチューリングマシンを模倣(エミュレート)できる「万能チューリングマシン」は、同分野の基本的な定理のひとつである停止性問題の決定不能性定理と関係します。

さらに、理論面だけではなく、実際面でもコンピュータの誕生に重要な役割を果たしため、「コンピュータ科学の父」と呼ばれます。またチューリング・テストなどから「人工知能(AI)の父」とも言われます。

がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあったといわれています。また、アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム障害・ASD)を示唆する特徴の多くを示しているとの指摘もあります。

戦後は、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE (Automatic Computing Engine) に携わりました(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動しています)。

1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事し、「数理生物学」に興味を持つようになります。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察された「ベロウソフ・ジャボチンスキー反応」のような発振する化学反応の存在を予言しました。

3.生命科学者の近藤滋とは

1959年、東京都に生まれた近藤は、高校時代は『サイエンティフィック・アメリカン』を読んでおり、遺伝子に関する実験も経験しました。東京教育大学付属駒場高等学校を卒業し、東京大学に進学。数学方面を目指していましたが、解析学を苦手としたため生物方面に転身。1982年3月、東京大学理学部生物化学科を卒業しました。

1984年3月に大阪大学医学部医科学修士課程を修了し、同年4月に同大学院医学研究科博士課程に入学。大阪大学時代から本庶佑のもとで研究に取り組んでおり、翌年の1985年4月から京都大学大学院医学研究科博士課程に転入。免疫学に関する研究に取り組みました。

1988年3月に博士課程を修了し、医学博士の学位を取得しました

1988年4月から1990年9月まで日本学術振興会特別研究員として、東京大学医学部第一生化学教室に所属。1990年10月からは日本学術振興会海外特別研究員やスイスナショナル基金研究員として、スイスのバーゼル大学バイオセンターにおいて細胞生物学に取り組みました。

スイスではヴァルター・ゲーリングに師事。ゲーリングの助言でチューリング理論に詳しいドイツのハンス・マインハルトと出会います。さらに1991年に『ネイチャー』に実際の化学反応として反応拡散波が起こることを示した記事が掲載され、近藤はそれが生物でも起こることを実証しようと決意しました。

1993年4月から京都大学遺伝子実験施設の助手に着任。1995年8月からは本庶佑率いる同大学医学部医化学1講座の講師に就任。大学で免疫学の研究をしながら、自宅に水槽を設置してタテジマキンチャクダイを飼育。観察を続けた結果、反応拡散方程式のシミュレーション通りにタテジマキンチャクダイの模様が変化することを確認しました。

生物の模様にチューリング・パターンがあることを証明した論文は1995年の『ネイチャー』に掲載され、タテジマキンチャクダイの写真がその号の表紙を飾りました。