江戸川柳でたどる偉人伝(平安時代①)坂上田村麻呂・弘法大師・小野小町・在原業平・菅原道真・平将門・小野道風

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坂上田村麻呂

「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。

今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。

そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。

川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。

第3回は「平安時代①」です。

1.坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)

坂上田村麻呂・月岡芳年筆

・鬼どもを田楽(でんがく)にする雨が降り

・鈴鹿山(すずかやま)雹(ひょう)だ雹だと初手(しょて)は言い

・鈴鹿山外(ほか)の観音ではいけず

・観音の千の矢先(やさき)に五百うそ

・鈴鹿山五百矢先でいいところ

坂上田村麻呂(758年~811年)は、平安時代初期の武将で、「征夷大将軍」です。蝦夷(えぞ)征討や「薬子(くすこ)の変」の鎮圧に功績がありました。清水寺を創建したと伝えられています。

坂上田村麻呂は、平安初期の武将で、武術に優れ功績をあげた人ですが、さまざまな物語が伝承されています。

謡曲『田村』では、勅命によって伊勢国鈴鹿の山中に棲む鬼を退治に行くのですが、その時、信心している清水寺の本尊千手観音が飛んできて、千の手で矢を雨霰(あめあられ)と降り注ぎ、鬼を全滅させたという物語が有名です。

最初の句は、千手観音のありがたいご利益(りやく)で、矢が雨のように降り注ぎ、鬼どもを「田楽刺し」にしたことを詠んでいます。

2番目の句は、鬼どもは最初のうちは雹が降ってきたぐらいに思っていただろうと想像しています。

3番目の句は、ご本尊が千の手がある千手観音だからよかったが、別の観音だったら役に立たなかっただろうと皮肉っています。

4番目と5番目の句は、千の手があるといっても、弓で矢を射るには両手を使うわけだから、一度に五百の矢しか射られないはずだという理屈を詠んでいます。

千のうち五百は嘘で、「五百の矢先」と言うべきところだと皮肉っています。たしかにそうですよね。

2.弘法大師(こうぼうだいし)

空海

・弘法も一度は筆で恥をかき

・仮名(かな)は重宝(ちょうほう)だが芋には困らせ

・弘法は一村(ひとむら)おなら封じ込め

弘法大師(774年~835年)とは、言うまでもなく「空海」としてもよく知られている真言宗の開祖です。平安時代初期の僧で、日本真言密教を大成し、高野山金剛峰寺を開創しました。

弘法大師には、五本の筆で同時に文字を書いた神業(かみわざ)で「五筆和尚(ごひつわじょう)」と呼ばれたという伝説があります。

五筆和尚

弘法大師にまつわることわざに、「弘法にも筆の誤り」というのがあります。どんなにその道の名人でも、失敗することがあるという意味ですが、そのもとになった話が『今昔物語』に出ています。

應天門の額應天門

弘法大師は嵯峨天皇からの勅命を得、大内裏應天門の額を書くことになりましたが、「應」の一番上の点を書き忘れ、「まだれ」を「がんだれ」にしてしまいました。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれています。このことわざには、現在、「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」という意味だけが残っていますが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれています。

最初の句は、この「應天門」の書き損じのことを詠んだものです。

2番目の句は、「平仮名(ひらがな)は弘法大師の考案になるという伝説」によるものです。そう言えば「いろは歌」を作ったのも弘法大師と言われていますね。

仮名という便利なものを作っていただいて重宝しているというのはわかりますが、「芋には困らせ」とはどういうことでしょうか?

これはあまり知られていない伝説だと思いますが、弘法大師が旅先の村で芋を所望した時、村人が「この芋は石のように固くて食べられない」と嘘をついて断ったところ、それ以後、その村の芋が全て石になってしまったという伝説のことを詠んでいるのです。

3番目の句は、後に述べた伝説を踏まえて、村中、芋が食べられなくなってしまったので、当然おならも当然出なくなっただろうと想像しているのです。

3.小野小町(おののこまち)

小野小町前向き

・浮き草を古歌(こか)だと根無し事(ねなしごと)を言い

・和歌の洗濯濡れ衣(ぬれぎぬ)の垢(あか)も落ち

・洗濯が落ちて黒主恥をかき

・黒主(くろぬし)はそっとてるてる法師(ぼうし)をし

小野小町(825年?~900年?)は平安時代前期(9世紀ごろ)の女流歌人で、「六歌仙」「三十六歌仙」の一人です。「古今和歌集」の代表的歌人で、恋愛歌に秀作があります。

安倍清行(825年~900年)、小野貞樹(生没年不詳)、文屋康秀(?~885年?)、凡河内躬恒(859年?~925年?)、在原業平(825年~880年)、僧遍照(816年~890年)らとの歌の贈答があったことから、文徳・清和・陽成朝(850~884年)が活動期と考えられています。

出自は、系図集「尊卑分脈」によれば、「小野篁(802年~852年)の息子である出羽郡司・小野良真の娘」とされていますが、はっきりしません。年代的には「小野篁の娘」と言った方が合っているような気がします。身分についても、「更衣」や「采女」とする説もありますが、はっきりしていません。

小野氏出身の宮廷女房と見られ、仁明(にんみょう)天皇(810年~850年)と文徳(もんとく)天皇(827年~858年)の後宮に仕えていたようです。宮廷貴族や歌人との交流や数々の恋愛があったことは、残された和歌などから間違いはないと思われます。

平安中期から、その歌才、美貌、老後などについて様々な伝説が生まれています。これだけ有名な歌人の生没年や出自・墓所などがはっきりしておらず、多くの伝説と作った歌だけが後世に残っているのは、不思議な気もします。

小野小町には、さまざまな伝説がありますが、今回は謡曲『草紙洗小町(そうしあらいこまち)』にまつわる句をご紹介しています。

宮中の歌合せで、小町の相手と決められていた大伴黒主(おおとものくろぬし)は、小町の家に忍び込んで、小町が披露する予定の和歌「蒔(ま)かなくに何を種とて浮草の波のうねうね生ひ茂るらん」を盗み見し、『万葉集』に書き込んでおいて、小町が歌を披露した時、「それは『万葉集』にある古い歌だ」とケチをつけました。

最初の句は、「浮草」の歌を古い歌だと根拠のないことを言ったことを詠んでいますが、「浮き草」と「根無し」が縁語となっています。

小町は驚きますが、よく見るとそこだけ墨色が違うなど怪しいので、許可を得て洗ってみると、きれいに消えたので、黒主の陰謀が露見したことを詠んだのが2番目の句です。

黒主が大恥をかいたことを詠んだのが3番目の句です。

謡曲『草紙洗小町』では、恥をかいた黒主が自害しようとしますが、帝の取りなしで「小町黒主遺恨なく」終わったことになっています。

しかし川柳作家はこれでは納得せず、実は黒主はいつまでも根に持っていて、後日小町が雨乞いの歌を詠んだ時に、ひそかに「てるてる坊主」を作って失敗を念じただろうと想像したのが4番目の句です。

4.在原業平(ありわらのなりひら)

在原業平

・なるほどと指を折らせるかきつばた

・中将が折るまでただのかきつばた

・手で折るとぶちのめされるかきつばた

・かきつばた二十六字に骨を折り

在原業平(825年~880年)は、平安時代初期の歌人で、阿保(あぼ)親王の第五子です。六歌仙・三十六歌仙の一人で、『伊勢物語』の主人公とされています。

官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将で、在原氏の五男であったことから在五中将とも呼ばれました。

在原業平には「芥川」で鬼に出逢う話などたくさんのエピソードがありますが、最も有名なものが「かきつばた」の歌の話です。

かきつばた

業平が東下り(あずまくだり)の途中で、三河国八橋(やつはし)に着いたところ、たくさんの「かきつばた」が咲いていました。

それを見て一行の一人が、「かきつばたの五文字を五七五七七の頭に置いて歌を詠め」と言ったので、

ら衣 つつなれにし ましあれば るばるきぬる びをしぞ思ふ

と詠んだという話です。いわゆる「折句(おりく)」ですね。

この歌を見た人は、「か、き、つ、ば、た」と指を折りながら読んで、なるほどと感心しただろうと想像したのが最初の句です。

在五中将(業平のこと)が折句にして有名になるまでは、ただの「かきつばた」だったというのが2番目の句です。

「折句」なら大丈夫ですが、他人の家に咲いている「かきつばた」を手で折り取ったりすれば、持ち主にぶちのめされること必定だというのが3番目の句です。

「かきつばた」の五文字は決まっているので、三十一字の和歌にするために、残り二十六字を骨を折って考えることになるというのが4番目の句です。。「骨を折る」は「折句」の縁語です。

5.菅原道真(すがわらのみちざね)

菅原道真雷神となる

・京都では梅を盗まれたと思い

・筑紫(つくし)からごろつきの来る紫宸殿(ししんでん)

・僧正の七尺脇へ一つ落ち

・よいしめりなどと時平(しへい)も初手(しょて)は言い

・からりっと晴れて時平(しへい)を取り集め

菅原道真(845年~903年)は、平安時代初期の公卿・学者です。藤原時平の讒言によって太宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されました。死後、学問の神様・天満天神と崇(あが)められています。

菅原道真についての川柳は多数ありますが、今回は太宰府への左遷を恨み、雷神(らいじん)となって復讐する話の句をご紹介します。

左大臣藤原時平による讒言で、道真は筑紫・太宰府へ左遷されますが、その際、邸の梅の木が彼を慕って太宰府へ飛んで行ったという「飛び梅伝説」があります。

一夜のうちに梅が無くなったのを見た京都の人は、まさか九州へ飛んで行ったとは想像できず、盗まれたと思っただろうと想像したのが最初の句です。

大宰府で亡くなった道真は、怒りのあまり雷神となり、復讐のために内裏(だいり)を襲います。これを詠んだのが2番目の句です。

狙うは時平ただ一人で、調伏(ちょうぶく)のため比叡山から招かれた昔の師・法性坊(ほっしょうぼう)には落雷しませんでした。これを詠んだのが3番目の句です。

時平も、最初は「いいおしめりだ」などとのんびりしていましたが、やがて雷に打たれてしまいました。これを詠んだのが4番目の句です。

雷の去った後、バラバラにされた時平の死骸を取り集めることになりましたが、これを詠んだのが5番目の句です。

6.平将門(たいらのまさかど)

平親王平将門・豊原国周

・裾(きょ)を踏んで将棋倒しの相馬公家(そうまくげ)

・よこしまの道にくわしき相馬公家

・股引(ももひき)の大宮人(おおみやびと)は相馬公家

・恐ろしさ七つに見えるつなぎ馬

・米噛み(こめかみ)以来評判の俵なり

平将門(903年?~940年)は、平安時代中期の武将です。坂東八ヵ国の独立を宣言し、「新皇(しんのう)」と称して内裏を置きましたが、翌年藤原秀郷らに滅ぼされました。「怨霊伝説」でも有名です。

平将門・葛飾北斎画

平将門は下総を本拠とする武将でしたが、勢力拡大を続けて、ついには下総国猿島(さしま)郡に御所を造営し、新皇を自称するに至ります。

御所なので「公家」もいるわけですが、なにしろ田舎者ですから「相馬公家」と嘲(あざけ)られ、最初の句のように、裾を踏んで将棋倒しになったりしただろうとからかわれる始末です。

「敷島の道」(和歌の道)はだめだが、「邪(よこしま)の道」(正しくない道)には詳しいだろうと想像したのが2番目の句です。「大宮人」(宮中に仕える人)も、「百敷(ももしき)の」(大宮人にかかる枕詞)ではなく、「股引の」大宮人だと揶揄したのが3番目の句です。

この将門の討伐に向かったのが藤原秀郷(別名:俵藤太)です。しかし将門には六人(七人とも)の「影武者」がいたそうで、なかなか手強い(てごわい)相手です。また「繋馬(つなぎうま)」は将門の家紋(下の画像)です。これを詠んだのが4番目の句です。

相馬繋馬紋

秀郷は、将門の弱点が「米噛み」であることを探り出し、一矢で射抜いて倒したと言われています。米噛みを射て将門を討ち取って以来、秀郷(俵藤太)の評判が高くなったことを詠んだのが5番目の句です。

「米」と「俵」が縁語になっているのと、子供の玩具「評判の俵」を詠み込んだのがミソです。

7.小野道風(おののとうふう)

・ぴょいぴょいぴょいに道風はなあるほど

・道風は飛んだものにて悟るなり

・ふるえたも投げたも筆に名を残し

・武者(むしゃ)と筆意(ひつい)はふるえても疵(きず)でなし

小野道風(894年~966年)は、平安時代中期の書家で、小野篁(おののたかむら)の孫です。

小野道風は、「三蹟(さんせき)」の一人にあげられる能書家ですが、柳に飛びつく蛙の姿を見て、諦めない努力の大切さを悟ったという話が有名で、「花札」の絵柄になったり、歌舞伎の『小野道風青柳硯(あおやぎすずり)』にも取り入れられています。

花札・小野道風

蛙が柳にぴょいぴょいぴょいと何度も飛びつく姿を見て「なあるほど」と思ったのだろうというのが最初の句です。そのまんまと言えばそれまでですが・・・

柳の枝めがけて飛んだ蛙とは、「とんだもの」で悟ったものだというのが2番目の句です。

道風には別の伝説もあります。道風の独特の筆跡を「震い筆」(震え筆)と言うことがありまが、道風が弘法大師の書いた額にケチをつけたところ、罰が当たって中風(ちゅうぶう)になり、手が震えるようになって筆跡も変わってしまったという伝説です。

3番目の句の「投げた」のは、弘法大師で、額の文字に点を書き落としたのに気が付き、筆を投げて補筆したという話を踏まえています。

普通「震える」のは良いことではないが、武者震いと震い筆は疵にはならないというのが4番目の句です。

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