日本語の面白い語源・由来(せ-③)雪駄・世間・正鵠を射る・倅・是非とも・世紀・芹・節分草

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雪駄

日本語の語源には面白いものがたくさんあります。

前に「国語辞典を読む楽しみ」という記事を書きましたが、語源を知ることは日本語を深く知る手掛かりにもなりますので、ぜひ気楽に楽しんでお読みください。

以前にも散発的に「日本語の面白い語源・由来」の記事をいくつか書きましたが、検索の便宜も考えて前回に引き続き、「50音順」にシリーズで、面白い言葉の意味と語源が何かをご紹介したいと思います。季語のある言葉については、例句もご紹介します。

1.雪駄(せった)

雪駄

雪駄」とは、竹の皮の草履の裏にを張った履物です。

古く、雪駄は「せきだ(席駄)」と呼ばれていました。

「席」は「むしろ」や「竹や草で編んだ履物」の意味で、「駄」は下駄などの「駄」と同じく「履物」の意味です。

この「せきだ」が「せちだ」「せっだ」「せった」と変化し、漢字には「雪駄」の字が当てられました。

「雪」の字が当てられたのは、音変化に伴なったことのほかに、湿気を通さず雪の上でも歩ける丈夫さからともいわれます。

湿気を通さないよう草履の裏に革を張ったのは、千利休による考案と伝えられます。

かかとに「ちゃらかね」と呼ばれる金具(尻鉄)が打ちつけられたのは元禄年間以降のことで、それ以後、「雪駄」と言えば裏に金の打ってあるものをいうことが多くなりました。

2.世間(せけん)

渡る世間は鬼ばかり

世間」とは、人が互いにかかわりあって生活をしている場。この世の中。また、そこにいる人々。社会での人々との交わりや活動の範囲のことです。

世間は本来仏教語で、「場所」を意味するサンスクリット語「loka」の漢訳です。「世(せ)」や「世界」とも訳されます。

「世」は変化してやまないこと、「間」は空間の意味です。

つまり、世間は物事が起こり、滅ぶ空間的な広がりのことで、「無常」「煩悩」の場所を指しました。

この世の悩みや迷いから離れることや、煩悩を乗り越えることを「出世間」といい、「出世」の語源にもなっています。

3.正鵠を射る(せいこくをいる)

正鵠を射る

正鵠を射る」とは、物事の要点を正しく押さえることです。正鵠を得る。

「正」「鵠」とも弓の的の中心にある黒点の意味があり、同様の意味で「正鵠」という熟語が古代中国で生まれました。

「正鵠」は的の中心の意味から、物事の要点や核心の意味に転じました。

明治時代に物事の急所や要点を正確につく意味で「正鵠を得る」が生じ、「正鵠」に「的」の意味があるところから、昭和に入って「正鵠を射る」の形が生まれました。

他人の間違いを指摘するのが大好きな人は、「正鵠を得る」と聞くと「誤用だ」と言いたがります。

しかし、上記の流れからもわかるとおり、元々は「正鵠を得る」であり、そこに的を射る意味が重なり「正鵠を射る」となった言葉なので、「正鵠を得る」を誤用とするのは間違いです。

「鵠」を日本では「くぐい」と読み、ハクチョウの異名として用いられる漢字ですが、「鵠」が的の意味を持つようになったのは、的の中心が黒ではなく白かったためといわれます。

4.倅(せがれ)

倅の了見

せがれ」とは、自分の息子をへりくだっていう語、他人の息子や若者をぞんざいにいう語です。

「せがれ」は室町時代から見られる語で、古くは女子に対しても用いられました。

せがれの語源は、「やせがれ(痩せ枯れ)」の略といわれます。

「痩せ枯れ」に由来するのは、中国戦国時代、楚の政治家で詩人の屈原の『漁父辞(楚辞)』の中に「顔色憔悴し、形容枯槁す」とあり、「憔悴」を「やせ」、「枯槁」を「かれ」と読んだことに基づきます。

そこから、自分の子を卑下して「やせがれ」と言い、「や」が略されて「せがれ」になったというものです。

5.是非とも(ぜひとも)

是非とも

是非とも」とは、どうしても、必ず、ぜひぜひということです。何卒。

「是」は「正しいこと」、「非」は「不正」の意味で、本来、「是非」は良いことと悪いことを表す名詞です。
「とも」は「共に」の意味で、是非ともを全て漢字にすると「是非共」と書きます。

是非ともは「事情が良くても悪くても」「どうであろうとも」という意味から、「どうしても」「必ず」という意味の副詞になりました。

それに合わせ、本来は名詞の「是非」が、副詞としても用いられるようになりました。

「是が非でも」という表現も、「善が悪であっても」というところから、「何としてでも」の意味で使われています。

6.世紀(せいき)

世紀

世紀」とは、西暦を100年単位で一期とする年代の数え方です。21世紀は2001年から2100年まで。一続きの時代。

世紀は、英語「century」の訳語です。

当初「century」には「百年」や「世期」など様々な訳語が用いられましたが、明治20年頃から「世紀」で定着していきました。

漢語では、ある事柄に特徴づけられる一纏まりの時代を表し、「科学の世紀」や「宇宙の世紀」などの表現は「100年」の区切りから派生した用法ではなく、漢語本来の意味からです。

「世紀の大事件」など「未曾有」「非常に希」といった意味で用いるのは、「100年に一度あるかないか」の意味からなので、「century」の訳語が派生したものです。

「世」の漢字は「十」の字を三つ並べ、その一つの縦棒を横にのばして「三十年間にわたり期間がのびること」を表した字で、「長くのびた期間」や「時代」を意味します。

7.芹(せり)

芹

セリ」とは、田の畦や川岸など湿地に自生するセリ科の多年草です。水田で野菜としても栽培されます。「春の七草」の一つ。

セリの語源には、一所に競り合って生えるところから「せり(競り)」や、迫り合って生えるところから「せまり(迫り)」。煮て食べると「セリセリ」とがするところからなど諸説あります。

有力とされているのは、「競り」か「迫り」の説ですが、セリ以外にも競り合うように生えている植物は多く、セリよりも密集して生える植物も多いため疑問が残ります。

アイヌ語でも「seri」と言うため、アイヌ語から日本語に入ったとも考えられますが、アイヌ語の「seri」は日本語からの借用と考えられています。

「芹」は春の季語で、次のような俳句があります。

・我がためか 鶴はみのこす 芹の飯(松尾芭蕉

・これきりに 径尽たり 芹の中(与謝蕪村

・薄曇る 水動かずよ 芹の中(芥川龍之介)

・せせらぎつつ 揺れつつ芹の 生ひにけり(松本たかし)

8.節分草(せつぶんそう)

節分草

セツブンソウ」とは、山よりの雑木林などに自生するキンポウゲ科の多年草です。関東地方以西に分布。

セツブンソウは、節分の頃に花を咲かせることから、この名がつきました。

ただし、セツブンソウの花が節分の頃に咲き始めるのは暖かい地方で、寒い地方では3月の上旬頃に咲き始めます。

「節分草」は春の季語で、次のような俳句があります。

・節分草 墓石と共に 日当りて(村上ヨ子)

・節分草 蕾むも小豆 程なりき(松崎鉄之介)

・節分草 木々の息吹を 地にあつめ(渡辺立男)

・早春賦 奏でるごとく 節分草(松岡和子)